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愛のめちゃくちゃ

作者: ぬー

 朝、目が覚めると隣にあなたはいなかった。昨日の夜は確かに隣で眠りに就いたのに。朝の光は、カーテンの開けられた窓から約束事をするように差し込んでいた。

 布団から出て隣の部屋に行くと、あなたはいた。テーブルの上には、私のために作られたトーストとハムエッグ。コーヒーもある。きっと、ちゃんと角砂糖がひとつ入っているのだろう。あなたはカップラーメンを食べてる。予想への裏切りのない、あなたと私の朝の光景。

「ねぇ、どうして朝起きると隣にいてくれないの?」

 私は尋ねる。甘えたような声ではなく、算数の問題のように、ただ答えを求めるように。

「アナタの寝顔を見てるのが苦手でね」

 暗算してたやすく答えを出すような、あなたの返答。

「前は、起きたまま横になってるのが苦手だからって言ってたじゃない」

「うん、その前には起きたらすぐ食事をする主義だからって答えたね」

「どうして寝る時は一緒に寝てくれるの?」

「アタシ自身も理解できないけど、寝る時は一緒にいたいのに、朝起きると一緒にいたくなくなるの。今朝もそう。アナタと同じ布団にいるのが、なんだか耐えられないの」

「そっか。でもきっと私、また明日の朝もどうしてって聞くわ」

「そしたらまたそのとき何か理由を考えるよ。ほら、朝ごはん、食べなよ」

 あなたの言葉にしたがって、従順に、次々とあなたの作ってくれた朝食を口に含んでゆく。あなたのことも食べちゃいたい。くらいかわいい。なんてね。

 いつもの味。私の知っているあなたの作る味。私はあなたのすべてを知っている。つもり。


 私はあなたのすべてを知っている。生まれた理由も、行く先も、過去も未来もなにもかも。あなたの知らないあなただって、私はすべてすべて、知っている。そうそう、もちろん、つもり。


 あなたは生まれた。実りのすべて刈り取られきったあとの寂しい秋の日に。

 あなたは生まれた。両親の世間体のために。男は子供をもうけることは社会人の当たり前だと思っていたし、女は母になることで自分を認めることのできる自分になりたかった。需要を満たす供給として生まれたあなたは泣いた。喜びも悲しみもわからなかったあなたの涙。

 あなたは生まれた。そして生きてゆくことになった。


 あなたの両親は家賃を払うようにあなたに愛を注いだ。あなたがエリートコースを進んで人生を歩めるように育てようとした。誰が作ったのかもわからないエリートコース。だけどそれは確かにふたりからの愛だった。なるべくあなたがこの社会でいい思いができるように。愛でエリートコースへの軌道をこしらえた。ドラマチックじゃないけど、かっこいいとは言い難いかもしれないけれど、その想いは間違いなくふたりの愛だった。

 親というのは難しい。正解も不正解も、誰も判定をしてくれない。子供というのは難しい。正解か不正解かを判定されてしまうから。

 保育園ではお絵かきが好きな子供だった。あなたの周りにあるすべては、描いてとせがんでくるようにあなたの世界にやってきた。あなたは自分は永遠に絵を描くのだと思った。それは、意志や希望ではなく、ただそうなのだろうという、純粋な思い。バッタがいる、跳ねる。車がある、走る。アタシがいる、描く。そうやって無数の当たり前が固まってあなたの世界はできていた。

 小学生では絵が得意な子供だった。あなたの絵をクラスメイトや先生が称賛した。

「よくできてるね」

 それはあなたの絵への言葉でもあったし、あなた自身への言葉でもあった。あなたはますます絵の世界にのめり込んだ。誰よりも絵が得意な子になろうと思った。あなたにとって絵は、一番の褒められる手段だった。誰よりも素敵な絵を描けたら、誰よりも素敵な人になれるんだろう、あなたは未来が楽しみだった。

 中学生では絵を描いてばかりの子供だった。あなたの絵はどんどんと上達していて、周りのクラスメイトや大人から褒められることもたくさんあった。絵のために、それがあなたの考えや行動の根幹だった。要領も悪くないし、理解力だってあるあなただから成績はそれほど悪くなかった。だけど平均点、偏差値、判定ばかりを気にする両親はしばしば「絵よりもまずは勉強を頑張ってほしい」と言ってきた。成績は悪くなかったが、勉強を頑張るのは苦手だった。得意なことを引き合いに苦手なところを言われることにあなたは苦痛を感じるようになっていった。絵を描いている時間は勉強をしていない時間、後ろめたさの中で、あなたは絵を描き続けた。

 高校生では絵を描くことにすがっている子供だった。なんとかやり遂げた高校受験のあと、両親が渡してきたのは褒め言葉ではなく大学受験の話だった。都内で屈指の大学、そこに入ることを両親は求めた。高校生活はどんなものかな? あなたは楽しみだった。だけど、あなたの思い描いたすべては、まるで犠牲にするためにあるもののように言われた。あなたは両親に隠れて絵を描くようになった。生きづらさの毎日から逃げるように、自力では何も解決できない現実から目を逸らすように。あなたの涙は時折、あなたの絵の上に落ちて絵を歪めてしまった。

 高校三年生の時、あなたはその時持ってるすべての勇気を集めて、冒険をすることにした。本当は行きたかった美術大学の願書をネットで注文した。たった数回のクリック、だけど、それはあなたの初めての旅だった。絵を描きたい。絵を描いていいと言われながら、絵を描きたい。それがあなたの願いだった。両親には言えなかった。

 あなたは生まれた。両親の世間体のために。両親はエリートコースを娘のために用意した、そう得意になっていた。確かにそれは両親からの愛だった。だけど、進路を決めたのは両親だったけれど、あなただって歩いたんだ。あなたはあなたを運んできたんだ。その道を時に杖となり、時に食糧となり、時に傘になってくれた絵という存在。その絵が、道そのものになってくれるような気がした。行き先のわからない、両親の教えてくれなかった道。あなたは初めて自分の意志で行き先を決めた。

 猛練習した。両親の言った大学も義理では受けたが、勉強なんてすべて捨てて絵に打ち込んできた。ほとんど解けなかった試験は、絵に打ち込んできた証拠のように思えて、あなたは自信をつけた。

