21.酔待草の子狐と子狸
街道に出て、しばらく行くと薄明りの中に三本松が見えてくる。リンが手を振っている。
「おはよう。ツバサさんは?」
「おはよ。ちょっとあって、残ってもらったの」
ヒュウガがリンの脇腹を突っついて言う。
「おいおい、会うなりひそひそ話かい。ホント隅に置けないね」
「そんなんじゃないですよ。あたしたちただの友だちですから」
「そうかい、そうかい。……ん? あんたの使い魔はどうした?」
「え?! ヒュウガさん、ツバサさんのこと見えてたんですか?」
「そりゃ見えるさ。みなさんもそうでしょう?」
ヒュウガの問いかけにキッコ先輩は震えあがって、松の切り株にもたれかかる。
「ちょっとやだ! あんな怖いの思い出させないで!」
「あたしはそれほどじゃないけど、正直一緒に旅はしたくなかったから、良かったかなって」
アミねえさんも苦手な食材を思い出したような顔をしている。
「ツバサさん、『おでは頼りにされてるだぎゃ。普段はかわいいから人気沸騰だぎゃ』って言ってたのに。聞いたら泣いちゃうかも」
「やめてくださいよ。ツバサさんの泣き顔なんて、それこそおしっこちびっちゃうレベルです」
「あのさ、イケメンがおしっこちびるとか言っていいの?」
「構いませんよ。言いたいこと言って、めんどくさい女の子が減ったら一石二鳥です。あ、でも」
かわいい弟がウタに取られそうで、気が気でないヒュウガが顔を覗き込んで訊く。
「なんだい?」
近い近いとリンは思う。でも、姉さんはいつもいいにおいだなとも思う。
「用心棒がぼく一人じゃちょっと心配じゃないですか」
「ま、まあ、その時はその時かな。ねえ、アミさん」
「そ、そうね。なあ、キッコ」
「そ、そうですね」
三人の様子が変だなと、リンとウタが顔を見合わせる。三人はこの前のように不用意なことを言って、物の怪や化け物を呼び寄せてしまうのを恐れていたのだった。
見晴るかす草原のはずが霧も靄もないのに見通しが利かない。正面から戦えない狐狸の類の仕業だろうか、いつの間にか湿地に誘い込まれている。辺り一面に酔待草が咲いている。
「何か変だ! ウタちゃん、大丈夫?!」
「お酒大酒器で~す。大丈夫、だいじょぶ。あはは」
「くっ。子どもに酒を飲ませるとは!」
「あたしたちにできることないかい?」
「――酔わせる踊りはあっても、酔いを醒ます踊りなんてないですよね?」
アミねえさんがにやっと笑った。
「なくてどうする。客あしらいには両方要るのさ。いくよ、キッコ」
「合点! ほいさ! やっほれ!」
アミねえさんが鉦や太鼓を調子よく叩き、キッコ先輩がそのリズムに乗って琴をジャカジャカ掻き鳴らす。賑やかで、思わず踊り出したくなる歌を歌うと、ヒュウガが心得て笙の低音を使って入って来る。即興のスリーピースバンドの演奏だ。ノリがよく、意外にビートが効いてて、歌詞が突き刺さる。
演奏の効果なのか、青空の下に草原が再び見えてくる。沼の上も歩けるようにジグザグの木の橋、八ツ橋もできている。
「ごめんなさい。悪気はなかったんです。おねえさんたちと遊びたかっただけなんです。元々この辺りは沼が多いので橋を架けておきました」
見るとかわいい子狐と子狸が神妙な顔をして跪いている。こんな子が大きな幻影を起こすとは俄かには信じられない。
「橋架けてくれてありがとうね。でも、子どもがお酒なんか使っちゃ駄目よ。あたしたちは先を急ぐから遊んで欲しかったら帰りにね」
「わかりました。……旅のご無事と、おねえさんたちが笑顔で帰って来れるよう祈ってます」
そういうと二頭はすうっとかき消えてしまった。言葉の終わりの方が野太くて、ただの子どもの狐狸ではないと感じさせた。
太陽が昇り、軽やかだった足取りも重くなってきたので、街道から少し離れた丘の上で昼の休憩を取ることにした。
「卵焼きに鶏のつくねとは豪勢だ。野菜も見たことない色取りどりので。もらっちゃっていいの?」
「はい、おかみさんがヒュウガさんとリンさんの分も作ってくれたんで、遠慮なく食べてください」
「いいおかみさんだね。いや、うちのおかみさんも悪い人じゃないけど、あんたのところのように痒い所まで手が届くってほどじゃない」
「おかみさんは背中を掻いてくれませんよ」
「あはは。ウタはお約束のようにボケてくれるな」
「常連さんはウタちゃんの天然をいちばんさみしがるんじゃないかしら」
気持ちのいい風が吹いている。雲がゆっくりと流れ、草原が斑牛のように動く。さっさと食べ終えたキッコ先輩が行く手を眺めて、誰ともなしに訊く。
「今日はどの辺りまで行けますかね」
「どうだろうね。阿多温泉まで行ければありがたいね」
「温泉ですか! そりゃいいですね」
「リンさん、あたしの裸を覗いちゃ駄目ですよ。温泉回だからって節度は守ってくださいね」
「何? その謎の設定! 温泉回があると水着回もあるの? この世界の水着ってどんなの?」
いきなり突っ走るリン。彼も思春期なのだろうか。
「リン! 水着ならお姉ちゃんが望み通りのを着てやるぞ。ナギサ酒場の女の子に惑わされるな!」
「惑わされてませんてば! ややこしくなるようなこと言わないでください」
「女四人に男一人じゃあ、宿を取るにも何かと不便だな。あたしと同じ部屋ってのはどうだ?」
アミねえさんまで、リンいじりに参加してきた。普段は水浴びだってままならないのに、湯治場へ行けると思うと心も弾む。
やがて陽が傾いて風がひんやりしてきた頃、硫黄の臭いがしてきた。いよいよ阿多温泉かと期待していると、先の崖の所で何やらもめているようだ。女一人を屈強な男三人が囲んでいる。
「やめて! 離して!」
「やめてでやめるおれたちだと思ったか?」
「離してで離すおれたちでもねえぞ」
「誰か助けて! 誰か!」
それを聞くや否やウタとリンは走り出した。合理的な計算などこの二人にはない。弱い者がいれば助ける、悪い奴は懲らしめる。極めて古臭い倫理観で動くのだった。