46.フレデリク様のお願い
午後から始まったはじめての王太子妃教育は、アストランティアの公用語だった。
国賓として彼国の王太子殿下がやって来るという理由で、先にある程度詰めておこうという計画なのだとか。先生はアストランティアから来た方らしい。
文法というものは似ているけれど、なにぶん使う言葉が違う。わたくしが貴族の言葉をなんとなく理解できたのとは雲泥の差だ。
たまに孤児院で使っていた言葉に似た響きの単語があるぐらいで、ほとんどわからない。
そうして頭をしっかり使った後は母語の方も言葉の矯正、もとい貴族としてふさわしい言葉遣いがいかなるものかをみっちりと指導されることになった。
とにかく、まずは言葉からといったところだろうか。こちらは以前セルマ夫人に教えてもらったけれど、それよりも数段は厳しい。
その日わたくしが解放されたのは夕方になってからだ。正直、疲れた。終わるや否や、わたくしは侍女の方から声をかけられた。
「イェニー様、フレデリク殿下がエスコートしようと仰っております」
「フレデリク様が? でも、ご迷惑では。殿下は忙しいですし……」
「他ならぬ殿下ご自身がそうおっしゃっているのですから問題ありません。特に問題ないようでしたら早く向かいましょう。殿下を待たせてしまいます」
もう待たせてしまっているのか。せっかくのフレデリク様のご厚意を無下にするわけにはいかない。
というわけでわたくしは彼女に案内されるまま外の馬車まで連れていってもらった。
すると当然といえば当然なのだが、そこには馬車にもたれかかる人影があった。
彼はわたくしに気づくと、こちらまでやって来てわたくしに華麗な礼を披露した。わたくしも淑女の礼を返す。
「今日のレッスンが終わったと聞いてな……帰りのエスコートをしに来たのだ」
「ありがとうございます。帰りもご一緒できるなんて、嬉しいです。でもフレデリク様もお忙しいのではありませんか?」
「そんなこと……イェニーは私の婚約者なのだ。婚約者をエスコートするのは紳士の義務だろう? だから、イェニーを家まで送っていくことも立派な予定だ。気にする必要はない」
「……はい。わかりました」
わたくしは彼に笑顔を向ける。そして今朝のごとく差し出された手を取り、馬車の中に乗り込んだ。
続けて、フレデリク様がタラップに足をかけ、わたくしの隣に腰かける。わたくしたちが座ったのを確認した御者の方が扉を閉めると、やがて馬車はリチェット邸へと走りだした。
カタコトと回る車輪に街の喧騒。馬車の中はそんな外界から切り離された二人きりの別世界のようだ。音のないこの小さな世界がとても心地よい。
ふと、フレデリク様が何を思っているのか気になってしまった。彼の方を見ると、ちょうど彼と顔がばっちりあってしまう。
濃紺の双眸が細められ、自分から気になってフレデリク様の方を向いたというのに、見つめ返されると途端に身体が熱を持ってしまった。
「どうした?」
「いえ……何でもありません」
この沈黙をフレデリク様も心地よく思ってくれているのかが気になりました! だなんて言えるわけがない。
いくらお互いのことが好きだからといって、同じ感覚を共有していてほしいだなんてあまりに身勝手すぎる。
「時にイェニー……お願いがあるのだが」
「? どうしました?」
わたくしは先を促した。フレデリク様はいつもわたくしを喜ばせてくれるのだ。そんな彼のお願いを叶えないわけにはいかない。
彼から目を逸らすこともできず、わたくしはそのままフレデリク様の次の言葉を待った。
「以前にも頼んだのだが……私のことをフレッドと呼んではくれないだろうか。……いや、二人きりの時だけでよいのだがフレッド、と」
「フレデリク様……?」
「その、無理にとは言わないが、今のように他の誰かがいない時だけでも、そう呼んでもらいたいのだ……」
「…………」
フレッド。二人で王都に行った時はお忍びだったから、貴族とはばれないようにという理由でそう呼ぶことをお願いされた。
じっさい、わたくしもそれを了承して「フレッド」と呼んだし、くだけた言葉遣い──つまり、孤児院で使っていたそれ──に戻したのだ。今思えば随分と不敬なことをしてしまったな、と思う。
「あの、それは不敬では……」
「問題ない。二人きりの時と言っただろう? 私が貴女のことを不敬罪で問うと思っているのか?」
「……いえ、そのようなことは」
思っていません、わたくしは頭を振って否定した。今さらフレデリク様がそのようなことをするとは思えない。それぐらいにはわたくしは彼のことを信頼しているのだ。
とはいえ、それならば彼のことを気軽にフレッドと呼べるかといえばそれはまた別の話で。
「でも、フレデリク様のことをフレッドと呼ぶのはわたくしにはまだ難しいです……」
感情的に、という意味ではそう簡単にはいかない。こう言われてもさすがに馴れ馴れしいのではないか、とか思ってしまうのだ。
「そうか……この前の夜会の時はそう呼んでくれたのに、今はいけないのか……?」
「そ、それは……」
あの時に意趣返しを試みたのはわたくしだ。自業自得と言われたらそれは事実だから仕方がない。
とはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。わたくしはいたたまれなくなって俯いてしまった。