 両親には秘密のまま美術大学の受験当日を迎えた。「ちょっと出かけてくるね」なんて白々しいセリフ。すんなり言えてしまった嘘に、あなたは自分で少し笑ってしまった。快晴。あなたは気分良く受験会場に向かった。受かったらどうやって両親を説得しようかな? そんなことを考えた。明るい未来を自分で掴み取る素晴らしさを、あなたは噛み締めていた。

 帰り道、あなたは家の前まで来るとうずくまって泣いてしまった。あなたはずっと、絵を褒められて、絵にすがって生きてきた。だけど、試験会場で見たのは本当に絵に命をかけている人たち。予備校に行って、苦しみながら絵を学び、技術を磨いてきた人たち。「好き」だけではない原動力で進んできた人たち。あなたは生まれてはじめて絵に否定された。これこそ自分の道だと思った、その絵に否定された。予備校に通っていれば、両親の言う通りの大学に向けて勉強していれば、絵なんて描いてこなければ、よかった。あなたはすべてを台無しにしてしまった気がした。自分はなんてみじめなのだろう。自分はなんて愚かなのだろう。消え去ってしまいたい。身体の中に悲しみが膨らんで、支配して、身体中の水分を外に押し出すように、涙が流れ続けた。

 両親もまた泣いた。自分たちがお前に寄越した愛をすべて裏切ったんだと罵った。あなたはなにも反論できなかった。とんでもないことをした、申し訳ないことをした、失敗した。あなたはもうずっと泣き通しだった。何度も何度も同じことを言われた。両親はまるで投資に失敗したかのように苛立っていた。

「一年だけ浪人をさせてやる」

 父親が突きつけてきた言葉、これは愛ではなかった。今まで払ってきた愛に対する報酬を渡すようにというクレームだった。だけど、そんなことはあまり重要じゃなかった。そもそもあなたはいままで両親の愛がわからなかったし、それに、あなたにはもう両親の愛は必要なかった。

「美大に行くために、浪人をします」

 泣きながらあなたは言った。あなたはもう、あなただけの旅に出てしまっていた。悔しい、不甲斐ない、だけど、見返してやりたい。絶対に美術大学に行って、絵に食らいついて、絵に復讐してやりたい。絵に殺されきってしまいたい。絵を描きたい。それがあなたの答えだった。

 あなたは生まれた。両親の世間体のために。

 あなたは決めた。あなたの欲望のために生きてゆくことを。

 両親は当然怒り、あなたは家を出た。スーツケースの中に、今のすべてを詰め込んで。星の見えない夜。けれど、雲はなかったように思えた。


 あなたと私は出逢った。まだまだ誰も目を覚まそうとしない春の日に。アパートもアルバイトも見つけたあなたは、予備校に通い始めた。薄暗い教室。その片隅にたたずむ私を一眼見て、あなたは直感に打ち抜かれた。つまり、あなたは恋をした。私は千年の時を座って過ごす仏像のように微笑んで、あなたに声をかけた。

「こんにちは」

 はじめまして、とは言わなかった。私はあなたのすべてを知っている。だから、あなたと出逢うこの日のことも知っていた。あなたの恋も、あなたが次に口にする言葉も。

「こんにちは……あの、出逢ったばかりで、唐突だし、変だと思うんだけど、アタシの絵のモデルになってくれない? ごめんね、突然こんな……だけど、嫌じゃなかったら、お願い」

 恋なんて文献上でしか知らなかったあなた。ましてや一目惚れなんて。だから、あなたはその感情が本当に恋なのかわからなかった。だけどそれは、間違いなく恋だった。私に飛びつきたい恋の衝動、私と少しずつ仲良くなりたい理性の制御。絵のモデルになって。それは、あなたの精一杯の私への表現だった。

「いいわよ、いつでも大歓迎」

 私の笑顔、私の声、私の言葉、すべてがあなたをふるわせた。恋に賛美歌があるなら、きっと音色はこのようなものだろうとあなたは思った。

「ありがとう」

 あなたも不器用に笑った。あなたは瞬間、すべてを忘れていた。受験の失敗、両親との軋轢、ひとり暮らしの孤独、絵への愛憎。あなたの心は私への恋に支配された。あなたと私は出逢った。まだまだ誰も目を覚まそうとしない春の日に。だけどそれは春だった。降り注ぐ温かい優しさは、もうそろそろ息をしてもいいんだよと教えてくれるようだった。


 それからのあなたと私は、歯車のすべてがうまく噛み合ってオルゴールが鳴るように、日々が流れた。あなたはいつしか私のアパートに住むようになっていた。

「ご馳走様でした」

「ん、お粗末様。ずいぶんと時間かけて食べてたけれど、あんまし元気出ないの?」

「ううん、元気よ。あなたのこと思い出してたら、ぼーっとしちゃった」

「ふふ、なにそれ」

 出逢って半年という時間。あなたと私は随分と近づいた。

「お誕生日おめでとう」

「……ん、ありがとう」

 あなたは生まれた。実りのすべて刈り取られきったあとの寂しい秋の日に。春が過ぎて、夏が過ぎて、今日はあなたの誕生日だね。

「今日は予備校、サボっちゃおうか」

「ううん、行くよ。他にどこに行っていいかわからないし」

「そう言うと思った。だけど、あなたはどこに行ってもいいのよ?」

「どこにでも行けるけど、行くべき場所は予備校だと思うからさ」

「そっか」

「十九歳になっちゃったよ」

「十九歳の抱負は?」

「……わからないや。十九年生きてきたけど、私は何者でもない。ずっと親の言う通りの道を生きてきたけど、裏切った。親の言う通りのまま生きていれば、親の自慢の娘になれたんだろうね。親が嫌いだったわけじゃない、決められたレールの上を行くのが嫌だなんて青臭い理由じゃない、ただ純粋に、アタシは絵に没頭して生きてみたかった。小さい頃のように、アタシが絵を描いて、アタシも周りも楽しい、そんな生活が送りたかった。だけど、失敗した。アタシは失敗した。十九年、たどり着いた今は、出口の見えない迷いの中……。誕生日なんて、なにも嬉しくないよ。お前はなにをしているんだって言われてるみたいで。抱負なんてわからないや。アタシはどこへ行くんだろう。どこへ向かえばいいんだろう」

