29.わたくしとフレデリク様と王都(3)
腹ごしらえを終えると、わたくしたちは再びどちらからともなく手を繋いで歩き出した。
今度は貴族の邸が数多くある北側の地区に向かっていく。緩やかな上り坂は人通りもまばらだ。そもそも、貴族は大体馬車で移動するのだから、当然といえば当然だけれど。
それはそれとして、わたくしはフレデリク様の薦めるもう一つの観光施設、王都北西の大聖堂近くまでやって来たのだけれど。
「この階段、かなり急じゃない? 舗装されてるから、山道よりは歩きやすそうだけど」
「プハッ」
「えっ?」
笑った理由を尋ねたが彼は「イェニーらしいな」としか言ってくれなくて。どこがわたくしらしいのかがよくわからない。
「普通の貴族令嬢ならここを歩いて上るなんてことしたがらないからな。私は貴女のそういうところが好きだ」
「は、はぁ……」
また好きだと言われてしまった。ちょっと恥ずかしい。わたくしは彼と顔を合わせず、遠くの方を見ながら上っていった。
馬車の中のフレデリク様もこんな気持ちだったのだろうか。中ほどまで上れば、王都の端の城壁も見え始めた。やがて頂上に着いたのだが、その頃にはわたくしはへとへとだった。
「中へ入ろうか。椅子もある」
ちょうど疲れていたわたくしがその提案に断る理由などあるはずもなく。わたくしはフレデリク様の言葉に甘えることにした。
人がまばらな大聖堂の長椅子は木でできていて、広場のベンチにそっくりだった。違う点といえば、後ろの方の席は背もたれが高いということだろうか。
背もたれの高い一角に座り、わたくしたちは本日三度目の休憩することにした。
この大聖堂は王都一美しいと言われているという。じっさい、綺麗という言葉では足りないぐらい綺麗だ。
ステンドグラス越しに日の光は差し込んでいるものの、その光は夏の暑さをもたらすものではない。きっと、神々の国に降り注ぐのはこういった光なのだろうと思う。
正面を見上げれば、そこにはこの国の建国神話を、神々の国を表したのであろう、大きなステンドグラスが壁一面を飾っていた。
フレデリク様に聞けば、夏至の夕暮れ時には、この裏側から日の光が差すのだとか。
「綺麗とか素敵とかじゃ足りないぐらい、綺麗で素敵な場所だね」
「……そうだな。詩人ならきっと相応しい言葉を知っているのだろうが」
「貴族のコトバは一応教えてもらってるけど、難しくてわかんないのばっかだよ……」
「イェニーの言う通りだ。私も今の身分でなかったとしたら、決して使わないような言葉が多いな」
「あはは……私もこっちの方が楽だよ」
わたくしたちはお互いの方を見て笑った。こんな話し方をしていていいのかという罪悪感がないわけではない。セルマ夫人に聞かれたら叱られるだろう。
しかし、フレデリク様に平民のような話し方でと言われているのだから、叱られるいわれはない。
その後、わたくしたちは二人してしばし沈黙した。しかし、このほとんど音のない時間はとても心地よいもので。
今日一日の出来事を思い返すと、わたくしはフレデリク様に嫌われているわけではないのだという自信が持てた。
まだ公的に発表されたわけではないが、婚約が白紙に戻ることは、まずないだろう。
緊張の糸がほぐれたわたくしは椅子にもたれかかった。セルマ夫人やお姉様に見られたら「はしたない」と叱られるような姿勢だ。
そうしているうちにも、だんだんと意識が遠のいていく気がした。
☆☆☆☆☆
次に気がついた時には、西日が差していた。眠ってしまっていたようだ。左隣には、いびきをかいているフレデリク様がいた。
つい眠ってしまたけれど、わたくしたちは今日一日、王都を歩き回ったのだからしょうがない。
綺麗な睫毛だ。わたくしのものより綺麗かもしれない。ちょっと羨ましいなと思って観察していると、突然目を覚ましたフレデリク様とばっちり目が合ってしまった。
「お、おはようございます、フレデリク様」
「……これは夢、か? 幸せすぎる……好きだ、イェニー。愛してる」
