43.フレデリク様の来訪(2)
フレデリク様の話によるとあの夜、会場にはアストランティアからエナトスに常駐している使節も招待されていたらしい。
国王陛下は使節団にあの劇を行う話を通していたというのだが、団長以下の部下に共有されていなかったのだそうだ。
その上、当日は団長が体調不良で欠席し、事前に話を知らなかった部下がエリーゼ様の態度を非友好的なものと見なして途中退出していった……というのがアストランティア使節団側の言い分だとか。正直、使節団の不手際ではないかと思ってしまう。
そして、そのままエリーゼ様の演技が事実だとしてアストランティアに伝わり、結果エリーゼ様の行動が本気のそれだと受け取られた可能性が高いらしい。
せっかくわたくしたちの婚約を応援してくださったのに申し訳ない。ちなみに「驚かせてごめんなさい」という謝罪文がわたくしのもとに届いたのは昨日の午後だ。それはさておき。
「つまり、どうすればよろしいのですか?」
「イェニー、まだこの話には続きがあるのだ。今年は二年に一度の交流の年だ」
「交流の、年?」
そう訊き返すと彼は首肯した。エナトスとアストランティアは王妃殿下、つまり現エナトス王妃の輿入れ以来、二年に一度交流することになっているらしい。
常駐の使節団よりも偉い人たち、重鎮を互いの社交シーズンに招き合うのだとか。
「イェニーと会った六年前のあの年は、エナトスからアストランティアに外務大臣を送ることになっていたのだが……アストランティア先王の崩御に伴い、私と母上が向かうことになったのだ。今年は我々があちらから迎え入れる番だな」
「そうですね……しかし殿下。そのご様子だと、今年も交流会は行うということでしょうか?」
「その通りだ。彼女の婚約者だというあの王太子殿下が来る」
お父様がとても貴族らしい話し方をしている……それはさておき「あの」とは。
気になるけれど話の腰を折ることができる雰囲気でもないので、引き続き彼の話に耳を傾けた。
「彼は私の従兄なのだが……いや、実際に会えばわかるだろう。とにかく、使節団は彼女のことを『婚約者がいるにもかかわらず浮気をしようとした』と受け取ったらしい。あくまで推測ではあるがな」
「それは……一大事ではありませんか?」
「その通りだ。だから、誤解を解かねばならない。大きな国際問題に発展する可能性もあるからな。現在その使節はかなりの速さでアストランティアに伝令文を送っているらしいから、誤解を解く時間もない。これは、従兄殿に直接言うしかないだろうな」
そう言って肩を竦めるフレデリク様。彼らの行動力に舌を巻いているようだ。
「それで、わたくしはどうすればよろしいのですか?」
「そうだな……イェニーには王太子妃教育を受けてもらおうと思っている」
え? それがエリーゼ様の名誉を回復するのと、どのような関係があるのだろうか。疑問が顔に出ていたらしく、フレデリク様は優しく教えてくれた。
「いずれイェニーが私と結婚した時に基準まで達していなければ、後ろ指を指されることになるからな。そうなっては他家がしゃしゃり出てきて最悪内乱に発展するかもしれない。私はそのようなことにはなってほしくないのだ。だから、これは私からイェニーへのお願いだ……やはり身勝手」
「わかりました」
「イェニー?」
そのような理由なら、仕方がない。フレデリク様の隣に立つためであればその程度はやってしかるべきだ。
むしろ、満更でもない。フレデリク様のお願いをわたくしが叶えたくないわけがないのだから。
「そうか……では頼む」
「承りました。ところでフレデリク様」
「どうした?」
「あの、その……アストランティアの王太子殿下とはどのような方なのでしょうか?」
「ゴホッゴホッ……」
ちょうど紅茶を飲もうとしていたところだったからだろうか。フレデリク様はわたくしの質問にむせ返した。
「大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫だ。それより、彼のことを聞いてどうするのだ? エリーゼの婚約者だぞ?」
「わかってますって。フレデリク様があのと言うからどんな方なのかな、と気になってしまって」
「もう六年は前の話だから変わっているかもしれないが……説明が難しいな。とにかく、会えばわかる。おそらく、今年は彼も来るだろうからな」
結局、教えてくれないようだ。説明が難しいというのも気になるが、いずれ対面することになるらしいからそれまで待つことにしよう。
「話は以上だが……侯爵。そろそろ席を外してはくれないか?」
「……わかりました。ですが扉は開けておいてもよろしいですね?」
「ああ。問題ない」
