さやの夏
***掠めとる口唇
「このクソ暑いのに、よくあんなとこに突っ立ってたな」
「あら、私、ちゃんと木陰にいたわよ。涼しかったわ」
思わずムキになって、反論した。
高校二年の夏休み。
ついここに来てしまった自分に、内心自分で動揺している。
クラスメイトの岡本君の家の前の公園。
公園と言っても児童公園などではなく、ちょっとした名所旧跡であるかのような築山まである緑豊かな公園だ。
そこで私は、大樹に寄りかかりながら、まっすぐに岡本君の家を見つめていた。
そうしたら本当に偶然に、近所のコンビニにでも出かけていたのか、大きなペットボトルのコーラとポテチの袋を抱えた岡本君に見つかってしまったのだった。
「家でも外でも毎日、クーラー漬けじゃない。今年はまだ海にも行ってないの。暑いのは苦手だけど、なんかあの公園は……いいな、て思って。もし、私に絵心があるなら、水彩画の一枚でも描いてみたいななんて。思ったくらい」
「要するに、いたくお気に召したわけだ」
岡本君が買ってきたばかりのコーラを氷入りのグラス二つに注ぎ分ける。シュワシュワと炭酸の泡が溢れないように注意しながらそのグラスを私の目の前に置くと、岡本君が言った。
「俺に絵心があるなら、木陰に佇む久保田を描いてたね。ツバ広の帽子に麻の生成り色のワンピース……いかにもと言おうか。久保田って、ジーンズなんか履いたことないんじゃないの」
褒めてるようで意地の悪い彼の言葉に、私は下を向いてしまった。
「このワンピはママ……あの、お母さんが。ジーンズは私……似合わないから……」
「自分で服買わないの?」
「え、たまにレーコと買い物くらい行くわよ。でもねえ。母がちょくちょく勝手に買ってくるのよ。さやちゃん、これ可愛いでしょう。これ着なさい、みたいに。体のいい着せ替え人形よね。私だって、流行の服に挑戦したいな、て思うのよ。でも」
「ママがいい顔しない」
私は返す言葉がなかった。
「だろうなあ。その服の趣味じゃなあ」
「あの、おかしい……?」
「いやいや。立派な箱入りお嬢様だよ。しっかりした素材、定番スタイル。でも、普段着ってカンジにはね。いつもそんなの?」
「そんな、て……」
もういいよ、ていう風に苦笑している。
いたたまれなくなり、氷のせいで泡の立ったままのコーラのグラスを手に取ると、水滴を感じた。氷はもう、少し溶けかかっている。黙ったまま口にした。
コーラは、というより、甘いジュースは好きじゃない。
けれどさすがに真夏の最中、クーラーの効いた部屋の中とは言え、その冷たい液体は美味しかった。
ようやく、人心地ついた気がする。
ふと南側のテラスの方に目を遣ると、青々とした庭が広がっている。庭と言うより、庭園と形容した方がぴったりとくる実に趣のある庭だ。
閑静な住宅街にありながら、庭の大木からだろうか、蝉の鳴き声がガラス戸越しに響いてくる。
涼しさに身を任せ、庭の緑に目を奪われていると、時間を忘れてしまいそうな優雅な夏の午後のひととき。
その時。
え……?!
私は、心臓が止まりそうになった。
今、我が身に起こった出来事が何なのか、私には理解できていない。
しかし、硬直した躰が、その重大さを証明しているかのようだった。
一瞬の虚を突かれ、岡本君の口唇が私の口唇を掠めていった──────
ただ、それだけのことだったけど……。
***夏のテイル
「何? 岡本君」
それは何度目にかになる彼の部屋の中での出来事だった。
スポーツ雑誌「Number」をパラパラと捲っていた手をふと止めた。
彼が私の顔をしげしげと見つめていることに気がついて……。
「いや。たださ、こう……髪を上げたら……」
そう言うと突然、岡本君の手が目の前に伸びてきた。
「ほら。やっぱり」
突然、肩に手を置いたかと思うと、彼は右手で私の髪をトップの方へと全部かき上げて、そう言ったのだ。
「や、やっぱり、て何」
「久保田がポニテにしたらどうなるかなあと、思ってさ」
「ポニー…テイル……?」
「そう。久保田、一度もしたことないだろ」
そう言うと、やっと手を離した。
「女の子は夏はテイルが一番だよ。涼しげでさ」
何も言えずにいる私の顔を岡本君が見つめる。
「久保田、テイル似合うよ。絶対。淡い茶色の細い猫っ毛でさ」
そう言うと彼は立ち上がった。
「その髪型。紺のリボン付きカチューシャでも充分可愛いけどな」
ただ彼を見上げている。
私を見下ろしながらそう言うと、彼はコンポに音源を換えに行った。
まだドキドキしてる……。
そっと胸に手を当てる。
岡本君の手がうなじに触れた時、ゾクっとした。
岡本君の顔をあんなに間近にして私は、ただもう訳がわからなくなって、目をまんまるくさせただけ。
彼はベッドに腰掛けて雑誌を見ている。
多分、彼の好きなバスケ関連。平然と。
私なんかもう眼中にない。
そういう人なのよね……岡本君。
私があんなに心臓がパンクしそうになるようなことを、彼は少しの難なくやってのける。
“テイル似合うよ”
“その髪型でも可愛いけどな”
私にとってはそれだけで殺し文句になるような言葉を、彼はまるでオハヨウやバイ!とでも言うように。
無意識にしろ意識的にしろ、彼は女の子の弱いトコロを心得ている。
他の女の子にもああいうこと言ったり……。
ああ、その程度じゃないんだっけ、彼は。
そのことに気付いて苦笑する。
彼は今までにも何人もの女の子と……。
私なんか彼にとって何ということもない。
ただ、気が向いた時、気紛れに誘うだけ。
いつの間にか胸の鼓動も正常に戻っていた。
同時にときめきも消えていた。
後には理由のない哀しさと、僅かながら胸の痛みが残るだけ……。
***蜃気楼の涙
スクランブル交差点で、その人影を見つけた時、私は嬉しい気分になった。
岡本君だ……!