そう言うと、彼は今朝の馬車の中の夢かどうかわからなかったあの時みたいに、わたくしを抱き寄せた。そのまま、彼の綺麗な顔が近づいてきて。気づいた時にはわたくしはフレデリク様とキスしていた。心の準備ができていなかったせいかわたくしは一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
「……!」
「本当に好きだ。イェ……っ!」
そこでハッと目を覚ましたフレデリク様の目は、彼がたいそう驚いたことを如実に語っていて。彼が無意識にそう言ってしまうほど、わたくしのことを好いてくれていることは、聞くまでもなかった。
今度は夢ではない。現実なのだ。その事実に涙腺が緩んでしまう。
「その、イェニー……違う、これはそうではないのだ」
「そうではない、とは?」
「あーっ……失敗した。イェニー、先程はすまなかった。だから、どうか私のことを嫌いにならないでくれ……!」
そう告げる彼は、まるで赦しを乞う罪人のようで。わたくしは喉がうまく動かせず、何も答えることができない。
彼のことは好きに決まっている。それを言葉で伝えられない自分が情けない。夕暮れ時の静かな大聖堂の中、ただわたくしたち二人のすすり泣きだけが響き渡っていた。
わたくしたちはひとしきり泣いたからか、ひとまずの落ち着きを取り戻した。もうそろそろ帰る時間だ。だが、わたくしは目の前のフレデリク様が先ほどの願いに対する回答を待っているのだということを思い出した。
「……嫌いではありませんよ? というか、わたくしはフレデリク様のことが大好きです」
「なあ、様呼びに戻っているが……わざとか?」
「え、いいえ! じゃなくてううん! フレッドの前ではそうしないとって思ってしまっただけで。忘れてたというか……」
「つまり、本当に貴女は私を」
「好きだけど……フレデ、フレッド?」
わたくしはつとめて笑顔でそう告げる。とても恥ずかしいし、目を逸らしたいのだが、それを何とかこらえる。ここまで来たら意地だ。
「その、イェニー……もう一度キス、してもよいだろうか……?」
「…………」
それはわたくしにとってとても嬉しい提案だった。顔が熱くなっているから、きっと真っ赤なのだろう。
だが、わたくしたちには陽の光が当たっているから、きっとフレデリク様には気づかれていないはずだ。わたくしは冷静なフリをして「うん」と答える。
次の瞬間、再びわたくしたちの距離は非常に近いものになっていた。彼の吐息を感じるほどの、近い距離。こうなったらこの先の展開は聞かなくても、わかる。心の準備ができなかった先ほどとは違い、今度は目を瞑った。
さっきの半ば無意識でしてくれたであろう口づけも、今の彼自身の意思でしてくれた口づけも、どちらも嬉しい。
わたくしにはそれらが、彼がわたくしを愛してくれている証に思えた。優しい口づけは、今まで口にしたどんなものよりも甘かった、ホットチョコレートなんか比べ物にならない。甘美な時間は終わってしまったが、それでも彼は先ほどよりもとても近くにいて。
「もう少しだけ……このまま……」
もう少しだけこの距離で。この時のわたくしは「こんなことを言っては彼に嫌われてしまうのでは」なんて考える余裕すらないほどに、わたくしは彼にすっかり甘えてしまっていた。
フレデリク様の目が大きく見開かれていることだけはわかった。でも、それがどうしてなのか、わたくしには考える余裕がなく。
──カーンカーンカーン
大聖堂が夕方の五時を告げる鐘を鳴らし、わたくしは正気に戻る。
たちまち、顔に熱がこみ上げてくる。でも、これもお日様のおかげでフレデリク様にはバレていないだろう。それでも、とてもいたたまれないことにはかわりない。
あんなこと、言わなければよかった。そう後悔したわたくしは、彼を振り払い、いつの間にか大聖堂を飛び出し、急な階段を夕暮れ時の王都に向かって駆け下りていた。
「イェニー!」
そう叫ぶフレデリク様の声が聞こえた気がするが、それが本物か幻聴かは、今のわたくしには判断するすべがなかった。