「私との出逢いは、よくない思い出?」

「……ずるいよ」

「私は祝福してあげる。あなたの誕生日。お誕生日おめでとう。生まれてきてくれてありがとう。あなたは生まれたのよ、私と出逢うために」

「……ありがとう」

 私はあなたのすべてを知っている。あなたの嬉しいことも、悲しいことも、すべて。だからわかってるの。私の言葉があなたの耳に届いても心に届かないことを。あなたは迷いの中をもがいている、あなた自身の中をもがいている。だから、私の言葉は届かない。だけど私は言葉を紡いだの。これはあなたが受け取る人生で二番目の愛。気づかなくてもいいの。私はあなたに差し出すの。

「予備校、行こっか」

「うん。そうするよ」

「上着を着せてあげる」

「誕生日だから?」

「ええ、今日だけ特別よ」

「あはは、いつも着せてくれたらいいのに。じゃあ今日はアタシもアナタに上着を着せてあげる」

「あら、私は誕生日じゃないわよ?」

「おめでとうと言われて、ありがとうと返すようなものだよ」

「そっか。じゃあ、着させてもらおうかしら。ほら、背中向けて。先に着させてあげる。レディファーストだから」

「ふふ、アナタもレディでしょ。ありがとう」

 私があなたを見て笑う。あなたが私を見て笑う。お誕生日おめでとう。このまま上着であなたのすべてをくるんで、私へのプレゼントにしちゃいたい。なんてね。きっといい日にしてあげる。きっときっと、きっとね。


 私のアパートから、予備校までの道。いつもふたりで歩くこの道は、林立する高層ビルがほとんど空を食べ尽くして、太陽や星はいつも居場所がないのか、見ることはできなかった。吸い込む空気はおもりになって歩みを鈍くさせた。あなたはいつもこの道を歩くたびに、自分が失敗者であると再確認しているような気分になって沈痛な面持ちになった。時には小石を蹴飛ばした。本当に蹴飛ばしたいのはあなた自身なのだろうけれど。

 あなたの誕生日、特別な日。今日も歩くこの道。そしてあなたは今日も沈んだ顔。今日も、というより、今日はより一層。本当はこんな道早く歩ききってしまいたいけれど、目的地である予備校には早く着きたくない。あなたはいつも、じりじりとゆっくりこの道を行く。「今日は、誕生日くらいはサボるよ」って言えるようなあなただったらきっと、ただ歩くだけでこんなに苦しむことはなかっただろう。だけど、あなたはほとんど毎日予備校に行っている。絵にすがっているあなた。予備校に行かないでどう過ごせばいいのかわからないのよね。街に行けば喫茶がある、映画館がある。電車に乗れば海にだって行けるし、レンタカーを借りたら私が運転してあげる。だけど、あなたの心の中には街も、電車も、車もない。あるのは絵を描かなきゃという焦りばかり。あなたの中の片隅に一畳ばかりのスペースをもらって、私はあなたの心を見渡している。私にはすべて、見えているのよ。一歩、一歩、あなたは行く。「今日は、誕生日くらいはサボろうよ」と私が言えば、きっとあなたはそうするだろう。ひとときの安らぎを得て、あなたの心を少し楽にすることもできる。だけど、言ってあげない。あなたは苦しみながら、どんどんと歩いて行けばいい。あなたの歩幅に合わせて歩く、私がいつでも隣にいてあげる。一歩、一歩、あなたと私は行く。


 予備校に着くと、そこもいつもと同じ見慣れた風景だった。開いた大きな窓、差し込んでくる自然光、並んだ石膏像はどれも別々の方を向いていて、人々の前にはキャンバスが置かれ、その画面は刻々と色や形を変えている。色彩、絵の具の匂い、筆を走らせる音。予備校はそのものが一匹の脈動する輪郭のない生物のようで、その中にいるみんなは身体が分解され栄養分を吸い取られるように、絶え間なく筆先から絵を生み出していた。

「ねえ、今日はアナタを絵に描きたい」

「私を?」

「うん、アナタを」

 あなたと私が出逢った頃、あなたは同じようなことを言ったわね。だけどその言葉は、恋をしたあなたの口実。私に近づきたかったあなたの口実。その口実から始まったあなたと私の関係は、今こうして同じ言葉に戻ってきた。私を絵に描きたい、あなたはそう言ったのね。今のその言葉は、真実。あなたは今日、私を絵に描くことに決めた。それはふとした思いつきで、偶然の思いつき。なにかきっかけがあったわけでもないし、本当にただ、ふと思いついたこと。だけど、偶然は時に必然として起こる。あなたのその思いつきの理由を、私は知っている。あなたはまだ、気づいていないけれど。

「いいわよ」

 私はそばにあった椅子に腰掛けて、答えを言った。短い答え。さあ、描いて。今からあなたが描く絵、描き終わった時に、あなたはその意味を知るでしょう。

「ありがとう」

 あなたも短く答えて、私を描く用意に取り掛かった。昼の光は、予備校の大きな窓から秘密を打ち明けてくるように差し込んでいた。


 あなたじっと私のことを見つめている。キャンバスの前に座って、腕を組んで。一度湿らせた絵筆はもう乾きつつあって、あなたはまだ何もキャンバスに描いていなかった。あなたはじっと私のことを見つめている。だけど、その瞳の奥に写っているのは私じゃないみたい。

 あなたは予備校に入ってから、苦しみの中で絵を描き続けてきた。楽しいとか、嬉しいとか、そんな気持ちにはなれなくて、一枚一枚仕上げてはもっとこうするべきだとか、ここが拙いとか、そんなことばかりを思ってきた。あなたは絵を描くたびに傷ついた。自分の未熟さを痛感して、そして自分の過去の失敗を思い出して。描きたいものなんてもうなにも思いつかなかった。ただ、あの技法がとか、この画風をとか、そんなことばかり考えて、あなたにとって絵を描くことは今、ただ自分の腕を磨くためのことになっていた。なんのために腕を磨くのだろう? あなたはふとそんなことを考えることもあった。すぐに答えは美術大学に入るためと自分の中で答えを出す。あなたはその自問自答を何度も繰り返してきた。毎回同じ答えが出るのに、どうして納得しきれないのだろう。あなたはそうも自分に問いかけた。だけど、あなたはいつもその問いに答えることはなくて、時間を無駄にせず絵を描かなきゃとまたキャンバスに向かった。あなたはもう、絵を描くしかできなかったのよね。あなたは苦しみや悩みの中で、唯一できる絵を描くことだけを続けた。その絵がまた苦しみや悩みを生んで、あなたはその中でまた絵を描いた。なにひとつあなたの思い通りにはいかなかった。あなたは失敗者だった。そして今も、あなたは失敗者。そのことに心では気づいているけれど、頭ではどうしていいかわからないから、ただひたすらに絵を描いた。あなたを失敗者にしたその原因の絵に、すがり続けていた。