思わず笑みが零れる。
夏休み中にこんな場所で、彼に偶然逢えるなんてラッキー!
「岡本く……」
彼の許へ走り出しかけた足が、ふと止まった。
制止。
次の瞬間、くるりと踵を返した。
彼とは反対方向へと歩き出す。
ストリートを足早に歩きながら、私は思考を巡らせている。
彼の隣にはいたのだ。
さらさらの長い黒髪の可愛い娘が──────
岡本君の彼女?!
ううん。きっと違う。
私は最初のデートの時、確かに聞いたから。
“彼女? 今はいないよ”
じゃあ、元カノ……?!
それとも、おつきあいのある女友達の一人?
レーコが言ってた。
岡本君、交流関係が派手だって。
同中のつてで、他の高校や大学にまで交友関係があるらしい。
私はしょせん、彼の数多いる女友達の一人。
真夏の午後、ぎらぎらと太陽が照りつける。
その灼熱の光線に焼き尽くされれればいい。
その場にうずくまった。
焼けるアスファルトに蜃気楼が揺れる。
膝の上に顔を伏せると、後から後から涙が溢れてきた。
こんなに。
こんなに苦しい想いするなら。
恋なんてするんじゃなかった。
***星空の告白
深夜0時過ぎ。真夜中の静謐の時間。
お風呂上がりの私は、濡れた髪の滴をタオルでよく拭き取ると、髪にベース材をつけドライヤーで丁寧に乾かしている。
卓上の鏡を見つめながら、想いは巡る。
岡本君。
街で可愛い女の子連れてた……。
彼は私の岡本君てわけじゃない。
ただ、数回誘われて、デートして。
無料のアプリで連絡したり、電話したりするけれど、それも深い意味はない。
ただ、オハヨウやおやすみの合図をするだけ。
彼にとっては単なる気紛れ。
私を誘ったその翌日に、他の女の子連れて歩いてたって、レーコが言ってた。
“やめときなさいよ。彼、ガッコウじゃ大人しいけど、かなり遊んでるわよ”
彼と同中のレーコからそう聞かされた時は、暫く立ち直れなかった。
それでも彼に惹かれていった。
どうにも止めようがなかった。
始まりは五月の体育祭。
応援団とチアガールの合同打ちあげの夜。
皆で盛り上がっているカラオケの途中、気分が悪くなった私をそっとその場から抜け出させ、家まで送ってくれたのが岡本君。
その頃は、何も知らなかった。
クラスメイトの岡本君のこと。
普段、気にも留めない存在だった。
岡本君
ふうっと溜息を吐くと、立ち上がった。
壁に立てかけてある姿見に全身を映す。
これが、私……。
まじまじと鏡を覗き込む。
セミロングで淡い茶色のこしのないふわふわ天パ。
びっくした時のように大きな黒い瞳。
紅くて薄い口唇。
そして、パステルカラーのピンクのキャミしか着ていない、まだ未成熟な躰がそこにある。
棒のように華奢な手脚。
ウエストも……割と細くって。
胸……ほんの少しふくらんで。
やっぱり。
もっと可愛くて、綺麗で、魅力的な女の子、いくらでもいる。
私は何となく涙ぐんだ。
再びベッドに腰掛けて、十六の誕生日に買ってもらった大きなドナルドのぬいぐるみを胸に抱いた。
岡本君、どういうつもりで私を誘うの。
明日は彼とデート。
どうして、同時並行で女の子とおつきあいできるの。
今まで何人の女の子とキス、したの……。
立ち上がると、窓際へと歩を進めた。
晴れた夜でここから白鳥座がよく見える。
ベガとアルタイルもすぐ見つかった。
夏の大三角形が夜空に綺麗に輝きを放っている。
星を見るのは好き。
つまらない悩みがクリアになっていく気がする。
暫し、私は星空に吸い込まれていた。
アルタイルを見つめながら私は思う。
くよくよ考えるのは止め。
岡本君が好き……。
その想いはもう止められない。
だから。
この夏中にはっきりと告白しよう。
岡本君。
私の彼になって下さい──────
***夕暮れの告白
夏休みの最終日。
その日も私は、岡本君と一緒に午後を過ごしていた。
