44.王太子妃教育一日目(1)
フレデリク様が我が家を訪れてから一週間が経った夕方。わたくしが書庫からの帰りに玄関を通ると、ホールの一階にはお姉様がいた。
使用人の方に聞けば、婚約者のヴィクトー様の家、つまりサテムズ侯爵邸から帰ってきたところなのだとか。
ちょっと気になったので一階に下りてみると、お姉様は随分と気を悪くしていた。周りにいた使用人たちはひやひやした目でこちらを見ている。
「おかえりなさいませ、お姉様……どうしました?」
「イェニー! ……いや、あんたに怒っても仕方がないわね。これ、フレデリク殿下からのお手紙だとヴィクトー様が」
そう言って「ん」と顎を上げるお姉様。受け取れという意味だろう。わたくしが封筒を受け取ると、お姉様は突然愚痴を言い始めた。
「あー! どうしてあんなにも常識がないのよ! 伝書鳩扱い……そうよ、自分で運べばいいのに!」
お姉様は怒り心頭といったご様子だ。この状態ではなだめても焼け石に水だろう。
いや、むしろ怒りの矛先がこちらに向く。それから数分ほど叫び続けたお姉様は多少スッキリしたのか、階段を上っていった。
ヴィクトー様には別に悪い印象はなかったが、お姉様から見れば違うのかもしれない。
そう結論づけてわたくしも下りた階段を再び上り、自室へと戻った。ペーパーナイフを持って真ん中のソファに腰かけたわたくしは、早速手紙を開いてみる。
「えっと……なになに」
書かれていた内容を要約すると、フレデリク様の現状と、わたくしのこれからについてだ。
フレデリク様は現在、フランツさんに執務室に閉じ込められっぱなしになっており、ヴィクトー様とお姉様を通して手紙を届けるようにしたらしい。
あと、お姉様というかヴィクトー様への愚痴がちょっと挟まっていた。もう一枚入っていた紙に書かれていたのは、わたくしが受ける王太子妃教育についての詳細だ。
国内外の貴族の顔と名前を一致させることに始まり、各領の特産品、諸外国語、ダンスにマナー……と盛りだくさんの内容だ。数日後からは邸と王宮を往復する毎日が始まるらしい。
ふと、最後まで読んでみると、一枚の便箋がひらりと落ちた。
「これは……え?」
その手紙の差出人はヴィクトー様だった。宛名はわたくし宛てとなっている。王宮から直接届かなかったのは、これが理由なのだろうか。内容を読んだわたくしは拍子抜けした。
「お姉様の気をどうやって引くか教えてほしい……?」
ひとまず、この手紙の真意については王宮に行った時にお二人に聞いてみよう。わたくしはそう決意した。
☆☆☆☆☆
数日後、わたくしが王太子妃教育を受ける日がやってきた。
フレデリク様の手紙によれば、王宮から迎えの馬車がやって来るとのことだ。そのためわたくしは朝食の後、数日ぶりに磨かれていた。といっても、この前の夜会の時ほどではない。
そうして、わたくしは迎えを待つべく玄関ホールに移動した。もちろん、着ているのはフレデリク様を迎えた時と同じドレス……なのだが。
「えっと、お姉様?」
「あんた、王宮に行くんでしょ? だったら、これをヴィクトー様に渡してくれる? この前はあたしがあんたに手紙を届けたんだから、いいわよね? それじゃあよろしく」
有無を言わせぬ様子でわたくしに手紙を押し付けたお姉様は、そう告げるとさっさと自室の方に戻っていってしまった。
この前のはたぶんヴィクトー様のせいです、だなんてとても言えるわけがない。
おそらく、フレデリク様と一緒にいるのだろうから、渡せないということにはならないだろうけれど。
しばらくすると、外が騒がしくなる。ベスが扉の向こう側を確認すべく開けると、そこには一台の豪奢な馬車が待っていた。そして、中から人が降りてくる。
「え……うそ。なんで」
「おはようイェニー。迎えに来たぞ。今日もそのドレスを……とても嬉しい」