 あなたはふとした思いつきで、私の絵を描くことにした。画材の用意をし始めてあなたは気づいた。思いつきで絵を描くのはいつ以来だろう。あなたはいつしか絵を描く時には計算をするようになっていた。より絵の腕を磨くための計算、それをしてから、あなたはいつも計画的に絵を描くようになっていた。あなたは絵を描きたくなった。私の絵を。純粋な心、絵を描きたいという心。描かなきゃではなく、描きたい。懐かしい衝動だった。昔は、いつもこの衝動に突き動かされて、絵を描いていた。あの頃、絵を描くことは喜びだった。懐かしい衝動、だけど今は戸惑っている。この衝動に突き動かされて、今でも喜ぶことはできるのか。あなたは不安になった。もし喜ぶことができなかったらきっと、絵を、自分自身を全否定してしまうように感じた。だから、あなたはその衝動の中で、筆を取ることができないままでいた。

 あなたは目を閉じた。そうして、ずっとずっと、目を閉じていた。思い出しているのでしょう? 十九年、生きてきたあなたのこれまでを。いままで何枚も描いてきた絵、だけどこれから描く一枚は、いままでとはまるで違うもの。さあ、描いて。そして、その絵の意味を知って。あなたは不安なのよね。この絵を描くことさえ失敗しそうで。でもあなたは勇気を出した。回想は終わり、あなたは今に戻ってきた。目を開けて、鼻から息を深く吸って、吐いて。あなたは絵筆を取った。

「うまく描けなくても、怒らないでよね」

 あなたの言い訳、照れくさそうに、小さくそう言った。それはモデルになる私への弁明のようだったけれど、本当は、あなた自身への言い訳なのよね。どれだけの言い訳をしてくれてもいい。どれだけのためらいをして、悩んでくれてもいい。最後まで私を描いて。私は願いを捧げるように、ゆっくりと両手を組んで、目を閉じた。さあ、この姿を描いて。


 あなたの目が私を捉える。手を動かして、キャンバスに絵を描いてゆく。なんて簡単なんだろう。あなたはそう思っているのよね。あなたにとって、私は特別な人。だからあなたは、私を描くことは難しいだろうと予想していた。描いても描いても、あなたの私への心を満足させるような、そんな納得のゆく出来にはならず、途中で断念してしまうことだって大いにありえるだろうと思っていた。だからあなたは驚いている。なんて簡単なんだろう。今までこんなに絵を描くことが簡単だったことはなかった。キャンバスがどんどんと埋まってゆく。どこにどんな色を用いればいいのか、計算することなく、次々とほとんど自動的と言ってもいいほどに描いてゆくことができる。いつもなら頭の中に完成図を用意して、それをなぞってゆくように描くのに、今この絵は、まるで絵自身がキャンバスに現れるように思えた。面白い、とあなたは思った。面白い、面白い、絵を描くことはなんて面白いのだろうとあなたは思った。こんな気持ちで絵を描いたことは初めてだった。この絵を描いているこの瞬間、瞬間、あなたには輝いてあるように思えた。

 だんだんと絵は完成に近づいてゆく。それは終わりの予感。あなたの目から、涙がこぼれた。あなたはこの絵の意味を少しずつ掴んでいった。わかればわかるほど、より涙があふれてきた。あなたは確かに、死んでしまいたい、そう思った。

 あなたにとってもはや、絵を描くことはつらく苦しいことだった。絵の道を生きる道と決めたあなたにとって、生きることもまたつらく苦しいこととなっていた。人間にとって、生きる意味とはなんだろう。答えはきっと、そんなものないのだろう。あなたは生まれた。両親の世間体のために。人は生まれる。それぞれの親の事情で。生きる意味なんてない。それは、人は自ら望んで生まれてくるわけではないから。理不尽に生まれ、理不尽に生き、理不尽に死ぬ。それは過去すべての生き物が経験し、未来すべての生き物が経験すること。生きることに意味なんてない。生命に運命もないし、使命もない。だけど、あなたはそんなこと信じられなかった。生まれてきた以上、なにかを成し遂げたい。自分はいるんだと歴史に示したい。自分にしかできないことを成し遂げたい。そうしてあなたは絵を選んだ。絵こそ自分の運命で、使命で、生きる意味だと思い込むことにした。だけどあなたにとって絵は、達成感を、自己肯定感を、承認欲求を満たすためのものだった。もちろんそんな意図なんてあなたにはなかったけれど、あなたはそうして絵を用いて自分を乗りこなしてきた。自分に餌を与えてきた。エゴ、それがあなたの絵。あなたはそのことに気づいてしまったのよね。

 今描いている絵、それは、今まで描けたことのない絵。どこまでも純粋で、無垢な、エゴのひとかけらもない絵。それを描きながら、あなたは自分の過去すべての絵に対して嫌悪感を抱いた。自分のエゴのために生み出された、数多の絵。あなたがしていたことは、あなたが抵抗し決別した両親と同じことだった。今、キャンバスの上に生み出されている絵。それは、まるで初めての人類のように、自らが自らとして生まれてきた。なんてこの絵は美しいのだろう、その感動。なんて自分は醜かったのだろう、その嫌悪。あなたの二筋の涙は、ふたつの感情から止めどなく流れた。この絵を描き終えたら、死んでしまいたい。あなたは今までの自分のすべてを否定したくなってしまった。あなたの生まれを、あなたの生きてきた日々を、あなたの描いてきた絵を。理不尽に生まれ、理不尽に生き、理不尽に死ぬ。それが生命の理。だけどあなたは、あなた自身だけのなにかを掴み取りたかった。だから死を、あなたは自分の選択で得ることを考えた。生きることはすべて理不尽だ。だけど、死なら自分のものにできる。自暴自棄になったわけではない、生きる力がなくなってしまったわけでもない。ただあなたは、なにもかも思い通りではないあなたの命に、ひとつだけ反抗する手段に気づいただけ。あなたは死ぬことを決意した。

