二人の海·深く
海の深くへ行くにつれ、どんどん暗くなる。
彼がもぞもぞ動いて離れようとするけど、大したことはない。
水兵は、水中では力も一気に増大する。
それに、ここで手を離せば離ればなれになってしまう。
大人しく、私と一緒に墜ちてもらおう。
ここはローイー海溝、このキリセの海で3番目に深い海溝。
深さは一番深い所で11506m、幅は約26㎞。
水の流れも穏やかだし陸から近いので、ニームの水兵はよく来る場所だと聞く。
海底に到着し、手を離す。
「ふぅ…ふぅ…」
「あら、もしかしてきつかったですか?」
「いや、そういう訳では…はあ」
彼はため息をつき、あたりを見渡す。
「普通にあたりが見えるんだが、ここは本当に深海なのか?」
「私達と同じく、水中でも視界を確保できるようになってるので見えてるんです。ここは紛れもなく深海ですよ」
「どのくらい深いんだ?」
「この地点だと…4000mくらいでしょうか。
どうです?水、冷たいですけど、地上よりは温かいでしょう?」
「まあ…そうだな。少なくとも雪の降る海辺の町よりはましだな。
てか、こんな事聞くのもなんだが、俺達なんで潰れてないんだ?」
「水兵は体にたくさんの水分を含んでいますからね。常に体の中と外の圧力が同じになるので、深海でも平気なんです。
そして、私の力を受けている龍神さんも一時的に同じ状態になっているので潰れません」
「深海魚と同じ原理か」
「そうですね。深海に住む海人の中には、水圧に耐える為に脂を蓄えているものや体を硬いもので覆っているものもいます。彼らは、私達とは別のやり方で深海に適合した種族です」
「へえ…あれ、じゃ水兵は元々深海の種族なのか?」
「半分正解、って所ですね。水兵は元々、普段は海の浅いところで暮らし、海が荒れた時や子供を産む時は深海に来る、という生活をしていたそうです。
子供のうちから日常的に遊びで深海へ行くこともあったそうで、私達は今でも深海へくることは簡単なんですよ」
「ほう…」
龍神さんはどこか嬉しそうな表情をした。
「俺自身も似たようなものなんだが、知り合いに海が好きな奴がいてな…あいつがこれを聞いたら、喜んで来るだろうな」
「その人の種族は何なんですか?」
「えーとな、確か探究者…だったはずだ。
前にいつか世界一深い海に潜ってみたい、なんて言ってたから、すげー喜ぶと思う」
「世界一深い…ですか。
そうなると、レークの方に行かなきゃないですね」
「そうなのか?」
「このキリセの海で一番深いのはここから東にあるプイル海溝ですが、それでも14067mしかありません。
この世界で一番深い海溝は、レークの東方沖240㎞の地点にある、深さ55801mのテシア海溝です」
「55000…!そりゃ、果てしないな…」
「地上の人からすればそうでしょうね。
私達からすると普通の距離です。何なら、私でも一時間ちょっとあれば潜れます」
「行ったことあるのか?」
「ええ。真っ暗で岩と砂ばかりの、広く平坦な所です。生き物も殆どいない、とても殺風景な世界です」
「そうか。まあそうだろうな…しかし、水深55000mの世界か…一回行ってみたいもんだ」
「今回の旅が終わったら、二人で行きましょうか」
「水兵と二人で深海…か。悪くないかもな」
彼はにたりと笑った。
「深海はいい所ですよ。静かで暗くて…全てを忘れてリラックスできます」
「冷たい水に満たされた静かな海底…か。
瞑想とか昼寝に丁度よさそうだな」
「ええ、特に夏の暑い時に深海で眠るのは、とても気持ちいいですよ」
そこまで言った時、いきなり抱き締められた。
いや、正確には両方の肩の下に手を回された。
「なら、行ってみたいな。
ここの深海に…」
私は優しく微笑んだ。
「いいですよ。一緒に墜ちましょうか。
暗くて冷たい海の底へ」
「つきましたよ。
ここがローイー海溝の底、ケラネ海淵です」
「そうか…」
龍神さんは私を離し、仰向けに寝転んだ。
「海の底で寝るって、不思議な感じだな。砂がベッドみたいだ」
「その気持ち、わかります」
水深11506m、ケラネ海淵。
水温は4℃。水圧は1100気圧。
太陽光は全く届かず、深い闇に閉ざされている。
人間や陸の異人にとっては地獄のような場所でも、海の異人にとっては休憩室のような場所。
「…なんか、落ち着くな。深海なんてただ暗いだけの場所だと思ってたが、こうしてみると意外といい場所だな」
「そう言ってもらえて嬉しいです。
ここはまだ生き物がいますが、テシア海溝の底は生き物が殆どいません。
海流も穏やかなので、ここよりもっと静かですよ」
「そりゃいいな。
折角だし、ちょっと寝てみるか」
そう言って、龍神さんは目を閉じた。
「…ふふっ」
私はそんな彼の隣に寝そべり、彼の指に自分の髪を軽く絡めた。
「…何してるんだ?」
「大したことじゃありません。ただ、私と同じ気持ちを抱いてくれた事が嬉しいだけです」
水兵にとって、髪を相手の指に絡める行為は敬愛の気持ちを意味している。
彼が、その意味をわからなくてもいい。
やがて、彼は本当に眠ってしまった。
深い深い海の底。
そこで死んだように眠る彼を、私は愛しく思った。