26.馬車の中の夢
フレデリク様に連れられて来たのは馬小屋だった。王宮の敷地内に来るのは今回が三度目だけれど、前回と前々回は建物の中にしか行かなかったから、こんな場所があるとは知らなかった。
もちろん、王族も貴族なのだから、どこかに馬車があるのだろうとは思っていた。しかし、王宮の端に小さな森のような場所があるとは。
フレデリク様は先ほどのことを引きずっているのか、顔が暗いままだ。腕を引っ張ったことは気にしなくていいと改めて伝えると、彼からは予想もしない答えが返ってきた。
「貴女こそ無理をしていないか? 私の婚約者など、本当にやめてもらっても構わないのだぞ? その……腕を引っ張って正式なエスコートをしないなど、私は婚約者失格ではないだろうか……?」
「大丈夫です。たしかに少し痛かったですけど……フレデリク様のことは嫌いではないですから。フレデリク様の婚約者になれるわたくしは幸せ者です」
「そうか……今はそれで十分だ。それからその服……似合っている。ペンダントも」
「ありがとう、ございます?」
似合うと言われたことは純粋に嬉しい。「今は十分」というのが少し引っかかるが、嬉しいことに変わりはない。
ところで、とわたくしはフレデリク様に気になっていたことを尋ねる。
「王宮の敷地内に、こんなに木が生えている場所があったんですね」
「ああ、ある。元は山だった場所を切り開いて作られたのだと聞いている」
「今も少し丘みたいになってますよね」
「そうだな……今日はありがとう」
「どうしたんですか急に」
そう尋ねると、彼は「いや、何でもない」と答えた。顔がちょっと赤くなっているが、怒っているわけではなさそうだ。
彼は女性が苦手という噂が立つぐらいだ。もしかして、わたくしに何か思うところがあるのかもしれない。ありがとうと言われるような覚えはないけれど……。
それ以上彼からの返事はなさそうだったので、わたくしは質問を重ねる。
「それで、本日は城下町に行くんですよね。どうしてこんなところに?」
「ああ。それはだな……」
彼は今日の予定を説明してくれた。ひとまず馬車に乗り、以前食べたチョコレートが売っている店に向かうという。
そこからは特に考えていないとか。先ほど乗ってきたばかりなのに、貴族は馬車に乗るのが当たり前という常識をすっかり忘れていた。それで、と彼は続ける。
「イェニーが行きたいという場所に行きたい」
「行きたい場所、ですか」
「そうだ。今決められないなら、向こうに行ってから決めればいい」
そうフレデリク様は言うと、御者に馬車を用意させた。ふだんわたくしたちが乗っている馬車に比べて、非常に素朴だ。孤児院にいた頃、村にやって来た商人が乗っていた馬車に似ている。
フレデリク様はわたくしの手を取り馬車に乗せてくれた。
先ほどはきっと感情が揺さぶられて腕を引っ張っていただけなのだろうとわかるぐらいに丁寧だ。
しかし、これほどまでに手慣れていると、他の女性にも同じようにしているのではないかと不安になってしまう。女性が苦手な彼に限ってそんなことはないと思いたい。
気にはなるが、聞くに聞けない。彼に聞けば、わたくしが彼のことを信頼していないと思われてしまうかもしれない。そう思われるのは嫌だ。
そう感じるのはわがままだろうか。頭の中で悩んでいるわたくしをよそに、馬車は街に向かって走りだした。
☆☆☆☆☆
「…………」
「…………」
城下町に向かう馬車の中、わたくしたちは隣り合わせで座っていたものの、無言になってしまった。正直、何を話せばいいのかわからない。
では、わたくしについてどう思っているか聞いてみようか? 「嫌い」だと言われたら耐えられないが、シェリーにも聞いてみるように言われている。
ここで聞かなかったら、家に帰ってから何を言われるかわからない。
よし。そう小さく呟くと、わたくしはなけなしの勇気を振り絞って、フレデリク様に気になっていたことを尋ねた。
「あの」
「何だ?」
「フレデリク様は、わたくしのことが、その……嫌いではない、のですよね?」
「……っ!」
彼は小さく息を飲んだ。わたくしは反射的に怒られるのではと感じ、身体を小さく抱え込んだ。しかし、わたくしが恐れていたことは起こらなくて。
「……きだ」
「はい?」
「貴女のことが好きだ。孤児院で会ったあの日から、貴女だけを愛している」
「私だけ……?」
「ああ。先にも後にも愛したのは貴女だけだ」
つまり、どういうことだろう。わたくしは、彼の言っていることがよくわからなかった。
いや、言葉としては理解できる。しかし、それがどういうことなのかを理解しようとすると、頭が回らなかった。
おかしい。今までこのようなことは一度もなかったというのに。
「私を……」
「愛している」
短くて優しい言葉。その言葉が自分に向けられたものだと気づくのには少しかかった。理解した途端、わたくしはいたたまれない気持ちになってしまった。
「わ、わわ私……じゃなくてわたくし……っ。……わたくしも、フレデリク様のことがすっ、すき、です……っ」
「イェニー……!」
わたくしの顔はきっと熟れたリンゴのように真っ赤になっていることだろう。身体が火照ってしょうがない。
言ってしまった。はしたない女だと思われただろうか。たとえ他の誰にそう思われようとも、彼にだけはそうは思われたくなかった。
気づいた時には、さらに身体が熱くなっていた。顔を上げると、フレデリク様の顔がすぐそこにあって。彼の息遣いを感じる距離だ。
肩が動かないと思えば、わたくしはフレデリク様に軽く抱きしめられていた。しかし、彼の息を呑む音が聞こえたかと思うと、あっという間にわたくしは解放される。
フレデリク様の方を見上げると、彼の濃紺の瞳は向こう側、馬車の外に向けられていた。
それでも、先ほどのことを思い出すといたたまれなくて。わたくしも彼と逆の方を向いてしまう。
再び、馬車の中は静けさに包まれた。聞こえたのは、外を歩く人々の声と、自分の心音だけだった。