 決意したその刹那、あなたは筆を止めた。絵が完成したのだ。あなたはその絵から目が離せなくなった。美しい絵。今日この日、あなたがこの絵を描いたこと、それはあなたにとって運命のように思えた。ないと断言してしまえる、その運命のように。なんだかそれがおかしくって、あなたはつい笑ってしまった。涙はもう、流れきっていた。この絵はあなたの遺書なんだね。あなたは死ぬのが楽しみになっていた。遺書ができて死ぬ準備が完了して、あとは死ぬことばかり考えることができた。いつ、どうやって死のうかな。それは旅行の計画を立てるように、楽しい思考だった。ガイドブックがあればもっと楽しいだろうな。あなたはそんな明るい自殺志願者になった。

「できた?」

 私はたずねる。答えなんてわかっているけど、あなたと話したいから。

「うん、できた、できたよ。我ながらいい作品だよ」

 あなたは上機嫌に答える。キャンバスをひっくり返して、私に見せてきた。あなたが今まで描いてきた中で、最も拙い絵。あらゆる技巧も、作為も見出せない。モデルとなったはずの私の姿はその絵にはまったく見て取れない。人物を見て描いたと言っても嘘だと断定されそうな、そんな絵。抽象画と言うにもあまりに実態のつかめなさすぎる絵。だけどあなたには、すべてが見えて、すべてが描けてしまった。

「描かれてるの、私じゃないみたい」

「そうだね。実は、アナタを描いたわけじゃないんだ。だけど、アナタがモデルだったから描けた絵なんだよ」

 そう、あなた自身ももうわかっていた。あなたは私を見ていなかった。私はレンズで、あなたは私を通してあなた自身を見た。

「いい絵ね」

「うん、本当に、文字通り自画自賛だけど、素晴らしい絵だよ。こんな作品は二度と描けないね。だけど、これを描いてアタシは救われるような思いだよ。アタシにもできることがある、そうわかったんだから」

 あなたの言った、あなたのできること、それは、素晴らしい絵を描くことを意味していない。あなたのできること、それは、あなたが死を手に入れることなのよね。あなたはもう、絵のことなんて頭になかった。私のことも頭になかった。あるのはただ、死ぬことだけ。

「いい絵ね、本当に。また描いてね、私をモデルにして」

「うーん、今日の出来には大満足だよ。今日はもう、他に絵は描かなくていいや」

 また描いてね、私はそう言った。だけどあなたはそれには答えなかった。今日はもういいや、あなたはそう言った。本当は今日じゃなくて、今後一切、もう描く気はないのよね。

「もう帰るの?」

「うん、今日はもう、おしまい」

 本当は、今日でもう、おしまい。そのつもりなんでしょ。

「まだ来たばっかりよ? 帰るには早すぎない?」

「ん〜、でもなぁ」

 空返事。あなたは一刻も早く死にたくなっていた。楽しみ、待ち遠しい、あなたは死ぬのが待ちきれなくて、上の空だった。

「じゃあ、お散歩でもしましょうか」

「ん〜、散歩ね」

 私は焦っている。あなたを絶対に死なせたくない。なぜって? それは、私はあなたを愛しているから。この世界に、愛の形は色々あるのだろう。好きな人が死にたがっている。なら、望み通り死なせてあげるのが愛なのかもしれない。確かにそれは愛だろう。だけど、それは私の愛じゃない。私の愛は、独占欲。私はもっともっとあなたに愛を捧げたい。だから、あなたに死なれては私の愛が困ってしまうの。あなたを絶対に死なせてなんてあげるものですか。

「ねえ、私はどうするの?」

「え?」

「あなたは死ぬんでしょ」

 あなたは驚いた。当たり前よね。心の中を見透かされていたんだから。あなたは死ぬことにした。素晴らしい思いつきだと思った。あなたは自分のその思いつきを自分だけのものだと思っていた。だけど、私は知っている。私はあなたのすべてを知っている。私はあなたを愛してる。だから、あなたの思い通りになんてさせない。

「ねえ、あなたは死ぬつもりなんでしょ」

「……」

 さっきまでの楽しそうなあなたはどこへやら、今は相槌を打つことさえできなくなっている。不可思議、驚き、理解不能、不気味。あなたの私を見る目はすっかり怯えていて、私はすっかり嬉しくなる。

「死ぬなら、私も心中させてくれる?」

「それは……ダメだよ」

 そう言うに決まってる。だってあなたが死にたいのは、死をあなただけのものにしたいから。あなただけが、あなたの手によって、死を獲得することに意味がある。だからそこに、私はいてはいけない。あなたは確かに、私に恋をした。私のことが好き。だけど死の獲得の魅力は、そのことだけしか考えられなくなるほどのものだった。当たり前よね。あなたがあなたの人生に逆転勝利できる方法なのだから。自分の人生を自分のものにする、唯一の方法。それは究極のエゴイズム。だけど私はあなたを死なせたりしない。あなたにはこれからも生きてもらうわ。あなたのエゴイズム、私のエゴイズム、その対決。

「あなただけが死ぬなんて許せないわ。心中してくれないなら、あなたを絶対死なせない」

「そんなこと言われても……もう、決めたんだよ」

「ダメよ、あなたは生きるの」

「それは嫌だよ、絶対に嫌。アタシは死ぬの」

 予備校の片隅で死ぬ、死なせないなんて問答を繰り広げているあなたと私。だけど他の生徒はみんな、各々の絵に熱中していて、奇妙なふたりにはまるで気づいていない。なんだか私はおかしくなって、息を漏らして笑った。それにつられて、あなたも笑い出した。

「ふふっ、死んじゃダメだからね」

「あはは、死ぬのは決定事項なんだから」

 そうしてあなたと私は笑い合って、ふたりの愉快さの上であなたの命は行き先を決めかねられていた。意見を曲げないあなた。強情な人。今までは強情さなんてまるでなかったのに。だけどあなたにとって今回の

思いつきは大切で大切でたまらないものなのよね。あなたがあなたの人生で見つけた、勝利の方法。失敗者のあなたが手にできる成功。あなたの気持ち、よくよくわかるつもり。だけど私は、絶対にあなたを生かしてみせる。あなたはまだ、生きてゆくのよ。私のために。

「絶対死なせないから」

「絶対死んでみせるよ」

「……あはっ」

「……ふふふ」

「あはははは!」

「あはははは!」

 なんて愉快なんでしょう。死ぬことについて話すことがこんなにも楽しい。いつまでもこの話をしていたら、いつまでも笑ってしまいそう。だけどそれは叶わないでしょう。あなたは今日、死んでしまうつもりなのだから。今日、特別な日。あなたの誕生日。あなたは思った。ただ死んでしまえることだけでも素晴らしいのに、誕生日に死ねたらそれは美しすぎるじゃないか。あなたの望む美しさを、だけどね、私は私の醜さですっかり破壊してしまうから。あなたと私はずっとずっと他の誰にも聞かれない声で笑い合った。


