108.寒空の下で
ガタゴト、ガタゴト。わたくしが目を覚ましたのはきっとこの騒音のせいだと思う。意識を取り戻して次に感じたのは、痛覚。肌を刺すような冷気のせいか、とても苦しい。
「お目覚めか、お嬢さん? 丸一日起きなかったから心配したよ……薬が強すぎたかな……」
「えっと……」
わたくしが重い瞼を上げると、一番に視界に飛び込んできたのは木の壁だ。
よくよく見れば、それは馬車の座席だったらしい。
わたくしは腕を前にして縛られ、両足を縛られているようだ。こういう場合腕を縛るのは後ろ側ではないかという疑問はさておき、個人的にはこちらの方が楽で助かる。
「──へっくしゅ!」
「寒いか。そりゃそうだよな、君は半年ぐらいずっと貴族令嬢として生きてきたんだから当然だよな?」
寒さでうまく思考が回らない。いや、馬車の揺れもその原因かもしれない。
少なくとも、今のわたくしは命の危険にさらされていると考えて間違いないだろう。だが、今のわたくしは右も左もわからない。
本邸から連れ出されてどれぐらい経っているのか。今どこにいて、この馬車はどこに向かっているのか。なぜわたくしを連れ去ったのか。何もわかっていない。わかっているのは、この馬車が上り坂を進んでいることだけだ。
あと、この馬車の向かっている先はわたくしの暮らしていた孤児院ではないと思う。
男を見上げる格好になっているわたくしは、わたくし以外で唯一この馬車の中にいるその男に不自然でない程度に質問してみることにした。
「あの……孤児院はまだですか?」
「ああ。そういえば孤児院に連れて行ってやると言ったか。あれは嘘だ。あっているのは方向だけ……絶望したか?」
わたくしはその返答にやはりと納得した。今の状況はわたくしのためにどうこうしてくれているといった様子ではない。
「ということは、これは誘拐……?」
「誘拐……そうだな。だが君を連れ去ることや、身代金が目的というわけではない。俺の望みはな……君の死だ、お嬢ちゃん」
寒さも相まってか、彼の返答に背筋が凍る。それは嫌だ。まだわたくしは死にたくない。だって、わたくしは──
「し、死にませんよ?」
「君は山の中で凍死しているところを見つかるのだ。それも君の育った孤児院のそばの雪山で、だ。いいだろう? 君はもう老い先が長くない君の育ての親をあちらの世界で待つんだ。きっと君の大好きな先生も喜んでくれるよ」
その言葉に、わたくしは彼がわたくしのことを調べつくしているのだということを悟った。わたくしよりいくらか背丈が高く、年上であろう彼。
どうしようもないというなら、せめてこれだけは。
「貴方はわたくしの生い立ちをどこで知ったのです?」
「知っているも何も、君は忘れてしまったのか。とっても悲しいよ……」
「もしかして、テリー?」
その確認に、青年は頷いた。きっと彼の瞳には驚いて目を大きく開けたわたくしの顔が映っているのだろう。
わたくしが彼の正体に思い至ったからか、彼は突然わたくしの知らない間の出来事を語り始めた。
「俺は十八になって、孤児院を出た。ここまでは君も知っているだろう?」
今度は彼の確認にわたくしが首肯する。ちょっと痛い。
「それから俺は領都に向かい、馬車を乗り継いで王都に出た。憧れの王都にな。だが、王都には田舎者に簡単につける仕事なんてなかった。それこそ裏稼業とか、そういうやつぐらいしかな」
わたくしは王都の下町事情を知らない。アーシャ様の代役として向かった孤児院の事情がせいぜいだ。彼はそれでもなお語り続けた。
「それで君も察していると思うが、俺は裏の仕事に手を出した。王都について一週間、食うものもねぇ、あの日はヤケになっていたのかもしれないな。俺はバナーク伯爵家の者に助けられて、そのかわりに汚れ仕事を請け負った。それこそ、何から何までな」
盗みに始まり、運び屋から……そうひとつひとつ数え上げていくテリー。だが、わたくしは少しの間「バナーク家」という名を思い出して身を震わせていた。
そんなわたくしの様子に気づいたのか、テリーはバナーク家の話を始めた。嫌がらせなのだろうか?
