28.わたくしとフレデリク様と王都(2)
「イェニー、行きたい場所はないか? 欲しいものでもいいぞ」
「行きたい場所、欲しいもの……特にないかな」
急に行きたい場所や欲しいものを聞かれても、わたくしは答えることができなかった。ただ、やりたいことがないわけではない。
「フレッドと一緒にいられたら、どこでもいいかな」
「そうか。であれば、この辺りを少し歩かないか?」
「……うん!」
わたくしはフレデリク様の提案に一も二もなく飛びついた。今のわたくしが鏡を見ていれば、そこには笑顔が写っているに違いない。フレデリク様と一緒にいられるだけで嬉しいのだ。
彼も心なしか微笑んでいるように見える。それも、貴族的なものではなく自然な、彼の心からの笑みだと思う。
彼がわたくしのことを嫌いではないというのは少なくとも事実らしい。
──貴女だけを愛している。馬車の中で彼がそう言ったことが事実なのか夢なのかを確認する勇気はない。しかし、少なくとも嫌われていないことに安堵した。
「イェニー?」
考え事をしていて、心ここにあらずだったわたくしは、彼の呼びかけで再びここに戻ってきた。
「何?」
「手を、繋がないか?」
彼の方を見れば、また赤くなっている。今日のフレデリク様はよく赤くなる。好きな人からこのようなことを言われて嬉しく思わない人などいるのだろうか。
差し出された彼の大きな手を取ってよいのだ。目元が熱くなる。
「……イェニー? やはり、手を繋ぐのは嫌だろうか?」
「う、ううん……! これは嬉し涙なの! 私はフレッドと手を繋ぎたい……です」
「嬉し涙……繋いでも、いいのか?」
「うん。私からお願いしたいぐらい」
そう言って、わたくしは彼の手に自身の手を重ねる。そのまま、わたくしたちは街の人々に混ざって歩き出した。
王都の喧騒は領都の比ではなかった。そもそも、行きかう人の数が段違いなのだ。
手を繋いでいなければ迷子になってしまっていたかもしれない。歩きながら彼はこの街の説明をしてくれる。
「この辺りはどちらかというとそれなりの店が多い地区だ。主に下位貴族や金を持った商人が集まる。服飾品を扱う店や中級以上のレストランが多いな。先ほどの店もそういった客層を中心に商売をしているな」
「そうなんだ……あ。行きたい店、ありました」
「どこだ?」
「刺繡してみたいから、布と糸が欲しいの」
「布と糸か……そんなものでいいのか?」
「うん。もし他に欲しい物ができても、フレッドが買ってくれるんでしょ?」
「……ああ、その通りだ。こっちだ」
理由はわからないが、フレデリク様も心なしか楽しそうだ。わたくしは彼に手を引かれるまま、彼について行った。
着いた先はちょっと高級感のある手芸用品店だった。なぜここに来たくなったかといえば、フレデリク様にさっきのお店の話を出されたからだ。
そこで、わたくしは彼のハンカチを汚してしまった。だから、これはわたくしなりの謝罪だ。そう言うと彼は気にするだろうから、口には出さないけれど。
わたくしはプラチナブロンドの布、つまり彼の髪と同じ色のものを探すことにした。それからわたくしの髪の色の布も探した。あとは、桃色の糸に深い紺色の糸。言ってしまえば、わたくしたちの髪と瞳の色だ。
わたくしはロマンス小説の主人公を参考に、ハンカチに刺繡を入れて贈ることにした。
何かを男性に買うというのは、たとえ婚約者同士であっても男性の周囲からの印象が悪くなるので、贈り物は手作りのものを渡すのが慣例となっているそうだ。
この国の貴族の風習だからか、様々なロマンス小説にもそのような描写があった。
手芸は孤児院にいた頃からやっていた趣味のひとつだ。
安く買い叩かれたものの、楽しかったし、何より孤児院の役に立てることが嬉しかった。
ただ、リチェット侯爵家に再度引き取られてからは、マナー教育を中心に受けていたので最近は触れていない。
セルマ夫人にも一度見てもらったが、問題ないとしてマナーや言葉遣いの教育が中心になったため、結局やっていなかった。そもそも、作っても売る相手がいなかったからともいえる。