 帰り道、私はあなたの横にぴったりとくっついて歩いた。あなたはビルを見つければ飛び降りることを考え、車を見つければ飛び込むことを考え、レストランを見れば食べ物を喉につまらせることを考えた。コンビニにはロープや刃物、大量のお酒も売っているだろう。コンビニは死ぬのにも便利なんだな、あなたはそんなことも思ってひとり笑ったりした。あなたは自分を取り囲む世界にはこんなにも多くの死ぬ方法があることに気づいて、世界がとても楽しいところのように思えた。まるで遊園地にいるように、さあどれを体験しようかとワクワクしていた。私が抱きついているこの腕を離せば、あなたは子供のように駆け出して、そしてすぐに死を手に入れるだろう。だけどそんなこと、許さないから。

 高層ビルにほとんど埋め尽くされた空。夕方の光は次に起こることを伺い知ろうとするようにあなたと私のことも照らしていた。

「ねえ、夜ご飯食べましょうよ」

「夜ご飯? そっか、夜ご飯か。いいね、食べよう」

 ずっと死ぬことばかりを考えていたあなた。私に言われて空腹に気づいたみたい。最後の晩餐、それもいいな、なんて考えているのでしょう。

「あなたに人魚の肉を食べさせたいわ」

「ダメだよ、不老不死になっちゃうからね」

「ねえ、蟹はどう?」

「蟹?」

「そう、蟹」

「蟹かぁ。高いでしょ?」

「ふふっ、あなたまだ人間なのね。どうせ今日死んじゃうなら、お金なんてあるだけ使えばいいじゃない」

「あはは、思えばそうだね。もうバイト代を計算しないでいいんだもんね」

「そうよ。できる限りの贅沢をしましょう」

「ん、じゃあお金おろしてくるよ。おごるよ」

「いいわよ、自分の分は自分で出すわ」

「でも、アナタはこれからも生活があるんだから」

「私の生活なんて考えなくていいのよ。もし困ったらあなたの口座からもらうし」

「あはは、暗証番号は気が向いたら教えてあげるよ」

 ふたりでATMに行ってお金をおろす。万札なんて、アルバイトの給料日か家賃を払う時以外ほとんど見ることはない。貧乏のドン底というほどじゃないけど、お金にはあんまり好かれていないあなたと私。でも、予備校にいるほとんどみんながそうだろう。蟹を食べるなんて、普段なら贅沢すぎて嬉しくもない。むしろ嫌悪感さえあるだろう。

 蟹の店は予備校とアパートまでの道沿いにある。いつも通る道沿い。だけど、自分たちには縁のない場所だと分かっているから、「贅沢ですよ!」と主張するために取り付けられているかのような巨大な蟹を模した看板も目には入っているのだろうけど、ほとんど気に止めることはない。今、あなたと私は店の前にたたずんでいる。巨大な蟹は下から見上げると、歪な赤い丸から同じく赤い線が何本も出ているその形は、グロテスクな太陽のようだった。欲望を形にしたような見た目。今はなんだか、蟹という生き物は人間に食べられるためにあの形になったのではないかというような気持ちになる。あなたと私は意を決して店に足を踏み入れた。

 二万五千円。ふたり合わせて五万円。この店で一番のコースをあなたと私は頼んだ。メニューの値段のところだけを見て、一番数字の大きなものを頼んだ。何が出てくるのかはよく把握しないまま。

「どうせだったら、飲み物はお酒を頼んでもよかったかもね」

「ダメよ、あなたはまだ十九歳なんだから」

「ふふ、そうだね。思えば、今まで生きてきてやらなかったことってたくさんあるな。飲酒、喫煙、大学生活もだね」

「そうやって並べられると、大学生活も有害なものみたいね」

「どうだろう。アタシにはもう、知るチャンスのないことだよ。アナタが体験して、いつかアタシに念じるとかして教えてよ」

「やっぱりまだ死ぬ気なのね。もしかしたら蟹、食べたら美味しすぎて死ぬのやめたくなるかもしれないわよ?」

「どうだろう。楽しみだね。こんな高い食事を注文するの初めてだよ」

「いつもは七百円の定食か、もやしとお豆腐ばかりの自炊料理なのにね」

「高い料理を注文するってのはいいもんだね。うまく言えないけど、実は自分の見ることのできる世界は広いって思えるよ」

「あなたはまだその広い世界を見に色々なことができるのよ。いつだって死んでしまえるのだから、生きてみればいいのに」

「いいや、死ぬって決めたんだよ。命っての本当に不平等だ。生きたくても生きられない人間だっている。アタシみたいに健康だけど死ぬことにした人間もいる。それぞれがそれぞれの、不平等な命を生きる。でもみんなの命が画一的じゃないからこそ、生命には尊厳がある気がする。誰しもが前例のない命を生きてゆくのだからね。アタシはすべての命を労ってあげたい気分だよ」

 蟹が運ばれてくる。食べるために生まれてきた命、食べられるために生まれてきた命。

「いただきます」

「いただきます」

 あなたと私は手を合わせて、蟹を食べ始める。

「美味しいね」

「うん、美味しい。でも食べ終わりたくないわ」

「どうして?」

「食べ終わったら、あなたは思い残すことが何もなくなっちゃうだろうから」

「ずっとずっと、アタシが死ぬことに反対しているね」

「ええ、断固反対よ」

「どうしてそんなに反対するの? よもや恋人だから、だなんて言わないでしょう?」

「愛ゆえに、よ」

「そっか。どうにもアタシには愛ってのはよくわからないよ」

 あなたは私に恋してる。だけど、あなたは私を愛していない。あなたが私を愛していたら、死ぬことなんてできないもの。愛は欲望。私はあなたを絶対に逃がさない。私は少し焦っている。あなたの死への決意はあまりに頑なで、どれだけ言っても変わりそうにない。私はあなたのすべてを知っている。つもり。だから、逆にどうしていいかわからない。あなたを変える方法が。

