30.ヒュウガ姉弟が温泉で洗礼を受ける
さて、なんとかその日の夕暮れまでに阿多温泉に着くことができて、旅籠も見つけることができた。からかいや冗談はあったが、ナギサ酒場の三人の部屋と、ヒュウガ姉弟の部屋とに順当に別れた。早速お風呂に入る。まずは男湯から。
「あー、気持ちいい! 身体がほぐれていきますねえ。ってなんでツバサさんいるんですか? 吊り飾りのままで部屋で待ってればいいじゃないですか」
「リン、なんでそんな冷たいこと言うだぎゃ? おでだって温泉入りたかっただぎゃ。ウタと一緒に女湯って思ってたぎゃ、びしっと断られただぎゃ」
「ウタちゃんも恥ずかしい年頃なんですね」
「いつも胸元に入れてるから自分はいいんだぎゃ、おねえさんたちを見るつもりでしょってだぎゃ」
「確かに~」
「おでは女には興味ないって言ったんだぎゃ、信用されないだぎゃ。……リンの肌は綺麗だぎゃ」
「や~め~て~。顔、今まででいちばん怖いですよ」
「怖くないだぎゃ。やさしいだぎゃ」
「いいです! ぼく上がります!」
「つれないだぎゃ。もっとあったまるだぎゃ」
「やだ、もお。だから、そんなとこ引っ張らないで!」
「なんか、あっちうるさいね」
「いいじゃない。覗きなんかしてないって証拠よ」
「なるほど~。大人ですね」
まだ遠慮があるのかヒュウガだけが少し離れたところで、夕焼けに染まった富士山を眺めている。
「綺麗だ」
「ホントですね。あれが富士ですか。すごく大きな山」
すいっと蛙のようにウタが泳いでそばに寄っていた。
「うん。この世でいちばん高くて、いちばん美しい山だって父親から聞いてたんだ。だから、ずっと見たかった」
「ヒュウガさんのお父さんはいろんな国のことを知ってたんですね」
この世界のこの時代ではほとんどの人間は、自分の生まれた土地から一歩も出ることなく一生を終える。土地に根を張った農民は元より踊り子にしても、祭りの際に近くの市に行くくらいがせいぜいだ。だから、今回の旅は格別の期待と緊張を抱いている。
「旅芸人だったから。それが一座の世話をしてた豪農の娘の母親と懇ろになって。――あら、やだ。みなさん、なんで集まって来るんですか」
「いやいや、お話を続けてください。親交がより深まりますよ」
後ろに回り込んだアミねえさんの目があやしく光っている。いつもはリンが独占している豊満な胸をじっくり検分している。
「それはそうですが、何もそんなにくっつかなくても」
「いいじゃないですか。女同士の裸の付き合い、いやらしくもなんともないです」
とてもそうとは思えない指使いである。さらに唇まで……。
「ちょっ! くすぐったいですって! 耳は駄目!」
「じゃあ、こっちは?」
キッコ先輩もノリノリで前から攻めていく。
「いえ、あの。あたしはそういう趣味は」
「趣味がなくても堕ちてしまうのがこの道です」
「リン! 助けて!」
「あらぁ。そっちの趣味で助けを呼ぶとは」
「弟とは肉親の情愛で変な趣味じゃないです!」
「姉さんどうしたの? ちょっと立て込んでるんだけど」
その声を聞いて、ウタ以外の全員が顔を見合わせた。男湯でもただならない事態が起きている! この姉弟はおいしすぎる。
「リンさん、ツバサさんと遊んでるの? あたしも混ぜて~」
再びウタ以外の全員が思った。そんな遊びに混ざっちゃ駄目!
部屋で全員がのぼせてぐったりしている。
「はあ、はあ。お風呂で遊ぶのはやめましょう」
リンが言うと、ヒュウガが汗ばんだ身体を近づける。
「だよね。無事だった?」
「どういう意味ですか! みなさんも何ですか、その視線」
「いや、無事ならいいんだが」
「何もなかったのか? ツバサだっけ?」
アミねえさんの質問に、ツバサは吊るし飾りに戻りながら答える。
「おでの口からは言えないだぎゃ。あの人に聞いて欲しいだぎゃ」
「キャ! あの人ですって!」
「おい! かわいい弟に何をした!」
すっかり飾り物になって、ぶらんと揺れて返事はない。
抱き合うでなく、離れるでもない美しい姉弟をみんなはただただ鑑賞する。
「あたしが絵師なら今見えてることを絵に描くなぁ」
キッコ先輩はこの子はいつも本当のことを言うと思う。
「今見えてることって?」
「ヒュウガさんとリンさんの仲のいいところでしょ。まずは」
「まだあるの?」
「アミねえさんとキッコ先輩が……仲が良くて、仲が悪いところ」
まただ。アミねえさんがちらっと見る。
「あたしとアミねえさんが? 仲悪くなんかないぞ」
「だから、それって絵にしないと難しいんだけど」
「あたしたちは絵師じゃない、踊り子だ。ウタもそれを踊りにしてみたらどうかな」
アミねえさんが諭すように言う。
「ですね。その前に晩ご飯だ。踊って機嫌取る必要のない食事なんて、いつ以来だろ」
太郎短の親分が言っていたように魚はあまりおいしくないし、煮物の味つけは濃かったが、気の置けない者だけでゆっくり食べる食事は何よりのご馳走だった。
「麻績寺って海から遠いんでしたよね」
「うん、そうらしいな」
「明日からは山道ですって。食べる物も干物とか漬物ばかりになるそうです」
「じゃあ、贅沢言わないで新鮮な魚を食べとかないと」
食休めに海岸を散歩する。ナギサ酒場の三人にとっては海などめずらしくもないが、風に吹かれたかったのだ。
「風が気持ちいい。みんなどうしてるかな」
「みんなって?」
「おかみさんでしょ。それからサホさん」
「サホさんは別れたばかりじゃない」
「おかみさんはあの男に愛想つかしただぎゃ。目が覚めたって言ってたぎゃ」
ウタの胸元からツバサが答える。
「ならいいんですが。――今心配しても仕方ないですね。それにどうやら」
今、ここで心配することができたようだとリンは感じた。
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