106.本邸への帰還
その日の昼過ぎ。わたくしたちは王都を出発して十日目にしてようやく領都に帰ってきた。
といっても、わたくしがこちらに滞在したのはほんの少しだからか、そこまで何かがこみ上げてくるということはなかった。しいていえば。
「領都って……」
「小さいわよね? わたくしもはじめて見た時、そう思ったの。王都より小さいって」
わたくしの考えていることを軽々と当ててしまったお母様。
はじめて見た時は大きさに圧倒されたのだけれど、王都の存在を知ってしまった後だと小さく感じてしまうから不思議だ。
外を見れば領主の乗る馬車だとわかるからか、みんながこちらに注目しているのがわかった。
街中を走り抜けた馬車が止まった。外を見れば、そこには懐かしい黒鉄の柵。これもはじめて見た時は怖かった。この向こう側に何があるのかがわからなかったからだ。
今となってはそんなことはないけれど、平民の世界しか知らなかったわたくしにとって、シャコウカイは恐怖の対象でしかなかったのだ。あとは面倒くさいものだと──フレデリク殿下から教わったぐらいの知識しかなくて。
「イェニーちゃん、大丈夫? これで拭きなさい」
「……はい。ありがとう、ございます」
いつの間にか涙がこぼれていたらしく、顔の上を伝っていく。わたくしはお母様から受け取ったハンカチーフで顔を軽く拭った。彼のことを思い出すたびに痛む胸。
最近のわたくしは泣き虫になってしまった気がする。借りたハンカチには可愛らしい花と果実が刺繡されていた。
色合いからしてスーの花だろうか? つられてクッキーのことを思い出してしまい、また心がずきりとする。
「あら。気になるの?」
「えっと……これはスーの花、ですよね?」
「ええ。こちらに来てから知ったのだけれど、とてもおいしくて好きになってしまったの」
やっぱり。なぜか頬を赤くするお母様の心の中はわからない。
スーの実のことを思い出すたびに、わたくしは余計に心が苦しくなる。だって、スーの実のクッキーを送ろうと思った相手であるフレデリク殿下はシェリーを選んだのだから。二人の幸せを思うなら……
「ご主人様!」
わたくしが永遠に続きそうなネガティブ思考に陥ろうとしたちょうどその時。急に馬車の外が騒がしくなる。
「どうしたんだい?」
「大変申し訳ございません! 今朝方雪かきをしたはずなのですが、今門を開けるには少々苦労しそうなほどの積雪になってしまいまして」
「君は新入りかい? ゆっくりで大丈夫だ。まずは他の使用人たちを呼んで来なさい」
「かしこまりました!」
元気に邸の方へと走って使用人の青年。ほとんど後ろ姿しか見えなかったけれど、年はわたくしより少し上だろうか? 元気だな、と思う。
やがて何人かの先輩使用人と一緒に戻ってきた彼の手には雪かき用の道具が握られていた。
ザッザッと雪をどかしていく皆。わたくしも孤児院の周りの雪をかき分けていた去年のことを思い出す。雪かき以上の重労働なんてあっただろうか?
少なくとも麦刈りとか農作業の方がマシだ。こんな寒い中、重労働を文句ひとつ言わずに淡々と進めていく皆には感謝しかない。
三十分ほど経っただろうか。ついに門が開き、わたくしたち一行は敷地内へと入っていく。それからは早かった。馬車が邸の前に停まり、わたくしたちの久々の長い旅は終わった。
お父様の手助けを受けて馬車を降りる。
邸の前に積もっている雪は入口付近のものに比べてうっすらとしていた。当然なのだけれど、馬車の中よりも数段寒い。
わたくしたちが室内に入らないと使用人の皆を待たせてしまうのだとはお父様。そういった理由から、わたくしたちは馬車を降りて一分と待たず邸の中へと入った。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「ただいま帰ったよ、スチェンバー」
邸内の使用人の皆に迎えられるわたくしたち。
はじめてここに来た時には紹介されていなかったスチェンバーさん──心の中であればさん付けで呼んでも大丈夫だろう──は以前見た時よりも髪の毛が後退している……気がする。
名前も聞いていなかったから、わたくしの思い込みかもしれないけれど。
とりあえずの挨拶を交わすと、わたくしは一緒に戻ってきたベスたちと共に部屋に向かう。
部屋に到着すると早速、わたくしは旅装から楽な服装に着替えさせてもらった。室内の暖炉には火がくべられる。
一通り片づけが終わると退出していく三人。わたくしは夕食まで時間ができたので、ひとり図書室に向かうことにした。
記憶を頼りに廊下を進んでいくと、目的の場所に到着する。扉を開けるとやはりというか、ぶわっと本の香りが広がった。