「私のこと、好き?」

「うん、好きだよ」

「じゃあ、どうして私を置いて行ってしまうつもりなの?」

「それは、アナタを大切に思うからよ」

「大切なら、一緒にいさせてよ」

「アタシの大切の仕方は、アナタを傷つけるわけにいかないの」

「ずるい、ずるいわ」

「とにかく、どんなことを言われても決まったことだから。ほら、食べよう? せっかく贅沢してるんだから、味に集中しようよ」

「もう……」

 味なんてわからないわよ、と言いたいところだけど、人生で一番高い食事は舌を通して私の思考に訴えかけてくる。舌鼓ってこういうことなのね。なんとかして、あなたに勝ちたい。あなたを支配してしまいたい。なにか策を。そう考えるけれど、今はあなたの言う通り食べることに集中することにする。蟹はあなたと私の口の中へと次々に消えてゆく。ふたりの行き先は果たしてどこかしら。


 蟹を食べ終えて、あなたはとても満足そうな顔だった。もちろん、味に満足して、高いお金を払った高揚感もあるのでしょう。だけど一番の理由は、準備が整ったから。最後の晩餐を終えて、あとやることは死ぬことを実行することだけだった。

「これからどうするの?」

 私は答えのわかりきっている質問をした。私は焦っている。

「ん、死ぬよ」

 あなたは涼しい顔して答える。

「どうやって?」

「んー、そうだよね、それが問題だよ。どうやるのがいいかな? とりあえず、近くのホームセンター行こうかな。コンビニより色んなものが置いてあるし、なにかいいものが見つかるかも」

 あなたは日曜大工でもするかのように、ホームセンターに行くと言った。少し前までだったら、そのおかしさに笑ってしまったのだろうけど、今の私にはそんな余裕はなかった。ホームセンターで探している間に、なにか策を思いつかなくちゃ。

「ホームセンター、ゆっくり見ましょうね」

「アタシの気が変わるかもってまだ思ってるの?」

「変わるかもとは思ってないわ、私が変えるの」

「お手並拝見だね」

 そう言って笑ったあなた。なんたる余裕。私は悔しくて恨めしくて、睨みつけた。私は焦っている。なにか、なにか策を。


 もう閉店の近い時刻のホームセンターには、まったく人はいなかった。あなたと私、ふたりきり。巨大な棚の並び建つ店内、そこにところせましと置いてある様々な商品。あなたはあれこれ見ながら、死に方を想像した。これをどう使ったら死ねるだろう。ひとつひとつの商品を見てはそんなことを考えるのは、なんだか料理をするように楽しかった。工夫して、手順を考えて。あなたは今、幾十もの死に方に囲まれていた。叶うことならば、すべて試してみたい。だけど、死は一度だけ。たった一度の好奇心の使いどころ。あなたはじっくりと、見ながら、考えながらホームセンターを闊歩してゆく。

 私はあなたとは真逆の立場。あなたを生かすために、どうにか、なにか、方法は。あなたが死ぬために眺める道具を、生かすために眺める。同じものを眺める、ふたつの視線。血眼とはこのことだろう。瞬きする時間も惜しいと思えるほどに、私は焦っている。なにか、なにか。

「決めた!」

 突然あなたは声をあげた。子供みたいに嬉しいそうな声。ああ、見つけてしまったのね。

「決めたの?」

「うん、決めた。これにするよ」

 あなたが指さしたのは子供用のビニールプール。空気を入れて膨らませて、中に水を入れて遊ぶもの。およそこんなものでどうやって死ぬのか見当もつかなかった。

「これで? どうやるのよ?」

「これに絵の具をありったけ入れて、地面に置いて。そこに飛び込むんだ。ビルかどこか、高いところからね。アパートの屋上からじゃ低すぎるかな?」

「どうかしらね……」

 なんて死に方。私はうまく相槌を打つこともできなかった。

「それじゃ、買ってこようかな。大きいけど結構安いんだね。ま、蟹に比べたら大概のものは安いか。あはは。じゃあ、待っててね。レジ行ってくるよ」

 あなたは上機嫌に笑った。なんて屈託のない笑顔。あなたのそんな自由な笑顔は、初めて見た。

「待ってる間、この中をもう少し散策するわ」

「はーい。じゃ行ってくる」

 あなたは足取り軽くレジへと向かって行った。負けたくない。認めたくない。なにか、なにか。泣きそうだ。へたれこんでしまいそうだ。だけど、だけど。私は熱くなってヒリヒリする頭に両手を当てて、周りを見回した。お願い、お願い。

 一筋の光が差したようだった。見つけた。天啓。私の頭の中で一瞬にして計画が完成された。やった、やった。私はそれを手に取って、レジへと向かった。

 ホームセンターの蛍の光に見送られながら、あなたと私は外に出た。風に含まれているのはほとんど冬で、秋がもう終わりそうなことを告げていた。実りのすべて刈り取られきったあとの、寂しい秋の日。

「アナタもなにか買ったの?」

「まあね。気になる?」

「教えてくれるの?」

「ふふ、あとでね」

「ふーん。冥土の土産ってやつ?」

「どうかしら」

 アパートへと向かう道。高層ビルにほとんど侵食されている窮屈な空を見上げると。夜に半月が光っていた。奇妙な半月。右半分でもなく、左半分でもない。下半分の奇妙な半月。部分月食だろうか。そんなものがあるなんて、ニュースでやってたかしら? でも、どうでもいい。今夜の月に意味なんてない。生きることに意味がないように。あなたと私は歩いてゆく。お互いの思惑へと、同じアパートへと。思えば、今夜の月はまるで笑っているようだ。夜のふたりと同じように。


 アパートに帰ってきて、あなたは早速作業に取り掛かった。アパートの前の道にビニールプールを置いて、用意が始まる。大きく息を吸って、空気を吹き入れる。繰り返し。みるみる大きくなってゆくそれは、まるであなたの気持ちのようだ。一息ごとに、あなたの楽しみな気持ちも膨らんでゆく。

「なかなか大きくて、苦戦するね」

「手伝ってあげましょうか?」

「いいや、自分でやり遂げるよ。嬉しい疲労感だ」

 もう肌寒い季節だというのに、あなたはほんのり汗をかきながらビニールプールを膨らましてゆく。予備校で絵を描く時よりも熱心に、膨らましてゆく。地味な作業なのにあなたの喜びがよくわかる。