ランチのボンゴレ・ロッソはトマトの酸味が爽やかで、食後のアールグレイのアイスティーも濁りも渋みもなく美味しかった。
その後に観た封切られたばかりのSF映画は壮大なスケールで、ラストはとても感動的だった。涙ぐんでいる私の右手を軽く握っていてくれている岡本君に気付いた私の心臓は爆発しそうで、エンドロールが終わっても暫く私はその場から立ち上がれなかった。
そして今、夕暮れのオープンカフェに来ている。
残暑が厳しかったけれど、夕陽が射し込んでいるロマンティックなテラス席に私達は座った。
街路樹からは繁華街には珍しく蝉の声が響いてくる。
テーブルの上には、アイスカプチーノにティラミスのバニラアイスクリーム添え。私の好きなオーダー。
でも。
私はひとつ溜息をつく。
「久保田? 食べないのか」
エスプレッソの小さなカップを手にした岡本君が、怪訝そうに私の顔を覗き込む。
「あ……うん。ううん」
慌ててフォークに手を伸ばした。ケーキにフォークを入れ、一口大に掬う。
でも、口許で手が止まる。
私は逡巡していたが、意を決すると口を開いた。
「あの……あのね。岡本君。私、この夏、岡本君と一緒に過ごせてすごく楽しかった」
それは本当のこと。
「岡本君の部屋で過ごす時間も、図書館で勉強したことも、海に一緒に出かけたことも。夜の公園でバスケのワン・オン・ワン教えてもらった後に飲んだコーラは最高に美味しかった……」
だから。
「でも、私達、明日から……」
また、ただのクラスメートに戻るの?
一学期、彼と同じ教室で授業を受けるだけで嬉しかった。
時々、遠くから、同じ教室にいる彼の姿を盗み見するだけで満足していた。
でも。
今の私は酷くワガママになっている。
岡本君、ずるい。
何も言ってくれないから。
キスはするけど、それ以上は手を出さない。
私は正真正銘「友達以上恋人未満」の存在なの?
岡本君──────
私はもう何だか堪らなくなって、突然、ガタン!とその席から立ち上がった。
「久保田?!」
彼がとっさに私の右手を掴む。
「離して!」
その手を振り払うと、私は闇雲に路上へ飛び出した。
「久保田! 危ない!!」
彼が追いつき、私をすんでのところで引き留めた。
私の脇を車がクラクションを鳴らしながら、すり抜けて行く。
「馬鹿っ! いきなり路上に飛び出す奴があるか」
彼は私の両肩を抱くようにして、大声を張り上げた。
「嫌! 離して」
私は歪んだ泣き顔を見られたくなくて、顔を背ける。
「岡本君なんて大嫌いっ!!」
一瞬、彼は私の肩から手を離した。
離した手が行き場をなくし、宙を漂う。
やっぱり……岡本君、私のことなんか……。
微妙な表情。
彼はふいと横を向き、ぼそりと呟いた。
「マジ好きな娘からの大嫌い発言は俺でも堪えるよ」
「え?」
薄く目を細めた彼の声音は乾いている。
「今、何て……」
「言った通りさ。好きな娘からの「大嫌い」は堪えるって」
彼は横を向いたまま。表情がいまひとつ読み取れない。
「だって……岡本君、今まで何にも言ってくれなかった」
「そんな軽い男に見えるの?俺。……ま、確かに、今まで散々遊んできたけど」
彼は口唇を歪めた。
「久保田好きになってみて初めてわかったよ。本当に好きな娘には、なかなか告れないってね」
告る……。
岡本君が、私に……?
「これがその、告白……?」
「その通り」
夏の夕暮れの中、大きなオレンジ色の夕陽を背に彼はその時、柔らかく笑んだ。
「久保田さやさん。俺の彼女になって下さい」
彼は斜め45度に頭を下げると、右手を差し出した。
私は震えながら、右手でその手を取った。
夕暮れの一陣の風が優しく頬を撫でる。
季節は確実に過ぎてゆく。
明日から二学期。
教室でも彼とこうして話せるんだ。
私達、彼氏・彼女になったんだ……。
ぼーっとした私を彼は優しく抱き寄せてくれる。
そして、私達は幸せな高校生カップルになった。
了