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否定の考えは、美月が顔を上げた瞬間に破られた。
吸いつけられ、魅せられた、あの深紅の瞳。
それが頭上で光っている。
美月は息が詰まった。
美しい赤に魅きつけられる。気がつかなければよかったのに。だが遅い。
しかし、よく見ると今回の赤はあのときと違った。
深紅は視界を覆い尽くさなかったし、意識も遠くならない。深い深い紅はただ、美月を映しているだけだ。
美月はしばらく身を固めていたが、大蛇が自分をどうこうする意志がないのを感じ、力を抜いた。
「私を……、食べないのですか?」
尋ねる。大蛇は舌をちろちろと見せた。肯定とも否定とも取れ、美月には何と言っていいかわからなかった。ただ大蛇が自分の言葉を理解していることだけはわかった。
「私は、満足に生贄にもなれないのですね」
自嘲気味に、美月は微笑んだ。
自分を見る。
がりがりに痩せて、浅黒い、お世辞にも美しいとは言えない女。
きっとおいしくないと思われているのだろう。無理もない。杏寿と比べたら自分は情けないくらい貧弱で、美しくない生き物なのだ。
笑ったら急に悲しくなり、頬を涙が伝った。
大蛇が動いた。
急な動きではない。先程、白い壁が動いたと思ったのと同じくらいだ。
だが美月は驚いて顔を上げた。
深紅の瞳は変わらずに美月を見つめている。
慌てて涙を拭いた。
「すみません……。みっともないところを」
頭を下げると、白い壁が目に入った。今では壁ではなく、大蛇の胴だとはっきりわかる。
そのとき、美月は壁に何かが刺さっているのに気づいた。
鱗と鱗の隙間にある、小さな異物。それがえぐったのか、周りは血と膿がこびりついた痛々しい傷となっている。
なんだろう?美月は傷の辺りを凝視した。
よく見れば傷近辺の鱗は他の部分と色が違うことがわかる。血膿のせいではなく、この辺りだけ、純白が灰褐色になっているのだ。
「これは……?」
できるだけそっと、美月は傷に触れた。
壁が一瞬高くなり、地面と隙間ができた。
その直後に地響き。地面に壁が戻った音だ。
美月の体は壁と同じ時間、宙に浮いた。
大蛇の口からシュウシュウと不機嫌そうな音が漏れる。よほど痛かったのだろう。
「ごめんなさい。痛むのですね」
美月は優しく傷から離れた場所を撫でながら謝った。
「でも、お許しいただけるのでしたら、この傷を何とかできるやもしれません。私の両親はすでにおりませんが、村では薬師でした。私にも多少の知識がございますゆえ、少しでも痛みを取ることができるのではと思います」
美月は傷の中の異物を観察した。
矢尻のようだ。
胴に足を当て、引っ張ると、意外なほどあっさりと取れた。
だが同時に傷のほうも破れ、血が流れ出す。激しい痛みに白い胴が暴れて血膿が飛び散り、美月の顔も体も、腐った臭いのする大蛇の体液にまみれてしまった。
「すみません。でも今しばらくご辛抱を」
美月は一瞬臆したが、すぐに傷に口をつけ、毒で汚れた血を吸い出し、吐き出した。
大蛇の体がびくっと竦み、しっぽが激しくのたうつ。
口の中に膿の生臭さと毒の苦さが広がり、吐き戻しそうになったが、美月はできる限り毒を吸い出そうと、何度も何度も繰り返した。
やがて灰褐色だった部分が小さくなり、毒の味が薄くなった。口の周りのみならず、全身が血膿でべたべただ。浴衣も髪も、濡れて体に張り付いてしまっている。
大蛇が自分を見ているのに気づき、美月は慌てて浴衣の白い部分を探し、顔を拭った。
「乱暴をいたしまして申し訳ありません。とりあえずこれで痛みは薄れると思います。薬があればもっと楽にして差し上げられますが、私にできることはここまでです」
にっこり笑う。薬の材料を教え、傷口がふさがりつつあるのを確認した後、美月は大蛇の目を見、言った。
「汚れてしまい申し訳ございませんが、少しでも御身の栄養になるかと思います。どうぞ私を食べてくださいませ。私は貴方様の生贄でございます。貴方様に食べていただけないのでしたら、自ら命を絶つより他に道がありません。私があの娘でないので気に入らぬと仰るのでしたら、どうぞ私を罰してください。どのような罰でも受けます。村人のせいではありません。咎はすべて私にございます。お願いします」
大蛇は戸惑ったように美月を見つめた。普通の蛇は感情を表すのが不自由だが、この大蛇は例外らしい。さすがに山神だ。
両者の間に沈黙が流れた。
だが沈黙は長く続かなかった。
何か重い物を引きずるような音が、足音とともに近づいてくる。
大蛇はもちろん、美月も気づいた。
美月は体をこわ張らせた。我知らず、大蛇に擦り寄る。
大蛇は美月を護り、隠すように囲んだ。
「い……、今、帰った……、ぜ」
そこへ男の声が聞こえた。
「はあ、疲れた。風牙、こら、風牙!大変だったんだからな!手伝えよ」
聞いたことのない声だ。
声に従って大蛇が動き出した。囲みが解ける。洞窟の奥から冷気が吹きつけ、濡れた体にはきつい寒さに、美月は身を震わせた。
「山神様……」
美月は不安で不安で、訴えるように大蛇を見た。
大蛇は美月を見、頷くような仕種を何回かし、優しい目で美月を見た。不安が少し収まる。
大蛇に頼り切っている自分に気づき、我知らず笑った。
早く食べてくださいと言った口で、身の不安を訴えてしまった。自分は偽善者だ、と思う。
笑みは苦味に変わり、美月は溜め息をついた。