45.王太子妃教育一日目(2)
「本当に、何かあったら私を頼れ。いいな?」
「わかってますって。それじゃあ、行ってきます」
わたくしはフレデリク様に王宮内のとある一室へと案内された。フレデリク様にはフレデリク様のお仕事があるらしく、わたくしたちは部屋の前で別れを告げた。
その後わたくしは侍女の方に促されるまま、室内の椅子に腰掛ける。
いつもの応接室にあるソファとは違い、この部屋にある椅子はすべて一人掛けだ。金のフレームに座面は濃紺のクッション生地。隙間が空いて同色の背もたれと、フレデリク様の色にどことなく似ている気がする。
そして椅子に限った話ではないが、室内の調度はどれも豪華で思わずピンと背筋が伸びてしまう。さすが王宮だ。
どれくらい経っただろうか。侍女の方と二人きりの部屋の外に、いくつかの足音が響く。
足音が部屋の前で止まったかと思われると、入口の扉が開かれた。そこに現れたのは予想外の人物で、わたくしは息を飲む。
「リチェット侯爵家のご令嬢が待っているというのはこちらの部屋で間違いなかったかしら」
王妃殿下だった。わたくしは心の中で王妃様と呼ばせてもらっている。彼女は自身の侍女にわたくしの居場所を問いかけているらしい。
部屋の入口からは離れているのに、声はここまで届くほど透き通っている。
「あら本当。貴女がリチェット家のご令嬢にして、フレデリクの婚約者となったイェニー嬢ね。フレデリクの選んだドレスを着ているということは、そうよね?」
「はい。以前夜会の場で挨拶できなかったご無礼をお許しください。イェニー・リチェットです」
入口からこちらに歩いてくる彼女。その姿勢があまりによいためか、起立したわたくしも背筋が伸びてしまった。
フレデリク様のプラチナブロンドの髪は王妃様譲りのようだ。
ラベンダー色の瞳はどこか蠱惑的で、ともすれば守ってあげたくなるような雰囲気を醸し出している。きっとお淑やかな方なのだろう。
彼女が近くまで来て立ち止まった気配を感じたわたくしは、深々と礼をした。
「そう……あれはそういう場だから気にしなくてもいいけれど……貴女今『です』って言ったわね?」
どうやら王妃様の触れてはいけない何かを刺激してしまったらしい。ドスが効いていてちょっと怖い。それからは王妃様の独り舞台もいいところだった。
「まずは話し方から矯正していきましょうか。下位の貴族令嬢ならそんなものだと思うのだけれど……貴女は孤児院育ちとはいえ侯爵令嬢なのですし。今後はフレデリクの婚約者としていずれは王家に嫁ぐ身なのですから、その程度では、ね? 以前のお芝居のことではないけれど、本当にエリーゼの言動を見習ってほしいものね」
「は、はい……」
「口ごもらない!」
「はい!」
王妃様はその甘い顔つきからは想像もつかないほど苛烈な方だった。少々苛立っているのだろうか。手に持った扇を閉じたまま、もう一方の手に軽く叩きつけて、こちらに厳しい視線を送っている。
人間見た目によらないとはこのことなのだろう。彼女はそれで、と話を続ける。
「今日から貴女には王太子妃教育を受けてもらうのだけれど……何か質問はあるかしら?」
「いいえ。ないで……ありません」
「このような時は『ございません』と言うの! いい?」
「わかりました」
「……はぁ……もう一々指摘するのも疲れてきたわ。お茶にしましょう……午後からはみっちりと勉強してもらいますからね。もう貴女はご存知だとは思いますが、わたくしはアレクシア・エナトス。この国の王妃よ」
「……はい。存じ上げております。お茶、ですね」
この後、彼女の目が大きく開かれたのは言うまでもない。
☆☆☆☆☆
「疲れた……」
お茶会という名の質問攻めに言葉の矯正の雨あられが終わり、王妃様から解放されたわたくしは王宮の一室へと案内される。
入ってみるとそこもまた、わたくしが来たことのない部屋だった。
ここで待っていてくださいと言われたので、それに従って待つこと数分。扉がノックされる。
廊下から入ってきたのはフレデリク様だった。わたくしが椅子から立ち上がると、彼はわたくしの方に近づいてきた。
人目もあるので淑女の礼をとろうとしたのだが、フレデリク様に制止された。
「イェニー、母上からは苛められなかったか?」
「いいえ。苛められなかっ……ませんでしたけれど」
