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短編集

五月の唄

作者: 古都ノ葉

 五月になると林は馬酔木やシデコブシの花が散り、なつめや野いばらが咲き始める。一雨ごとに緑の色が濃くなったようだ。


 雑木林は誰かまだ手入れをしているのだろう、花が落ちると綺麗に掃除がしてある。しかしその先の森に続く道はいつも暗く常緑樹が空を覆っていた。

 そこから小高い山がある森へと続くのだが、そこは昔から人が入らない〈禁足地〉とされている。

 実際、獣道としか言えないような道はぬかるみ、歩けたものではない。いつも霧が覆い、何かを拒絶したよう空気を纏っている。ミストは気管から肺に入り、身体の隅々まで行き渡る。毛細血管まで支配し、蹂躙する。今も軽く吐き気があった。

 歩を奪うのは悪路ばかりではない。下草はほとんどがシダと苔類であり、樹の根が縦横無尽に張り巡らされている。気を抜くと身体ごと持っていかれそうだ。

 いきなり山深く感じてしまうが、ここは住宅地から四十分ほどの近場だった。

 高校近くにあるため、一時間に二本のバスがある。そこから北に三十分ほど歩けばたどり着ける。

 ドがつく田舎であることは間違いないが。


 

 話を戻そう。

 小高い山――丘と言った方が適切かも知れないが――その高さなのにシイ、カシ、ブナ、ナラなど種類は入り交じり、中にはクスノキなど手で抱えられないような太い幹のものもあった。

 遠くから見ると周囲二キロほどがこんもりと盛り上がり、そこだけが違う時間軸で存在しているように見えるだろう。長い刻は古い黴の臭いがする。

 僕はその〈禁足地〉に幼い頃から興味を持っていた。

 内緒で獣道に足を踏み入れたのはいつのことだろう。

 山のてっぺんには神社があった。もちろん誰も入らない場所なので手入れはされていない。

 そこを知ったのは偶然だった。横道にそれた時に足に固い物が触れたのだ。

 蔦が絡み、苔がひび割れた石を覆っているのでわかりにくいが、石段だった。山に張り付くようにして設置されており、途中で大きくなだらかなカーブを描いている。三百段を超えているだろうか。陽が入らないため薄暗く、正確にはわからない。

 一段一段は高くないし、横幅も六十センチほどのものだ。山と一体化しているそれを見つけた時、僕は心臓が持っていかれたような感覚を覚えた。



 登り切った所の神社は朽ちていて少しがっかりしたことを覚えている。

 鳥居らしきモノは一応あったが、丹が剥げ根本が腐っている。太い樹木が剥き出しになっており、原型はあまり留めていない。

 では古いのかというと社はコンクリートが使われているようで、一部剥げている場所は古い橋を思い出させる。

 鈴はあるが錆びて鳴らないし賽銭箱は小さな缶が棒に括り付け置かれているだけで意味があるように思えない。

 日本古来の神は八百万もいる。まず特定をしたいと思ったが、根拠になるものはなかった。稲荷など祭神があれば像があるのだが、ない。

 陰陽道・道教の神、神仏分離を免れた一部の仏教の仏神などの外来の神……。

 いや。

「こんな場所だから民俗神か。あるいは伝説上の人物由来か」

 社は山の持ち主が設置したのが一番妥当だが、図書館で調べた限りではわからない。役所に行けば手掛かりはあるかも知れないが、個人情報は教えてもらえないだろうと早々にあきらめた。

 何が祀られているのかわかればもう少し好奇心も沸いただろうけれど、それらしい宗教物はないのだ。社の扉はタガが外れているままだし、中は板張りの粗末な小屋風だ。試しに入ってみたが何もない。五、六人が円座を組めるほどの広さだ。

 屋根の形で男神か女神かわかるが、千木は男、鰹木の数は女を表している。

 当然何か意味はあるのだとは思うが不明だ。


「――ふぅ……」

 僕はため息をついた。


 山の上ではあるが周囲を樹に囲まれているせいで見晴らしはゼロだった。山のてっぺんに当たるのだろうが外が視えない。

 つまり高校やバス通りからもこの神社は存在すらもないということだ。

 深緑色、暗緑色、萌黄、翠、光を受けて色を放つ葉は奥にいくほど濃くなっている。

 樹の幹も柿茶、黄枯茶、赤褐色から鉄錆色まで多種多様だ。

 それらが風に共鳴して動いている。



「……あくびでもするか」

 広い、自分だけの場所。

 開かれているのに閉じた空間。


 まあ謎は解かずとも寄り添えばいいか。

 

