35.はじめての夜会当日(2)
「イェニー、会いたかった……!」
「ぐる、しぃ」
対面早々、力強いハグで迎えてくれたフレデリク様。目の前にいるのはわたくしの大好きな人だ。間違えるはずもない。
出迎えてくれるのは嬉しかったけれど、コルセットも相まって、さすがに苦しいので解放してもらった。
今日の彼は深い青を基調とした布地に、金の刺繡が施された上衣を羽織っていた。でも、どうしてフレデリク様がここに? そんな疑問が頭をよぎる。彼は準備で忙しいのではないか。
「理由か? 愛する人に会いに行くのに愛している以外の理由が必要か?」
「えっと、口に出ていました?」
「顔に出ていた。……そのドレス、似合っている」
「あ……ありがとう、ございます。でも、それはフレデリク様が落ち着いたデザインにしてくれたからです」
そう言われると照れくさい。このわたくしに似合うドレスは、王妃殿下が選んだとはいえ、細部はフレデリク様が整えてくれたものだ。
王妃殿下は流行の型をそのまま使おうとしていたのだとか。
しかし、シェリーが今夜着る予定だというモードを意識したドレスを見せてもらったところ、とてもではないが着るのは遠慮したいデザインだった。なので、フレデリク様には助けられた。
そこまで思い出して、はたと持ってきたハンカチのことを忘れかけていたことに気づく。
あんなに大切なものなのに、忘れていた。きっと、夜会前にフレデリク様に会えた衝撃が大きかったのだ。
彼にことわって、ベスに荷物を持ってきてもらう。わたくしはその中から二枚のハンカチを取り出し、フレデリク様の方を向き直して、それをおずおずと差し出した。
「これ……受け取ってください」
「これは……ハンカチか?」
はい。そう答える声は自分のものとは思えないほどか細くて。わたくしは彼の次の言葉を待つことしかできなかった。
「イェニー、これは私が貰ってもよいのだろうか?」
「こんなにも素敵なドレスを頂いておいて、お返ししないわけにはまいりませんので……」
「気にする必要などない。これは私の自己満足だ」
「いえ、わたくしが気にするのです。ですから、その……これはわたくしの自己満足です」
「そうか……うむ。こちらは王家の家紋と、私のイニシャルか? 上手いな。そしてこれは……麦畑とケーキか?」
「は、はい。もし不要でしたらそのまま燃えるゴミと一緒に捨ててくだ……」
「不要なわけがあるか。これはイェニーが縫ってくれたのだろう? この前出かけた時に買った布と糸を使っていることぐらい、私にもわかる」
「そ、そうですか……? でも本当にっ、」
「イェニーからの贈り物だ。嬉しいに決まっている」
そう告げる彼の笑顔がまぶしくて。彼はどうしてこんなにもわたくしに優しいのだろうか。今日も今日とて、わたくしに都合がよすぎることばかりだ。
「ところで、ひとつだけ聞きたいのだが……ケーキはともかく、どうして麦畑なのだ?」
「はい? ……も、申し訳ございま」
「私は貴女に謝罪してほしいわけではない。なぜ麦畑を選んだのかと聞いているだけだ」
彼の瞳を見れば、純粋に疑問の色を映していた。理由を説明するのはとても気が引ける。自分の好きなものをモチーフに、自分の髪や瞳の色の布や糸でハンカチにして贈ったのだ。わたくしは身勝手な人に映るだろう。だから、本当は説明したくないのだ。
しかし、説明しないことには引き下がってくれないだろう。わたくしは自分の心を押し殺して淡々と告げた。
「わたくしの髪の色と同じだからです。孤児院にいた頃は麦畑以外、わたくしの髪色と同じものはありませんでしたから」
「ああ。知っている。……そんな顔をしないでくれ。からかって悪かった」
そういえばはじめて孤児院で会った夜に話した気がしなくもない。わたくしが不満そうな顔をすると、謝罪が返ってきた。けれど、謝ってほしいわけではないのだ。
今思えば随分と自分勝手だ。ドレスをフレデリク様のご厚意で、何の見返りもなくいただいたのに。彼はお礼など不要だと言ったのに。
わたくしは、自分の気持ちだけを優先して、彼の想いを微塵も尊重しなかったのだ。なのに、そのうえ……
「……ニー? イェニー、聞いているか?」
「あ、は、はい?」
「ありがとう。イェニーは麦畑が好きだと聞いていたから、いずれ行こうかと思っていたのだ」
「え?」
「ひとまず、そのためにも我々の婚約を社交界に知らしめねばな」
そこに、フランツさんが入ってきた。少し呆れ顔をしている。
「殿下。今宵の夜会で婚約発表をするというお話ですが……発表前にこのように逢瀬を重ねているのは、本来よろしくはないとお伝えしたのをお忘れですか? この前の王都といい……」
「フランツ。またそれか」
「間もなく夜会ですが、ここで問答をしている暇があるというのですか? 殿下は随分と余裕ですね。将来の婚約者にデビュタントから恥をかかせたいと?」
「く……」
「ひとまず、リチェット侯爵家の皆様が間もなくこちらにいらっしゃると思うので、イェニー嬢はこちらでお待ちください」
フランツさんの言葉に、フレデリク様は不服そうな顔をしながら彼の後をついて行く。部屋を出ていく時、フレデリク様はこちらを振り返って「後で」と手を振ってくれた。だから、わたくしも手を振り返した。
しばらくして、お父様がわたくしを迎えにきた。わたくしと同じで、お父様もいつもより着飾っている。
「イェニー。そのドレス……殿下からかい?」
「はい。お父様」
「本当に嫌なら、婚約なんてしなくてもいいんだからね?」
「お心遣い痛み入ります。ですが、わたくしは彼を愛しておりますので」
「ハハハ……そうかい。それなら、僕も応援するよ。父親の僕が言うのもあれだけど……イェニー、とても綺麗だよ」
「ありがとうございます、お父様」
「みんな待っているよ、行こうか」そう告げるお父様に、わたくしは頷いた。




