39.もう少しだけ、このまま
「……というわけだ」
フレデリク様の話が終わった。今まで、彼がどうして孤児院にやって来たのか少々不思議に思っていたのだ。侍従や護衛の兵士たちとバラバラになり、その上嵐に巻き込まれるとは。
「それは……災難でしたね」
「だが、貴女に会えたことは僥倖だった。女性は私にとって恐怖の対象だったからな」
「恐怖の対象……えっと。ひどい言い草ですね」
「仕方がないだろう。命の危険を感じたこともあったのだぞ」
「命の危険、ですか……媚薬とかですか?」
「ああ。他にもあるがな」
フレデリク様は大きく頷いた。それがどんなものかはわたくしにはわからないけれど、彼がそこまで言うということは相当なのだろう。
馬車が襲われたり、嵐に巻き込まれたりといった経験をした彼が、「命の危険」などという言い回しを他のことにはそう簡単に使いはしないはずだ。
「そうだ。初対面で頬を染めなかったのはイェニー、貴女ぐらいだ」
「えっと、その頃のフレデリク様はまだ子供でしたよね……? それなのに皆様フレデリク様に恋心を……いえ、失礼しました」
「今のはどういう意味だ?」
「いえ、こんなにも格好いいフレデリク様に恋心を抱かぬ女性などいないという意味です。だって、わたくしもそうでしたから」
「……あー。何をしていたのだ私は」
彼はまた頭を掻きむしりながら溜息をつく。そして、わたくしの目を真っ直ぐに見つめてこう続けた。
「……つまり、私たちは会ったその日から両想いだったというわけか? それなら、婚約を打診してからの道は遠回りにも程があったのではないか?」
「えっと、それは……ちょっと違って。でも、フレデリク様と会えないと思うと寂しかったのはたしかでした」
「それでも私は貴女が私のことを思ってくれているだけで嬉しいのだ。私は貴女に言ったはずだ。『孤児院で会ったあの日から、貴女だけを愛している』と」
「……!」
王都に馬車で向かったあの日のことを思い出して、顔が熱くなる。あれは夢ではなかった。それが嬉しくて。わたくしの顔は赤くなってしまっているだろう。
でも、月の光は青白いからきっと彼にはわからないはずだと高を括っていた。
「困ったな……そんな顔をされては、私が困らせてしまったようではないか」
「フレデリク様のせいですよ! ちゃんと責任を取ってください」
「責任……つまりこういうことか?」
「な、なな……」
何をするんですか! そう言いたかったが、声にはならなかった。少しからかってみただけだったのに、彼はわたくしの頬にキスを落としたのだ。今のわたくしは余計に赤くなってしまっているだろう。これではきっと、お月様も隠すことはできない。
「か、からかわないでください……っ!」
「では、貴女はからかっていないと? 大丈夫だ。私はイェニー以外の誰かと結婚するつもりはない」
結婚式。彼がわたくしとの将来を考えてくれていることがとても嬉しい。さっきのおじさんに言われた時は恐怖しか感じなかったが、好きな人から言われるとこうも違うとは。
「結婚式……楽しみです」
「私もだ……場所は王都北西の崖の上にある大聖堂でどうだろうか」
「いいですね! 素敵だと思いますっ……」
フレデリク様と結婚するのはいつになるだろうか。王族なのだから、行商の方が言っていたパレードもあるのだろうか。ということは、準備にかかる時間も膨大になるはずで。きっと式はまだまだ先なのだろう。
でも、フレデリク様と結婚できる未来が待っているのだと思うと、嬉しかった。彼もわたくしと同じ気持ちなのだとわかっただけでも幸せなのだ。
こうして談笑していると、遠くから誰かの声が聞こえてきた。耳をすませば、その声の主はフランツさんのようだ。
「殿下、どちらに」
どこからかそう呼びかけるフランツさん。フレデリク様はわたくしに「そろそろ戻ろうか。とても残念だが……」と提案した。
残念という彼の気持ちがわたくしと一緒だったからか、残念なのに嬉しいというちょっと複雑な気持ちだ。
この二人きりの時間が終わってしまうというのに、そこまで悲しくはなかった。もしかしたら「またね」が、次があるからなのかもしれない。
孤児院でそう告げた時は、本当に永遠の別れを覚悟していた。それでも、わたくしたちはこうして再会することができた。今日もわたくしたちは一緒にいられる。そして、これからも。