「……いや、無理にとは言わないのだが……そう呼んでもらえると嬉しい。また考えておいてくれないか?」
「……わかりました」
「待っている。時々尋ねたくなることもあるかもしれないが、それは許してくれないか?」
彼のその言葉にわたくしは顔を上げた。彼の後ろに夕日があるせいなのだろうか。そう告げるフレデリク様の笑顔がとても眩しい。
再び訪れた沈黙は先ほどのそれとは違って、何だか落ち着かなかった。
☆☆☆☆☆
馬車が急に止まる。わたくしがはっと動いたせいか、こちらに身体を向けるフレデリク様。
どうやらわたくしはいつの間にか下を向いていたらしい。せっかく彼が同乗してくれたというのに、何てことをしてしまったのだろう。
わたくしは彼の方を向き直して謝罪の言葉を述べた。
「す、すみません……」
「イェニー……」
いつもより数段低い声で名を呼ばれたわたくしはさらに背筋を伸ばして彼の方を見た。わたくしの瞳に映ったのは、彼の険しい顔だ。
「フレデリク、様……?」
「これから、王太子妃教育がある日は毎日こうして送り迎えする」
「いえ、結構です。フレデリク様のお仕事の邪魔をするわけには」
「私は愛しの婚約者とのひと時すら持ってはいけないのか……」
そう頭を抱えるフレデリク様。たしかに、彼が言ってくれていることは本当に嬉しい。
だが、繰り返しになるがわたくしはお仕事の邪魔をしたくないのだ。
例えば殿方は仕事のある日にデートに行きたいと婚約者からねだられると、非常にストレスになるという話をどこかで聞いた。
そうして再びお断りしようとしたわたくしはふとあることに気づいた。
昼食を共にとることができるではないか。その方がきっと彼が仕事する時間の邪魔にならないはずだ。
しかし、わたくしの考えていることを彼はすっかりお見通しだったようで。
「ちなみに、昼食は勉強会のようなものだからイェニーとの時間ではあるのだが、馬車とは別だ。それに、休憩時間は大事だろう? イェニーに会わずに仕事を続けるより、こちらの方がずっと効率がいい」
「会わずにって、それじゃあ」
「こういうのは何度でもあった方がいい。昼食の後でフランツに小言を言われながら作業を続ければ集中力も落ちるというものだ」
その言葉にわたくしは考え込むように目を伏せた。つまり、フレデリク様はお仕事に時間を使うよりもわたくしと一緒に馬車に乗っていたいのだと思ってよいのだろうか。
しかし、それこそわたくしにとって都合のよい夢なのではないか。王宮とリチェット侯爵邸を一日二往復するとなれば、その時間はかなりのものだ。
にもかかわらず、その時間をわたくしと共に過ごした方が結果的に仕事がはかどるというのは、どういうことなのだろう?
瞼を上げると、再び彼と目があった。
わたくしにとっては夢のような、しかし彼にとってはきっと心配りなのであろうこの頼みに、わたくしは答えを返さなければいけない。
真に彼にとって利益となることを考えた上で、である。
というわけで、わたくしは彼の利益が何たるかを見抜くべく、質問を投げかける許可を求めた。
「答える前に、ひとつ聞いてもいいですか?」
「ああ」
わたくしは、彼のお願いがわたくしのためを思って言っていることかどうかを尋ねてみた。提案はフレデリク様がわたくしの願望をくみ取ったものではないのか。
それを聞いたフレデリク様は驚いたように目を見開き、そのまま笑い出した。
「フ、フレデリク様?」
「そうか……いや、イェニーも私と共に少しでも一緒にいたいと思ってくれているのだと思うと、何だか可笑しくてな……笑ってしまってすまない」
「いえ、いいんです。それで先ほどのお願いについてですが……本当に一緒でいいのですか?」
「ああ。もちろんだ。私は仕事に時間を使うよりも、イェニーと一緒にいたいのだ。それに、その方が効率も上がるのだから問題ない」
そう告げるフレデリク様は、これでもかというほどに相好を崩していた。
やがて、馬車はリチェット家の邸に到着した。いつものように降りる手助けをしてくれるフレデリク様に感謝の言葉を告げ、石畳に足を置いた。
そこから、ほんの少しの距離ではあるものの、わたくしはフレデリク様に扉まで導かれる。
玄関扉が内側から開かれると、そこにはお姉様が立っていた。今日も今日とてゴージャスなドレスだ。
隣から舌打ちのような音が聞こえてきた気がするが、今わたくしの隣にいるのはフレデリク様だけなので気のせいだろう。
「ようこそいらっしゃいました、フレデリク殿下。あとおかえりなさい、イェニー」
「フアナ嬢……ひとつ言っておくが、私はイェニー以外と結婚する気はない」
「はい、存じ上げております。それはそうと、ヴィクトー様へのお手紙は」
「それなら問題ない。私がイェニーの家族と私自身の部下の間に不仲を起こそうと考えるとでも?」
「ならよろしいのです……イェニー、そろそろ夕食の時間よ。それでは殿下、そういうことですので、本日はお引き取りください」
「……? ああ。イェニー、また明日も迎えに来る……またな」
そう告げた彼はわたくしの手をとり、口づけを落とした。それだけで真っ赤になってしまったわたくしは、馬車に向かって歩いていく彼の後ろ姿をただ茫然と見つめるしかなかった。