 僕は寝っ転がる。

 考えることを放棄すると落ち着くことに気づいたのだ。

 この場所は僕に合っていた。身を投げ出すと腐葉土と枯葉に身体全体が包まれる。手入れのされていない自然のベッドは柔らかい。うっとりとした浮遊感がある。

 それに樹木に囲まれているが、さすがに空は見える。神社のある場所――境内に枝は伸びていない。

 僕は中二病ではないし、ミステリー探検家でもない。だが僕だけの空は魅力的だった。


 空を見上げ、そこに手を伸ばしてみる。

 翡翠がかった青緑色。薄藍、突き抜けたホライズンブルー。光がそれらの中に溶け込んでいる。

 そうしていると飛行機雲が右方から現れた。ゆっくり乳白の線が伸びてゆく。

 雲の先には当然飛行機本体があるのだろうが粒のようにしか見えない。それほど高く飛んでいるのだろう。

 僕は目を細めて見た。

 なんと天井が高いことか。

 なんと青が目に染みることか。

 届かないから美しいのだろう。

 指の間から覗くものは確かにあるのに触れることが出来ない。

 ――いい

 小さな声でつぶやいた。

 ――いいなぁ

 特に春ではなく夏でもない五月は、何か曖昧で全てを忘れさせてくれる。太陽も焼かないし、身をすくませる寒さもない。蝉達もまだ沈黙している。

 ただ階段を登って来る風が樹々を揺らしているだけだ。

 遠くに鳥の声。


 僕は目を瞑り大地に抱かれる。


 まぶたの裏には見たくない風景があった。

 3所帯6人家族、2LDK。小さな区切られた場所に祖母と両親、姉が二人に僕。

 父方祖母は決して母と仲の良いほうではなかった。昔はお嬢様だったというが、当時の面影はまったくないだろう。どこぞのデパートからは外商が来たとかいつも伊豆の別荘に行っていたとか口にする。

 デパートは毎回場所が違っており、別荘は熱海や有馬だとか一定ではなかった。父は黙して語らずだ。

 その父は心の病だとかで会社を7年前に辞め外に出なくなった。病はそもそも病院に行っていないのだから完治も寛解もない。

 無年金な祖母と引きこもりの父。お金は母がパートの掛け持ち、一応なんとかなっているようだった。

 双子の姉はどこで何をしているかわからない。良く似た顔で同じ言葉を話す。夜は寝に帰って来る。来ない日もある。

 食事は母が作った。掃除も母がやる。

 基本、家のことは出来る人がやるということになっているが、建前は綺麗ごとで、結局誰もやらないだろう。もちろん僕もだ。

 姉は二人で一つの部屋を使う。

 祖母は父と一つの部屋を使う。

 僕と母はいつもリビングで寝た。

 電気を消すとそれから母の愚痴タイムが始まる。

 

「ババアが和食を作れと言うの」「味が濃い、コメが固い、何をするのも雑だって」「指示するな」「野菜の値が上がったのに」「安い物はすぐ売り切れよ」「疲れた」「あのオヤジはいつ働くの」「しけた顔は嫌い」「娘はいいわね、若いから」「壁が薄いから隣の声は丸聞こえ」「ペット不可なのに犬飼ってる」「鳴き声がうるさい」