「君が俺の主から何かされそうになったという話は聞いている。リチェット家のイェニー、金色の髪が、紫の瞳がどうとか言っていたから、すぐに君を思い出した。ご主人様の弟君がヘマをしでかしたから男爵家になってしまったが……それから今日までの間で、俺たちは一度再会している。その時に見て思ったんだ」
再会。そのようなことはなかったと思うのだけれど……そう言葉にしようとしたのだが。
「君は隣国との友好式典? とやらの日にバナーク邸に誘拐されて来ただろう? その時に俺は君を見たよ。ああ綺麗だった。同じ孤児院で育った君と俺……一体何が違ったのだろう? ああ、血筋だというのはすぐ分かったよ」
君はずっと綺麗なペンダントをつけていたものね? そう告げる彼の声は非常に冷ややかなものだ。
「まあ、それはこの際置いておこう。それで、俺はバナーク伯爵家に仕えている頃に結婚したんだ。下町を歩いていて、一目惚れ。そのまま彼女にプロポーズしてしまったよ」
「一目惚れ……その方の名前を聞いても?」
「ドロシーだ。彼女は俺より少し年下で、もうすぐ孤児院を出る年だと聞いた」
「もしかして、ダレンさんの」
「ああ、そういう名前だったか。彼女と結婚したいと言ったら何か料理をと言われたから伯爵家で覚えたクッキーを……いや、それはどうだっていいな」
こんな状況ながら、ドロシーさんの顔を思い出してしまう。彼女が夫の帰りを待っている話は知っている。わたくしの頭の中で欠けたパズルのピースが繋がっていく。
「テリー、もうやめに」
「駄目だ。彼女には院で一緒に育った弟がいる。その薬代のために君には死んでもらう。それだけだ。もうすぐ俺たちの院の近くだな。日の出はもうすぐだけど、そろそろ君には眠ってもらおう。──永遠に」
しかし、そう告げるテリーの瞳からは涙がこぼれていて。そんな彼にわたくしは再び布を当てられ──ガタン!
「何だ!?」
何の前触れもなく馬車が揺れ、止まる。その衝撃で今にもわたくしに当てられようとしていた布がはらり、と床に落ちる。そのおかげで、わたくしは意識を保つことができた。
外から聞こえてくる幾人かの男性の声。本当に馬車のすぐそばで争っているらしい。御者の方と思しき叫び声が上がる。テリーはそれを聞いたからか、舌打ちした。
「なるほど。イェニー、来い」
テリーがわたくしの腕を引っ張って外に出ようとしたその時。馬車の扉が外側から開かれる──がそこに立っていた人影にナイフを突きつけるテリー。
彼は人影がひるんだかと思うとわたくしを引きずって外に出た。本当の意味で肌を刺す痛みとは、このことだ。
わたくしはそのまま──ほぼ直角に近い斜面へと放り出された。そのわずかな時間で人影の正体が視界に入る。
「フレ……ッド──!」
「イェニー!?」
思わずフレッドと叫んでしまった──フレデリク殿下と呼ぶと決めていたのに。彼はわたくしに手を差し伸べてくれたが、互いの手が触れ合うことはない。
わたくしはこのまま崖下まで一気に落ちていくのだろう。下にも雪は積もっているはずだから命は助かる、と思う。だから安心して、と彼に微笑みを向けたのだけれど。
「……行かせない。イェニー、私は貴女だけを行かせたりはしない!」
「えっ……?」
彼はただただ直角に近い急斜面が続く崖下に向かって投げ出されたわたくしのもとに飛び込んでくると、わたくしを包み込む。
そこでわたくしの記憶は途切れた。