「……よし、いいかな」

 数分間息を吹き入れ続けたあなた。顔を上げたときには道の上にビニールプールがたたずんでいた。異形。子供用のそれはカラフルに彩色されていて、夜の道の上で恐ろしさを覚えるような存在感を放っていた。誰が、なんのために? もし事情を知らないでこれを見たら誰しもがそう思うことだろう。そして、ひとりの女が、死ぬために。そう聞かされたらより首をひねりたくなるに違いない。

「すごい光景ね。夜の道に子供用のプール。妖怪みたいだわ」

「妖怪かもね。少なくともひとりは食べるわけだし」

「これで完成じゃないのでしょう?」

「そうだよ、次の工程がある」

 そう言うとあなたは、鞄の中から絵の具を取り出した。昼、あの遺書を描いた絵の具。無造作に、次々とビニールプールに絵の具を絞り出してゆく。混ざり合って、濁ってゆく。持っているすべての絵の具を出し切って、あなたは次にカバンからペットボトル入りの水を取り出した。それもまた無造作に注ぎ込んで、ビニールプールの用意が完了する。多すぎる色、少なすぎる水。少しかき混ぜたら絵の具はぐちゃぐちゃに混ざって、濁った一色になるだろう。たとえば、人が飛び込んでかき混ぜられるようなことなど。

「……うん、できた」

 あなたはビニールプールの中をしばらく眺めてから、私の方へ振り返って言った。幼い子供が親に描いた絵を披露するような、得意げな笑顔で。

「屋上に行きましょうか」

 私は答える。私もまた、幼い子供のような笑顔で。親になにかプレゼントを用意して、これからそれを渡そうとする子供の笑顔。

「うん、行こう」

 あなたが手を差し出してくる。私はその手を握った。あなたと私は手を繋いで、アパートの階段へと向かった。階段の先にはなにがあるかしら。あなたはまだ知らない。結末へと一段、一段。ふたりは足並みを揃えて向かってゆく。


 屋上に登ってくると、空がやけに近く思えた。それほど高い建物じゃないのに、月に手が届きそう。夜の光は暗闇に輝く出口のように、空に陣取っていた。下半分の奇妙な半月。星は見えなかった。

「さて、と」

 あなたは私の手を離して、私の方を向く。私に別れの言葉を告げるつもりなのね。

「覚悟はできた?」

「覚悟なんてとっくにできてるよ。ただ、最後になにか、アナタに言おうかなって」

「やっぱりあなたは不器用な人。なにも言うこと思いつかないのでしょう?」

「あはは、お見通しだね。そう、そうだよ。遺書はもう描いちゃったから。あとはなにを言い残せばいいのかわからないや」

「どれだけ時間かけてもいいわ。待つから」

「ありがとう……」

 しばらくの沈黙。あなたは目をつぶって考えるそぶり。私はあなたを見つめている。

「ありがとう」

「……それが、最後の言葉?」

「うん、さっきのありがとうは、待つって言ってくれたことに対してのありがとうで、今のありがとうは、アタシのアナタへ贈る言葉としてのありがとうだよ」

「最後の言葉を説明しなきゃならないなんて、台無しね」

「あはは、返す言葉もないよ」

「台無しよ、台無し。そして、私が今からもっと、あなたを台無しにする」

「え?」

「ねぇ、最後に私の言葉も聞いてくれるでしょ?」

「それは、もちろん」

 この時を待っていた。私はあなたを死なせてあげない。私に愛を注がれ続けるために、あなたは生きるの。ホームセンターで見つけた切り札、逆転勝利の道具。私はそれをカバンから取り出して、言う。

「結婚しましょう」

 それが、私の答え。

「……普通、結婚を申し込む時は指輪を出すんじゃないかな? 手錠を差し出されて結婚しようだなんて」

 そう、私の最終兵器、それは手錠。あなたに結婚を申し込むための手錠。

「指輪じゃあなたを繋ぎ止めておけないだろうから、手錠なのよ」

「まるで脅されてるみたいだね」

「脅してるのよ」

「まいったね……」

「今日は私たちの結婚記念日よ。もう、あなたの誕生日じゃないの。あなたはこれから二度と誕生日を迎えられないの。あなたに毎年やってくるのは、結婚記念日なのよ」

 私はあなたの手を取る。もう、あなたは死ねない。あなたはあなたのあなたではなく、私のあなたになったから。

「よろしくお願いします、と答えてないんだけどな」

 あなたは苦笑いしてそんなことを言う。

「だけど、これからそう言うでしょう?」

「うん……よろしくお願いします」

 あなたの人生に決着をつけたのは私。あなたは、生きてゆかなくてはならない。あなたは生きてきた。そして悩み、失敗し、苦しんできた。だけどあなたはこれからも生きてゆかなければならない。私の愛のために。私は愛とはなにか、なんてわからない。愛の本質がなにかなんて、ちっともわからない。私は私の欲望を愛と名付けて、それをあなたに押し付ける。欲望、醜いエゴイズム。だけどすべての愛はきっとそうなのだろう。あなたは両親の愛に傷つけられた。そして今、これから私の愛に傷つけられることを承認した。愛はめちゃくちゃだ。愛は理不尽だ。あなたはいつか、あなたの愛を見つけるのかもしれない。その時は私にそれを押しつけて、私をめちゃくちゃにして欲しい。あなたと私の結婚。きっとお互いにとって不利益なことなのだろう。だけど、幸せ。幸せね。

「私、あなたと結婚できて嬉しいわ」

「アタシは困ってるよ。これからどうしよう。また絵を描いていかなきゃいけない。やっと二度と描かなくていいって思えたのに。また絵にすがらなくちゃ。また、予備校に行かなくちゃ」

「それに、蟹を食べたから今月はひたすら節約よ」

「本当に困ったな。絵の具を買い直さないといけないのに」

「ふふ、やらなきゃいけないことがたくさんあるわね。いいじゃない。なにもやることがないよりは。まずはビニールプールを片付けましょう」

「あはは、そうだね」

 あなたが立ち上がる。私はその手を握ったまま。あなたが振り返って私を見つめる。私は笑って、あなたの手に手錠をかけた。カチリ。あなたは愛されることで、私は愛することで、これからふたりは傷つき続けるのでしょう。でもいつだって、一緒よ。

「ねえ、キスする?」

 私は立ち上がって、あなたに尋ねる。

「いやぁ、なんだか照れ臭いから、今はよすよ」

 あなたは笑いながら顔を背ける。ああ、今私は傷ついた。いい心地ね。

 私はあなたの身体を抱きしめて、強引に口づけをした。あなたは今、傷ついた。

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