 母は僕を見ずに天井に向かって怒鳴るようにつぶやいていた。

 たぶん姉達や祖母、父にも声は届いているだろう。ひょっとしたら隣にも聞こえているかも知れないし、案外そのつもりなのかもしれない。


「私は悪くない」「どうして私だけ」「なんて可哀そうな私」「私は弱いのよ」「私をいじめないで」

 髪を抜き、爪を噛む。

「私は」「私は」「私は」

「お金がない」「お金がない」「お金がない」


 母は〈負〉が服を着ているような人間だった。

 離婚すればいいのにしない。自分から何もしない。手伝ってくれの一言もない。ただ不満を口にする。それは被害者の立場に居たいだけの人間に見えた。

 絶対的被害者は強い。

 自分のこと以外、どうでもいいからだ。

 見たいものしか見ず、己の価値観で生きている。毒を吐くのを弱者の権利として考えているのだろう。いつも夜の闇を濃くしてくれる。

 そんな母が僕はとても羨ましかった。


 狭いリビングには狭いベランダに続くガラス戸があった。夜になると黄ばんだカーテンの隙間から穴の開いたような月が見える。

 僕の中に何かが沈んでゆく。

 いつも。

 いつもいつも。

 沈みゆく欠片は尖っている。

 傷つけることを厭わない。




 不意に風が前髪に触れたので目を開けた。

 視界には空へ続く道が広がっている。

 境内の分だけ開けた空。それは永遠の色へと繋がる。


 ――そういえば……


 そういえば〈空への道〉に誘った子がいたっけ……。


 僕は身体をゆっくりと起こした。

 そして空っぽの社の裏側に回る。

 すっかり忘れていたそれは枯葉の中に埋もれており、埃だらけになった制服の裾が見えた。

 くすんだ赤色は何というんだっけ。いや、元々はもっと鮮やかな色だった気がする。ただ思い出せない。

 僕は横たわっていた彼女に張り付いた髪に触れた。カサっと乾いた音をたててそれは落ちた。



 彼女は図書館で本を読んでいた。

 周囲を本で囲みバリケードを作っていたようだ。

 背表紙に図書館の貸し出し番号が見える。それすらも掠れていた古い本。

 制服を着た彼女は中学生にも高校生にも見えた。化粧っけはなく、肩までの髪は何色にも染まっていない黒のままだった。

 目を覗き込んだら僕と同じ寂しさがあった。

 誰も何も信じない空虚な穴。あの時の月に似ている。くり抜かれたような瞳。

 声をあげられない子、声をかけてもらえない子、そこに居るのに見てもらえない子。それらを早々に悟ってしまった子。

 僕は積んだ本を返すのを手伝い「空へ続く道を知っている」と言った。

 反応はない。

 嘘かどうか問いかけるような瞳に僕は「行こう」とだけささやいた。

 窓から差し込む陽に細かい塵が浮かんでいた一月のことだ。



 あれから随分と時間が経った。

 彼女を苦しめた身体から脂肪は落ち、皮は骨に張り付くだけになっている。

 竜胆色のマフラーで優しく優しく締めたから首の骨に損傷はない。僕は彼女の下顎骨が外れていることに気づき、元に戻した。眼窩に枯葉が詰まっているので綺麗にする。

 死臭は乾いているせいか、ない。ふくよかな大地の香りがする。自然に包まれた優しい匂いだ。

 五月ならばちょうど良い。大地も緩み、喜んで迎えてくれるだろう。春が終わり、夏が来る前だ。


 僕は無言の彼女を、静かに撫ぜた。すると不意に疑問が湧いた。

 どうして彼女が僕に着いてきたのだろうか。彼女は地元民ではなかったのか〈禁足地〉をしらなかったのか。

 誰も捜索願を出さなかったのか、警察は捜査をしなかったのか。

 何故だろう。


 ――まあ、もういいか


 初めてでもあるまいし、と続けて僕は思う。

 彼女をいつまでも愛でていたいけど、埋めてあげなければならない。埋めることで大地と一体になるのだ。

 もう一人じゃないから寂しくはないだろう。

「良かったね」

 ここには先人がいる。先人もまた遮るもののない〈空に続く道〉の元で自然と戯れている。

 たぶんここはそういう場所なのだ。

 そう考えると疑問はすべて繋がる。


 枯葉は腐葉土になり土になる。積み重なって丘になり山になる。樹木は生い茂り、根は包み込むように屍を抱く。

 先人達と共に彼女もまた空に向かって手を伸ばすのだろう。道に向かって。

 

 最初はゆき倒れた旅人。望まれなかった人間。やがて掟を守らなかった人々、守りたくなかった者達。為政者に歯向かったものが葬られた。

 しかし時代が進むと血塗られた場所は血塗られているがゆえに救いとなった。

 もう苦しまなくて良いのだと背中を撫でてくれる手がここには無数にある。そう気づいたのだ。

 そしてどこよりも空に近い。

 大人が駆ければほんの少しで抜けられる森なのに迷いこんだら出られない。

 朽ちた社はそんな誰かが建てた墓標なのかもしれない。


 ――ここに魅せられた僕はなんなのだろう。


 自分の名前は忘れてしまった。

 呼ばれない名前はない方がいい。

 名前は識別にすぎない。親に縛られた呪いのようなものだ。


 記憶はどんどん溶けてゆく。

 僕が誰であろうと誰も喜ばないし困らない。

 

 あえて言うなら僕はいつかここで同じように眠りたいと願う、愚かなモノだ。


 この時間の中で

 この時間の中で

 閉ざされた時間の中で――生きる意味がないと嘆く――ヒトという器。それが僕だった。

 だけどここを必要な者を呼び寄せるということを役目として与えられた。

 やっと存在が認められたのだ。

 いつの世にもいたのだろう。〈禁足地〉の守り人。

 そう、護り人なのだ、僕は。


 感謝しよう。

 僕は今、満ち足りている。

 もう澱のように深く沈殿するものはない。誰かのために苦しむということもないし身を縮めて歩くこともない。

 飢えも孤独も恐怖もない。

 きっと白い骨になった彼女もそうだろう。しがらみから解放されたのだ。協調を強いられる世界からやっと自由になれた。これ以上の幸せがあるだろうか。

 また次の人を早く連れてこなければならない。今度も女の子にしようか。それとも男の子にしようか。

 

 微笑みながら僕は彼女の横に寝そべった。


 耳に入って来たのは春でも夏でもない音。

 それは梢を笑いながら揺らす風。

 五月の唄をうたう鳥。


 


読んでいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] すごい。サイコな主人公だけど、文章の力に引き込まれる! 純文学ホラー!
[良い点] ゾクッとするのだけれど、清々しい空に繋がる磐座(いわくら)をイメージしました。 感想が言語化しにくいというか、何かいい感じの世界なのに、背筋がゾワゾワします。 禁足地、神様というのはやはり…
[良い点] 色彩的表現が豊かな景色に関する繊細な描写と、僕の生い立ちの話から彼女との再会に至るまでの次第に不穏な気配が高まっていく展開のギャップにぞわぞわとさせられる作品でした。 それでいて、神社と同…
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