フレデリク様が爽やかな微笑みを浮かべて邸の中に入ってきた。
夜会では同じドレスの使い回しは品がないとされるけれど、彼が喜んでいる様子を見るに、今回は問題ないのだろう。
わたくしは淑女の礼をもって彼を迎え入れる。フレデリク様に喜んでもらえてわたくしも嬉しいです、という言葉は心の中にとどめておいた。そうしないと遅刻してしまうかもしれない。
「手を」
そう告げられたわたくしは彼に言われるままに手を差し出した。
そのまま馬車までエスコートされていくわたくし。フレデリク様も中に乗り込むと、馬車は王宮に向かって出発した。
その後、開口一番に彼が言った言葉にはどこか棘があった。
「ところで、その手紙は? ──ヴィクトー宛て?」
「あ、お姉様のです。フレデリク様からヴィクトー様を通した手紙をお姉様が持ってきてくれたのでかわりに、と同じことをさせられているだけです」
「そうか。あのようなことをヴィクトーが言わなければ、このようなことには……では上司たる私が部下である彼に直々に手渡してやろう。イェニー、それをこちらに」
お姉様は別にヴィクトー様に手紙を届けるのはわたくしでないと駄目とまでは言っていなかった。フレデリク様に任せた方が邪推を呼ばなくて済むだろう。
わたくし、ひいてはフレデリク様の名誉のためにもその方がよいはずだ。
というわけで手紙を彼に差し出す。フレデリク様を伝書鳩扱いするのは気が引けるが、背に腹は代えられない。
「よろしくお願いします」
「間違いなく届ける。そうしなくては厄介だからな……」
厄介とは。それはともかく、手紙を渡したからかちょっとだけ肩の荷が下りる。もちろん、これから王太子妃教育が始まるのだから全く気は抜けないけれど。
「あの日を思い出すな……」
「! ……はい、フレデリク様」
わたくしはあろうことか、今の状況を忘れていた。そうだ。わたくしはフレデリク様と馬車の中で二人きりだったのだ。思い出すのはあの日のことだ。
婚約した今となってはそこまで動揺しないが、あの頃のわたくしには刺激が強すぎた。
「あの日は私の片想いだと思っていたが……とうの昔からイェニーも私のことを好いてくれていたのだな」
「そう、ですね。それがどうしました?」
「考えるほど、どうしてもっと早くに両想いだと知ることができなかったのだと……そう思ってしまうのだ」
「物事には決まった順序というものがあると聞きますし……今両想いなんですし、問題ないのではありませんか?」
わたくしはつとめて明るくそう告げる。フレデリク様の言いたいことはわかる。わたくしだってそうなのだ。
でも、過去のことを嘆くよりも今を、これからを明るく生きていく方が幸せなのではないだろうか。
「そうだな……私はイェニーが隣にいてくれるだけで幸せだ」
「それはわたくしもです、フレデリク様」
わたくしたちは互いに笑顔を向けた。と、そこでフレデリク様が何かを思い出したかのように咳払いをした。
「……イェニー。無理はしなくていいからな」
「何の話ですか?」
「今日から王太子妃教育だろう? 辛かったら私に言え」
彼の方を再び見れば、彼の言葉が心からのものだということが一目瞭然だ。
しかし王太子妃教育の何たるかは、きっとわたくしよりもフレデリク様の方が詳しいのだと思う。だからこんな顔をしているのだ。
「心配はいらないですよ。だって、わたくしはリチェット侯爵の娘で、フレデリク様の婚約者ですから」
「……そうか。少なくとも母上は明らかな嫌がらせなどしないと思うが……そのようなことがあればすぐに私に言え。いいな?」
そう告げるフレデリク様の顔は真剣そのものだ。その迫力に蹴落とされたわたくしは、コクコクと頷くしかなかった。
やがて、馬車はいつものように王宮前の開けた丘に停まる。わたくしは先に降りたフレデリク様の手を借りて、タラップに足をかけた。