このお屋敷にやって来た時にはロマンス小説なんて言葉も知らなかった。室内の本棚を眺めているとしみじみと感じる。
もちろん、王都ではないから最新のロマンス小説はここにはない。わたくしは読み古された本を一冊手に取った。
☆☆☆☆☆
夕方。わたくしはミアに呼ばれて一度自室に戻った。軽装から少しだけ豪華なドレスに着替えさせてもらう。
といっても王宮に向かうようなものではなく、王都のタウンハウスで普段着ているものだ。それでも、ここまで移動中はずっと旅装だったからかちょっと動きにくい。
そのせいか、孤児院横の礼拝堂ではじめてドレスに袖を通した時のことをふと思い出してしまった。
「できました~! どうですか?」
「ありがとう、ミア」
今日はベスとアニーは休んでもらっている。一番体力のあるミアが今日の担当をしてくれることになったのだ。
わたくしはつとめて明るく答える。そのままミアと一緒に一階へと下りていくと、久しぶりに食堂へと足を踏み入れた。
「やあイェニー。こっちへおいで」
「はい」
シェリーをはじめ、お兄様やお姉様もいない食堂はがらんとしている気がする。中に座っていたのはお父様とお母様だけだ。わたくしはお母様の向かいに座った。
タイミングを見計らっていたのだろう。料理が運ばれてくる。王都では食べられなかった作物や魚が中心に出てきて懐かしい。
けれど、フレデリク殿下のことがあるからだろうか。おいしいものを食べているはずなのに、どこか食事を楽しめない自分がいる。
「イェニーちゃん、大丈夫?」
「あまり大丈夫ではないかもしれません……」
「そう。ごめんなさいね。わたくしたちが双子だからとイェニーちゃんを手放さなかったら……」
「そういうわけではないのです……っ」
少し俯いて答えると、優しく返してくれるお母様。でも、わたくしは別に孤児院で過ごした日々が嫌だったとかではないのだ。
嫌なのはフレデリク殿下が……そこまで考えたわたくしは手にしたナイフとフォークを皿に置き、席を立ってしまった。
「どこに行くんだい?」
「ごめんなさいお父様……せっかくの料理なのに」
「いいんだ。無理をしなくたって」
「ありがとう……ございます。部屋に戻っても」
「大丈夫だ。大変なことがあったし、長旅で疲れただろう? 今日はゆっくりおやすみ、僕らのイェニー」
わたくしはお父様の言葉に涙をこぼしそうになったけれど……こらえた。いつもより幾分か軽めの礼をして、食堂を後にする。
部屋でミアに着替えさせてもらい、湯浴みを終えたわたくしは寝巻き姿になってベッドに潜り込む。
疲労がたまっていたのだろう。わたくしはすんなりと夢の世界へと落ちていった。そう、夢だと思っていたのだけれど。
「……きろ。おい、イェニー」
「……?」
わたくしは誰かの声で目を覚ました。ベッドサイドから聞こえる声。目頭を軽く手の甲でこすりながら声の主の方を見ると、そこに立っていたのは一人の青年だった。
「あなたは……?」
「イェニー。君は本当は『殿下との婚約なんてなかったらいいのに』と思っているはずだ。だから、逃げてきた。違うか?」
「……!」
目の前の彼はそのささやき声で、わたくしの内心を見事に言い当てた。わたくしが両親に伝えたかったのはそのことで……と考えつつも、心のどこかで否定する自分がいる。
「孤児院を出たのは間違いだったと思ったのではないか?」
「それは──」
違う、今度はそう心の底から明確な答えが返ってくる。そう口を開こうとすると、わたくしの首筋に冷たくて平らな何かが当たる感触がした。
「単刀直入に言う。孤児院の皆が君に帰ってきてほしいと言っているんだ。だから、俺について来るんだ」
「でも、お父様とお母様は……」
「心配する必要はない。ここは夢の世界。起きたらまたここに元通りだ」
首筋から何かの感覚が離れていく。そういえば、会いたいと思っていると夢の中でもその人が出てくるという話を聞いたことがある気がする。
目の前の彼は知らない人だと思うけれど──わたくしが侯爵家に引き取られたことを嫌だと思っていない一方、孤児院に一度帰りたいと思っているのもまた事実だ。
「さあ。心配は無用だ。俺の手をとれよ」
「わたくしは──」
フレデリク様の婚約者ですから。そう声に出す暇もないほど鮮やかな手つきで、わたくしの腕は青年に掴まれた。
続けてわたくしが感じたのは、顔にあてられた布の圧力だった。
「……!」
そのままわたくしは青年に担ぎ上げられたかと思うと、バルコニーの外へと連れ出される。
「いい子だ」
その言葉を最後に、わたくしの意識は途切れた。そう。わたくしは王都に続いて領地に帰ってきてからも連れ去られてしまったのである。