「ゆっくりでいい」
「ありがとう」
今はちょうどお昼どきということもあってか、店内は静まり返っていた。
わたくしは無事、目当ての色の布と糸を手に入れた、というか買ってもらった。フレデリク様への贈り物だというのに、少々申し訳ない。
荷物はこっそり着いてきてくれていた護衛の方にお願いした。
☆☆☆☆☆
店を出るとわたくしたちは街歩きを再開する。街のお店に並んでいるものは見たことがないものがたくさんあった。これは何に使うの? と聞きたくなるようなものから、可愛らしい食器まで。
「布と糸、買ってくれてありがとう」
「あれだけでよかったのか?」
「うん。また必要なものがあったらお願いしていい?」
「……勿論だ」
何度目か数えていないが、彼の顔はまた赤くなっている。何か呟いたような気もするが、よく聞き取れなかった。
直後、彼は何かを思い出したように顔を上げ、続けてこちらを向いた。
「そうだ。イェニーはこの一月ほど、一度も王都に出たことはなかったと聞いていたが……本当か?」
「あはは……」
真剣な表情でそう言うフレデリク様に、わたくしは曖昧に笑った。今までは実質リチェット邸と王宮の間を移動するだけだった。
つまり、彼の言う通り、わたくしはまともに王都に繰り出したことがない。
「フレッドの言う通りだよ。何でわかったの?」
「貴女の手紙だ……」
「え?」
たしかに、そんなことを書いたかもしれない。でも、どうしてそんなことを尋ねたのか、話の行き先が見えない。すると、彼はこう続けた。
「それでは、王都観光に行ったことはないのだな?」
「うん。そうだけど……それがどうしたの?」
「イェニーがよければ、回らないかと思っただけだ」
「……! 嬉しい!」
「それでは……こっちだ」
わたくしは手を引かれるまま彼に着いていった。たどり着いた先は、広場だった。
中央には領都同様に噴水が設置されており、人々の目を楽しませている。それも大きい。
フレデリク様いわく、国内で最も大きいものなのだという。わたくしもゆっくり見るのはこれが初めてだ。
「イェニー、そろそろ一度休まないか?」
「休むって、どこで?」
「デザートばかりだっただろう? お腹はすいていないか?」
「……すいたかも」
「それなら決まりだ。遠くから護衛たちは見てくれているだろうから、ここに座っていてくれ。軽く食べられる物を何か買ってくる」
「あ、うん」
わたくしは彼に言われるまま、ベンチに腰掛ける。
広場は馬車が通る邪魔にならないよう、上手に通り道が開けられている。わたくしが座った場所はちょうど木陰になる所で、吹き抜ける風が気持ちいい。
歩いていた時は何とも思わなかったが、初夏というだけあり、案外暑かったのだと思い知らされる。
「お待たせ」
「ありがとう。これは?」
「ティムクだ。焼いた肉や魚を薄い皮で包んだ庶民の食べ物らしい」
そう言うと、フレデリク様はマナーも無視して直接かぶりついた。
とても手慣れている。わたくしも、つい二ヶ月ほど前まではそうして食べていたのだが、彼は生粋の貴族だ。それも最高位に位置する王族である。
どうしてそのような食べ方ができるのか聞いてみたものの
「私は貴族のしきたりが嫌いだ」
などとのたまって、全然答えてくれなかった。そもそも、リチェット侯爵家に迎え入れられてから、ティムクが出されたことなど一度もない。
庶民の食べ物なのだから、当然なのかもしれないけれど。ちなみに、リチェット侯爵領にはない食べ物なのか、孤児院でも食べたことはない。
手掴みで食べるのははじめてというわけではないのに、わたくしは食べるのにフレデリク様の倍くらいの時間がかかってしまった。
先ほどとは逆に、今度はわたくしがフレデリク様を待たせてしまった。気にするなと彼は言うが、待たせてしまったのだ。わたくしが気にする。
それからしばらくして、わたくしが食べ終えるとフレデリク様が口を開いた。
「そろそろ行くか?」
そう聞かれたわたくしは「うん」と頷いた。