「……ニー? イェニー? 何か考えごとでもしていたのか?」
「はい。孤児院ではじめて出会った時のことを少し」
「私もだ。こんなに語り合った夜はあの日以来だからな。ところで、そろそろフランツに見つかってしまう。だから、名残惜しいがそろそろ戻ろうか」
「はい。フレデリク様」
わたくしはフレデリク様の言葉に頷いた。フレデリク様が呼びかけると、フランツさんはすぐにわたくしたちの視界に映る場所に出て、そのままこちらに向かってきた。
「お探しいたしましたよ、フレデリク殿下」
「フランツ、ご苦労」
「やれやれ、パーティーは始まったとはいえ、婚約発表もまだしておりません。だというのに、お二人で逢引きですか? まあ、社交界で知っている方も多くおられるとは思いますが、皆様フレデリク殿下の婚約者になれる見込みがまだあると期待しておられるようですから。早々に会場にお戻りになってご令嬢方の期待を砕いた方がよろしいかと」
「私も不服ではあるが……そろそろ戻るつもりだったのだ。イェニー、手を」
「はい、フレデリク様」
そう言って、フレデリク様はわたくしに手を差し出した。その顔には彼本来の自然な笑みが浮かんでいる。わたくしは彼を誰にも渡さないよう、いつもよりしっかりと握り、心からの笑みを返した。
会場のホールに戻るまでの道のりですら、わたくしたちは思い出話に花を咲かせた。もちろん孤児院で出会った時のことだ。
「それで、イェニーはどうして私のことを好きになってくれたのだ? あの時はそのようには見えなかったぞ……いや、イェニーを疑っているわけではないのだが」
「そ、そもそもフレデリク様はどうしてわたくしのことを?」
「先程も言わなかったか? 私は女性とは皆……」
「そ、そうでしたね。フレデリク様のお手……お口? を煩わせてしまい申し訳ないです。えっと、わたくしの話ですよね。それは────」
ここならば、話が聞こえるのはわたくしとフレデリク様の二人だけだ。フランツさんは遠くを歩いているからきっと聞こえないはずだ。空に浮かぶお月様も。でも、できるだけ聞こえないようにした。
そう考えたわたくしは彼の耳に手を添えて、小さな声で囁いた。すると、彼の耳に添えた手が熱を伝えてくる。
「イェニー……やはり私は貴女が好きだ。愛している」
そう告げた瞬間、彼はわたくしと向かい合わせになり、そのままわたくしとキスを交わした。夜会の熱気がここまで届いているおかげか、それはとても甘美なもので。わたくしは天にも昇る思いだ。彼の熱が離れていくと、わたくしは口を開いた。
「わたくしもフレデリク様のことを愛していますよ」
そう告げると、彼はますます赤くなった。青白い月明かりの下でこれなのだから、きっと日の光の下ではもっと赤く見えるのだろう。
「愛しているとイェニーから言われたのは、はじめてだ」
「そうかもしれませんね」
「かもしれない、ではない。私がイェニーからの『愛しています』を覚えていないはずがないからな」
あまりに彼が真面目な顔で言うものだから、思わずわたくしは噴き出してしまった。淑女としてはしたない行いだったが、彼はわたくしのことを注意しなかった。謝罪しつつ理由を尋ねると。
「今ここにいるのは私たちだけだ。二人だけの時は、自然体で接してほしい。孤児院でもそうだっただろう?」
「は、はあ……」
思わずわたくしは間抜けな返事をしていた。その声はしっかりフレデリク様にも届いていたようで、彼はとてもご機嫌だ。これまでにないくらい笑顔だったのだから。わたくしは意趣返ししたくなった。
「好きだよ、フレッド」
「……先ほどから聞いていれば……ずるいぞ。イェニーばかり……それなら私にも考えがある」
「ふぇ?」
そう言って彼はわたくしの方を向いて膝をついた。そして
「私、エナトス王国国王エリック・エナトスが息子、フレデリク・エナトスはリチェット侯爵家当主ヨゼフ・リチェットが娘、イェニー・リチェットを愛することをここに誓いま」
「フレデリク様! それは結婚式で言う言葉ですよ!」
「……イェニーの言う通りだな。これは結婚式にとっておこう」
そう言ってわたくしたちは笑い合った。遠くからフランツさんがこちらを見ていた。早く来るようにと言っているようだ。言葉にはしていないが、あの様子だときっとそうなのだろう。わたくしたちは望む未来のため、急ぎ会場に戻った。