「それでは、御前を失礼いたします」
お父様はフレデリク様に向かって礼をとり、退室していった。宣言通り扉は開け放たれたままだ。未婚の男女が密室で会っていては何があるかわからない、という風習から開け放たれているのだろう。ロマンス小説で読んだ。
お父様の後ろ姿を見送ったわたくしはフレデリク様の方に向き直そうとした。しかし、彼は立ち上がったかと思えばわたくしの右隣に腰掛ける。
「フレデリク様?」
「イェニー……!」
そう言うと、彼はわたくしをその腕の中に抱きしめた。たった数日ぶりだというのに懐かしく感じてしまうわたくしは、きっと彼の腕の中が好きなのだ。たぶん。
「そのドレスは、私が選んだ……やはり似合っている」
「はい。ありがとうございます。フレデリク様に選んでいただけたと思うだけで、とても嬉しいです」
彼の息遣いが聞こえる距離。それがちょっとこそばゆい。でも、ここは廊下からまる見えだ。それでも今は誰もいないし、婚約者なら許されるのだろうか。
「扉は開かれているとはいえ、他に誰もいないからな。この数日間、イェニーが足りなかったのだ。迷惑だった、だろうか……?」
「いえ。全然そのようなことは」
そう告げると、彼は安堵したかのように再びわたくしを包み込んだ。
やがて、台車の音が聞こえてきたのを合図に、わたくしは解放される。それがちょっと寂しい。わたくしが足りないというフレデリク様同様、わたくしもフレデリク様が足りないのかもしれない。
やがて音が大きくなってきたかと思えば、入室してきたのはベスだった。
「王太子殿下、お嬢様。お茶菓子をお持ちしました」
「ありがとう、ベス」
「感謝する」
ベスが持ってきてくれたのは、わたくしたちが以前行ったカフェのお菓子だ。チョコレートはもちろん、クッキーやスコーンもある。
フレデリク様がどのようなお菓子を好きなのかがわからなかったので無難にお菓子の詰め合わせを用意してもらったのだ。
「……このことは旦那様にも内密にいたしますので、お気兼ねなく。それではごゆっくり」
お菓子を置いたベスはそんな言葉を残して部屋を出ていった。再び室内には静寂が訪れる。でもそれがとても心地いい。
しばらくすると、フレデリク様がぼそり、と何かを口にしたので聞き返してみると。
「その、だ。イェニーは孤児院では菓子を食べることはなかったのか?」
「そうですね……クッキーを焼いたことはあります。砂糖は使えなかったので、王都のものほどは甘くないのですが」
「そうか……六年前は食べられなかったな」
そう言って肩を落とすフレデリク様。そんな彼を見たわたくしはこんなことを口走っていた。
「作りましょうか? クッキー」
「いいのか? しかし……」
「レシピはバッチリ頭の中にありますし……フレデリク様?」
「あ、いや。食べてみたくはあるのだが……淑女に頼むことではなかったな。忘れてくれ」
そういうことか。迎え入れられて間もない頃、わたくしは厨房に行ってお手伝いを申し出たのだが「とんでもないです」と返されてしまった。
その後お母様に料理人や領地の民の仕事を奪っては駄目なのだと言われて、貴族は料理をしないということを理解したのだ。
しかし。今度の理由はフレデリク様への贈り物を手ずから作るというもので。そのために厨房が必要になるだけだ。
何が言いたいのかといえば、贈り物のハンカチに刺繍を刺すことが許されるのなら、贈り物のクッキーを焼くことも認められてよいのではないだろうか。
というわけで、わたくしは彼の悩みは杞憂だと笑顔で伝えた。
「大丈夫ですよ。フレデリク様へのプレゼントだと言えばきっと納得してくれます」
「それは、期待していいのか……?」
「はい。いつになるかはわかりませんが……」
「待っている。いつでもいい。嫌なら忘れてしまったということにしてくれて構わない」
「そのようなことおっしゃらないでください。これはわたくしの勝手ですので」
「そうか。では楽しみにしている」
彼は笑みを浮かべてそう告げると、わたくしの手を取り口づけした。不意打ちだった。
「!」
「やはりイェニーは可愛いな」
からかわないでください! そう告げると彼は満面の笑みを浮かべていた。わたくしは心の中では舞い上がっているのだから、きっと彼の思惑通りなのだろう。
恥ずかしくなったわたくしは、無心でお茶菓子を頬張り続けた。ここにいるのはわたくしとフレデリク様だけなのだから、問題ない。
この日はそれ以上彼の顔を見ることができなかった。
結局玄関で「それではまた」とわたくしが告げたことを除けば「からかわないでください!」というのが、わたくしがフレデリク様に向けたこの日最後の言葉だった。