「……。母上はあのような顔をしているのに、とても怖い。父上やフランツなど比でもないほどにな。何かあれば言ってくれ。言い負かされたことしかないが、私が対処しよう」
そう言ってくれるフレデリク様の存在が心強い。でも、フレデリク様が言い負かされるなんて。そう尋ねれば、彼女にだけは勝てたことがないのだというフレデリク様。
思わず、頬が緩んでしまって訝しげな視線を向けられたけれど、それがおかしくて余計に笑ってしまった。
自分がその王妃様と対峙していた先ほどまでの緊張が解けていく。
その後わたくしは、フレデリク様に促されるまま席についた。
王太子の彼を差し置いて座るのはおこがましいのではないか、と思ったのだが……わたくしに先に座るように言って聞かないので、ありがたく彼の厚意に甘えることにした。
その後、彼もまたわたくしの向かいの椅子に座る。
「このようにきちんとした昼食を共にとるのははじめてだな」
「はい。カフェでスイーツを食べたり、下町でティムクを食べたりはしましたけど」
「あれはお忍びだったからな。ここでなら何かを隠す必要もない」
そう言って穏やかな笑みを浮かべるフレデリク様。わたくしがここに連れて来られたのは、フレデリク様と昼食を取るためらしい。
カフェに行ったりお茶を飲んだりと彼と飲食を共にしたことはあったのだが、言われてみればきちんとした食事ははじめてかもしれない。
やがて、食事が台車に乗せられて運ばれてきた。
今日のメニューは牛肉の煮込みに新鮮な葉物野菜のサラダに……かぼちゃのポタージュだろうか。
量自体は特段多いわけではないけれど、高級品だと思うと胃が痛い。元平民には過ぎたものだ。
フレデリク様に聞けば、王宮でも毎日出るメニューではないらしい。今日はわたくしのために出してくれたらしく、申し訳ない。
もちろん食べない方がもったいないので今回は食べるけれど。
そうした気持ちがバレたのか、フレデリク様は肉を切ろうとしていたカトラリーの手を止め、こちらに目を向けた。
「イェニー、遠慮する必要はない。それとも量が多すぎただろうか」
「いえ、量はちょうどいいぐらいなのですが……フレデリク様。今度からはこのように豪華な食事を用意してもらう必要はありませんからね?」
「今度から……そうだな、毎回はやめよう。昼食の時間を毎回勉強にあてるわけにはいかないからな」
毎回このような料理を用意するつもりだったのか。そんなことになっていたら冗談抜きで胃もたれするところだった。
それはそうと、この食事からは想像もつかない「勉強」という言葉が出てきたことにわたくしは首を傾げた。
「この昼食はイェニーが国内各地の特産品について直接見て勉強できるように、と私が手配したものだったが……やはり」
「いえ。わたくしのことを思って用意していただけたのですから、とても嬉しいです」
そう告げると、フレデリク様は満更でもなさそうだ。わたくしは婚約者というだけでこれほどの料理を用意してもらえたのだと思った。しかし、そんなことはなかったらしい。
人は自意識過剰だとよく聞くけれど、わたくしも間違いなくその一人なのだ。
「というわけだ。できれば毎日勉強にあてようと計画していたのだが……無理強いはしない。かわりに勉強と関係ない、勉強を忘れられる料理にしよう」
「あの、それには最高級の食材を使ったりとか……」
「もちろんだ」
「……! それでは今日のように、勉強の食事でお願いします」
「さすがに毎日のように勉強するのはきついかと思ったのだが……」
勉強ですらないのに高級食材を使った食事をいただくなど、恐れ多くてできない。それもしょっちゅうとなればなおさらだ。
わたくしはフレデリク様が最初に考えていたレッスンに乗ることにした。
「そうか。それでは今日の昼食だが、この牛肉は……」
どの領地、どの地域で取れた食材かという話は重要だ。
わたくしがこれから王太子妃となったあかつきには、国内の各地から届いた食材がふんだんに使われた食事を取ることも少なくないだろうから。
まぎれもなく、それは平民の皆が頑張って作ってくれたものだ。どこの方のものか、わたくしはたとえ生産された地域だけであっても知る義務があるだろう。
これからの勉強を何としても物にしなければ。そうわたくしは決意した。




