55.孤児院への慰問(2)
「わたくしもあ、あい……」
「?」
孤児院に到着して早々、わたくしは婚約者を見つけたかと思えば一気に距離を縮められた上で唇を奪われた。
わたくしがアーシャ様の代理として王都下町の孤児院にやって来ると、そこには「当日は仕事だからいない」と言われていた婚約者のフレデリク様がいらしたのだ。
この前のアーシャ様の話しぶりから、今日は会えないものだと思っていた。
しかし、目の前に彼はいる。フレデリク様が言うのだから、きっと仕事はもう大丈夫なのだろう。
「……わたくしも会いたかったです。フレデリク様……でも、どうしてここに?」
「以前孤児院に気を付けて来るようにと言ったであろう? あと、今日はフレッドと呼んでくれ。一応お忍びでな……」
「え?」
フレデリク様いわく、今日の彼はわたくしの護衛という体で来ていることになっているらしい。
王太子が来るとなれば相手も気を使ってしまうだろうからということだったが、今までアーシャ様も来ていたのだからそれは理由にならないと思う。
「いや、母上は何度もここに来ていて多少無礼なことをしてもお目こぼししてくれるとわかっているからよいのだが……私は生憎来たことがなくてな」
「あれ? でもわたくしは」
「母上はイェニーのことをここの管理者に『訳があって物心つく前から孤児院で育てられた令嬢』と伝えたらしいから問題ない。今日は仕事だと思ってフレッドと呼んでくれ。もうフレッドと名乗ってしまったのだ……貴女自身のことは私でもわたくしでも好きに自称してくれて構わない」
「えっと……フレッド、さん?」
彼はわたくしの言葉に溜め息をついた。それもそうかもしれない。以前お忍びでデートに行った時は普通にフレッドと呼べたのだ。
婚約者だと意識してしまったせいなのかもしれないが、呼べなくなってしまったのは逆戻りもいいところだと思う。
「……わかった。今はそれでいい」
「は、はあ」
軽い打ち合わせを終えると、わたくしたちはこの孤児院の管理者だというおじさんのもとへ向かった。
「ようこそお越しくださいました。このような場所で立ち話もなんですし、建物の中に入りましょうか……私はここの神父兼孤児院長をさせてもらっております、ダレンと申します」
「イェニー・リチェットと申します。本日は王妃殿下の代理として参りました」
「聞いております。ひとまず中に入りましょう。ご案内いたします」
いかにも神父というローブに身を包んだダレンさんは、物腰が柔らかだ。
眼鏡の奥にある黒の瞳はつぶらで、わたくしをも慈しんでいるようだ。わたくしたちは案内されるがままに孤児院へと入っていった。
ちなみに、ベスは御者のおじさんと共に少し離れた場所に馬車に乗って行った。孤児院前にいつまでも馬車が止まっていては通行の邪魔にしかならないというのが理由だ。
昼食を外で食べ終わったら頃合いを見て迎えにきてくれることになっている。
院の中はおおくの子供たちで溢れかえっていた。本当に元気がいい。内装もきれいで、食事も十分に行きわたっているらしかった。美味しそうな香りもするが、これは昼食ではなくクッキーか何かしらのおやつなのだろう。
孤児たちが寝る部屋、地域の子供たちにも開放された勉強会。
事前にアーシャ様に一通り聞いていたが、どこを見てもこの孤児院には支援が行きわたっているように見える。
他の孤児院はそうでないのかもしれないけれど、少なくともここは問題なさそうだ。
だが、一見問題がないとはいえ本当はあるならアーシャ様に報告しなければならない。わたくしはアーシャ様の代理なのだ。
「子供たち、元気ですね。わたくしのいた孤児院と比べると人数も多くて……こんなにたくさんだと、食料とか大丈夫なのですか?」
「そうですね。ここ数年は問題ありませんでしたが、十年ほど前でしたか……一度食糧難に陥ったことはあったようですね。ですから、今日明日にこの生活が崩れるとは思いませんが、来年再来年となってくると意味合いが異なりますね」
横で真剣に話を聞くフレデリク様。彼は政務に携わっている分、わたくしなんかよりもっと勉強しなければならないのだろう。おそらくこれもその一環だ。
