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2-2

 否定の考えは、美月が顔を上げた瞬間に破られた。

 吸いつけられ、魅せられた、あの深紅の瞳。

 それが頭上で光っている。


 美月は息が詰まった。

 美しい赤に魅きつけられる。気がつかなければよかったのに。だが遅い。


 しかし、よく見ると今回の赤はあのときと違った。

 深紅は視界を覆い尽くさなかったし、意識も遠くならない。深い深い紅はただ、美月を映しているだけだ。

 美月はしばらく身を固めていたが、大蛇が自分をどうこうする意志がないのを感じ、力を抜いた。


「私を……、食べないのですか?」


 尋ねる。大蛇は舌をちろちろと見せた。肯定とも否定とも取れ、美月には何と言っていいかわからなかった。ただ大蛇が自分の言葉を理解していることだけはわかった。


「私は、満足に生贄にもなれないのですね」


 自嘲気味に、美月は微笑んだ。

 自分を見る。

 がりがりに痩せて、浅黒い、お世辞にも美しいとは言えない女。

 きっとおいしくないと思われているのだろう。無理もない。杏寿と比べたら自分は情けないくらい貧弱で、美しくない生き物なのだ。

 笑ったら急に悲しくなり、頬を涙が伝った。


 大蛇が動いた。

 急な動きではない。先程、白い壁が動いたと思ったのと同じくらいだ。

 だが美月は驚いて顔を上げた。

 深紅の瞳は変わらずに美月を見つめている。

 慌てて涙を拭いた。


「すみません……。みっともないところを」


 頭を下げると、白い壁が目に入った。今では壁ではなく、大蛇の胴だとはっきりわかる。


 そのとき、美月は壁に何かが刺さっているのに気づいた。

 鱗と鱗の隙間にある、小さな異物。それがえぐったのか、周りは血と膿がこびりついた痛々しい傷となっている。


 なんだろう?美月は傷の辺りを凝視した。


 よく見れば傷近辺の鱗は他の部分と色が違うことがわかる。血膿のせいではなく、この辺りだけ、純白が灰褐色になっているのだ。


「これは……?」


 できるだけそっと、美月は傷に触れた。

 壁が一瞬高くなり、地面と隙間ができた。

 その直後に地響き。地面に壁が戻った音だ。

 美月の体は壁と同じ時間、宙に浮いた。

 大蛇の口からシュウシュウと不機嫌そうな音が漏れる。よほど痛かったのだろう。


「ごめんなさい。痛むのですね」


 美月は優しく傷から離れた場所を撫でながら謝った。


「でも、お許しいただけるのでしたら、この傷を何とかできるやもしれません。私の両親はすでにおりませんが、村では薬師でした。私にも多少の知識がございますゆえ、少しでも痛みを取ることができるのではと思います」


 美月は傷の中の異物を観察した。

 矢尻のようだ。

 胴に足を当て、引っ張ると、意外なほどあっさりと取れた。

 だが同時に傷のほうも破れ、血が流れ出す。激しい痛みに白い胴が暴れて血膿が飛び散り、美月の顔も体も、腐った臭いのする大蛇の体液にまみれてしまった。


「すみません。でも今しばらくご辛抱を」


 美月は一瞬臆したが、すぐに傷に口をつけ、毒で汚れた血を吸い出し、吐き出した。

 大蛇の体がびくっと竦み、しっぽが激しくのたうつ。

 口の中に膿の生臭さと毒の苦さが広がり、吐き戻しそうになったが、美月はできる限り毒を吸い出そうと、何度も何度も繰り返した。

 やがて灰褐色だった部分が小さくなり、毒の味が薄くなった。口の周りのみならず、全身が血膿でべたべただ。浴衣も髪も、濡れて体に張り付いてしまっている。


 大蛇が自分を見ているのに気づき、美月は慌てて浴衣の白い部分を探し、顔を拭った。


「乱暴をいたしまして申し訳ありません。とりあえずこれで痛みは薄れると思います。薬があればもっと楽にして差し上げられますが、私にできることはここまでです」


 にっこり笑う。薬の材料を教え、傷口がふさがりつつあるのを確認した後、美月は大蛇の目を見、言った。


「汚れてしまい申し訳ございませんが、少しでも御身の栄養になるかと思います。どうぞ私を食べてくださいませ。私は貴方様の生贄でございます。貴方様に食べていただけないのでしたら、自ら命を絶つより他に道がありません。私があの娘でないので気に入らぬと仰るのでしたら、どうぞ私を罰してください。どのような罰でも受けます。村人のせいではありません。咎はすべて私にございます。お願いします」


 大蛇は戸惑ったように美月を見つめた。普通の蛇は感情を表すのが不自由だが、この大蛇は例外らしい。さすがに山神だ。


 両者の間に沈黙が流れた。


 だが沈黙は長く続かなかった。

 何か重い物を引きずるような音が、足音とともに近づいてくる。


 大蛇はもちろん、美月も気づいた。

 美月は体をこわ張らせた。我知らず、大蛇に擦り寄る。

 大蛇は美月を護り、隠すように囲んだ。


「い……、今、帰った……、ぜ」


 そこへ男の声が聞こえた。


「はあ、疲れた。風牙、こら、風牙!大変だったんだからな!手伝えよ」


 聞いたことのない声だ。

 声に従って大蛇が動き出した。囲みが解ける。洞窟の奥から冷気が吹きつけ、濡れた体にはきつい寒さに、美月は身を震わせた。


「山神様……」


 美月は不安で不安で、訴えるように大蛇を見た。

 大蛇は美月を見、頷くような仕種を何回かし、優しい目で美月を見た。不安が少し収まる。

 大蛇に頼り切っている自分に気づき、我知らず笑った。

 早く食べてくださいと言った口で、身の不安を訴えてしまった。自分は偽善者だ、と思う。

 笑みは苦味に変わり、美月は溜め息をついた。






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