仕事が終わったのに仕事を始めているあたりが、フレデリク様らしいといえばそうなのかもしれないけれど。
☆☆☆☆☆
「……本日はありがとうございます。お嬢様がいらっしゃると言い聞かせただけで教室の子供たちが普段よりお利口になったのです」
「いえいえ、わたくしは何もしておりません」
「それから、これは貴族のお嬢様にお出ししてよいものか分かりませんが……」
入口近くの廊下でそのようなやりとりをしたわたくしたち。ダレンさんは話の途中で言葉を切り、厨房と思わしき一室へと入っていった。
普通の貴族は厨房に入らないのが常識らしいので、わたくしが案内されることはない。
その後、再び出てきたダレンさんは小さな紙袋を抱えていた。
「こちらは、時々この孤児院に様子を見に来てくれるお嬢様が作ったクッキーです」
「ありがとうございます。お菓子を作るお嬢様って珍しいですね」
「やはり貴女もそう思いますか……」
「はい。ですが、お菓子を振る舞うというのは素敵なことだと思います」
材料までご持参のものを使っていますからね。ダレンさんはそう口にする。恵まれない者に寄り添い、慈しむことができる彼女は賞賛されるべきだと思う。
もちろん恵まれない環境で精一杯生き抜く民もまた賞賛されるべきだとは思うけれど……それはさておき。
「あの、わたくしもそのお嬢様と厨房でクッキーを焼いてもよろしいでしょうか?」
「そうですね……」
「えっと、ご迷惑でしたらやはりやらなくても大丈夫で」
その時、厨房の扉が勢いよく開かれた。二人の人影が飛び出してくる。小さな子供はすぐに大きな影に捕らえられる。
「クッキーいただ……いでぇ」
「先に食べちゃダメ!」
「……ミア? どうしてここに」
そこにいたのは、紛れもなくミアだった。今は使用人の制服ではなく、私服を着ているが顔と声でわかる。
彼女は少年の背中に半ば馬乗りになって膝をついていた。わたくしが声をかけると、彼女は歯車のかみ合いが悪くなってしまったゼンマイ仕掛けの玩具のようにギギギっという音が立ちそうな動作でこちらを向いた。
「おおおお嬢様!? どどどどうしてここに……そうだった! お嬢様は今日孤児院に慰問に行くって……でもここだったなんて!」
「イェニー。これはお前の使用人か? 態度が悪くないか?」
「彼女はわたくしの使用人のミアですけれど……態度は悪くないと思います」
事前の打ち合わせではわたくしの護衛的だという話だった気がするが、フレデリク様に限って忘れたということはないと思う。
とりあえず少年からクッキーを取り上げて自分の口に入れてしまったミアを見て、フレデリク様が肩を竦めたのは横目に見えた。そして、わたくしの耳元で彼が囁く。
「今日はフレッドと」
「わかっており……わかってますって!」
ミアの目の前で大声を出したのが恥ずかしくてちょっと顔が熱を帯びる。
わたくしはミアに自己紹介するように言った。王宮について行くのはいつもベスだったから、彼女はフレデリク様と面識がないのだ。
「イェニーお嬢様に仕えています! ミア・ココットといいます!」
「ココット……ああ。男爵家のご令嬢か。たしか今年でじゅうろ」
「フレ、ッドさん! 年齢は」
「そうだった……気をつける」
こちらを生温かい目で見つめるダレンさん。彼はもはやフレデリク様が従者だという話を信じていないのだろう。従者と考えれば彼の態度はミアの数倍は悪い。
もはやお忍びの意味がない気がする。意趣返しにフレデリク様と普段通りに呼ぼうかと思ったけれど、仕返しされるのでそれはやめた。
そんなことを考えているとはつゆも知らないのだろう。ミアがこんな提案をした。
「とりあえず、こっちの部屋でクッキーパーティーにしません? 子供たちの分もあるのでちょっとだけですけれど」
結局立ち話をしているわたくしたち。ダレンさんも頷いているので、わたくしはその提案を受け入れることにした。
ひとまずミアには馬乗りをやめるように言いつける。解放された少年と共に机を囲み、わたくしたちは空き部屋の椅子に座った。




