2-1
遠くで誰かが泣いている。
『すまぬ』
『帰ってきてくれ』
『私を一人にしないでくれ』
心を掻きむしるような、苦しく、切ない声。悲鳴のような、泣き声。
「誰?」
美月は悲しくなって尋ねた。
声が止まる。
急に心細くなった。気がつくと泣いていた。
「あなたは、誰?」
悲しくて堪えられない。
声が震えて、しゃくり上げると、誰かに後ろから優しく抱かれているような感触が来た。そして慰めるように、そっと肩を叩かれる。
『なぜ泣く?』
声が尋ねた。悲しいくらい優しい声。
「悲しいの。わからないけど、悲しいの。ごめんなさい、ごめんなさい……」
『謝ることはない』
そっと、優しく髪を梳かれる感触が来る。
そして躊躇しているように一瞬息を止め、吐き出す。
声の主はしばらくそうした呼吸を続けながら美月を抱いていたが、やがて意を決したように言った。
『お前に頼みがある』
「頼み?」
『そうだ。叶えてくれるか?』
美月は頷いた。
できるならなんでもしてあげたいと思った。誰かが悲しむのを見るのは嫌だ。自分が悲しいときよりずっと、苦しくなる。
『ありがとう。優しい娘よ』
声の主は回した手に力を込め、美月をさらにぎゅうっと抱いた。その手が震えている。
『友を、助けてほしい』
「友?」
『そうだ。私は友を傷つけてしまった。いつもいつも共にいたから、何があっても側にいるものだと思っていた。何をしても平気だと思っていた』
溜め息が入る。
『だが違った。私は友に、私には友は必要ないのだと信じ込ませてしまった。故に、友は去っていった。そのとき、私は初めて孤独を知った。表面ではたくさん友ができたが、魂のつながる友はただ一人だった。だがそれを理解したときには遅かった。たくさんの人間に囲まれ、幸せなはずだったのに、私の心は独りぼっちだったよ』
美月は涙が止まらなかった。悲しくなって、切なくなって、たまらなかった。独りぼっちの淋しさを、よく知っていたから。
『私のために、泣かせてしまったね』
声の主はそっと美月から離れた。
『すまぬ。そしてありがとう。私はお前が約束をたがえぬことを知っている』
声は遠くなっていった。
美月は慌てた。肝心の友というのがが誰なのかをまだ聞いていない。それを知らなければ、声の主を助けたくても何もできないではないか。
「待って!もう少し話を……」
『頼む。お前しかもうおらぬのだ。私には、もう……』
「待って!」
美月は叫んだ。
「待って!」
美月はこう叫んで飛び起きた。
頭がくらくらする。去年の祭りのとき、無理に酒を飲まされたときと同じ感じだ。目眩がして、気持ち悪くて、ふらふらする。
祭り。
美月は思い出した。
自分は生贄にされたのだ。
櫃に入れられて、連れてこられて、置き去りにされた。
洞窟の前で祈っていたら、吹き飛ばされて、大樹にぶつかって……。
「痛っ!」
思い出した瞬間、痛みも戻ってきた。
体中が痛い。
恐る恐る見ると、あちこちに傷や打ち身ができていたが、骨や内臓は無事だった。
本当に幸運だった。もっと酷い怪我をしてもおかしくない状況だったのだから。
体をさすりながら、美月は記憶を手繰った。
大樹に叩きつけられた後、恐ろしいモノを見たはずだ。
そう、確か紅蓮に輝く双眸だった。
そして巨大な白い蛇。
美月ははっとし、辺りを見回した。
視界に入ったのは体に巻き付いた浴衣と、白い壁。大蛇の姿は見えない。
美月は安堵し、置かれた状況を理解しようとした。
この暗さでは、皆と別れてからまだそれほど時間が経ってはいないようだ。
ここは、確かではないが、きっとあの洞窟の中なのだろう。だがなぜかぼんやりと、月の明かりがあるくらい明るい。
美月をぐるっと囲む白い壁がほんのり光って、洞窟内を照らしていた。入口も出口も見つからないが、それほど高くない。今の美月でもなんとか越えられそうだ。
美月は少し考えた。
ここから逃げて村に戻るか、留まって食べられるか。
『すまんのう』
逃げるという考えが浮かんだ瞬間、美月は村人のことを思い出した。
「みんな、私のために悲しんでくれた。辛いと思ってくれた。逃げてしまったら、約束を守れない」
こう呟いたとき、ふと何かを思い出した。
目覚める前、夢を見ていたような気がするが、思い出せない。
確か何かをいわれた気がするのだけれど……。
思い出そうとしたが、ますますわからなくなったので、美月は考えるのをやめた。夢というのはそういうものだ。
代わりに違うことを思い出す。
たしか、笛を入れてもらったはずだ。
笛を吹きながら、静かに山神を待とう、そして生贄になろう。怯えている生贄より、心穏やかな生贄のほうが食べやすいに違いない。
美月はそう決意した。悲しい決意だった。
しかし笛は側になかった。きっと櫃の中にあるのだろう。もしくはなくなってしまったかもしれない。
美月はまた考えた。
この壁は越えないほうがいいような気がする。あのまま放っておけば確実に死んでいた自分がここにいるのには、何か特別な意図があるのかもしれない。
ふと、いい考えが浮かんだ。
歌を歌えばいいのだ。笛でも歌でも、気が鎮まるのは、どちらでも同じなのだから。
美月は大きく深呼吸し、気を落ち着けて、歌った。
優しい調べの子守歌は、壁に当たって夢のように響いた。深い湖の底でまどろんでいる、そんな気になる歌声。静かで低い音階の旋律は、美月の声で命を得、広がっていく。
やがて歌は終わった。
美月はゆっくりと目を開けた。緊張がほぐれ、くつろいだ気分だ。
これで大丈夫。心の準備はできた。
大きく息を吐き、浴衣に袖を通しながら壁を見たとき、あることに気づいた。
壁が、動いている。
そんな馬鹿な、と美月は壁ににじり寄った。
そっと触れてみる。
冷たくて、滑らかで、鉄のような感触。それが大きな鱗の形をとって、つながっている。
よく見ると壁の全体が鱗だ。
純白で美しい、大きな鱗でできた壁。
「白くて大きな蛇みたい……」
言ってしまってから、美月ははっとした。
目に焼き付いた山神は白い大蛇だった。
血の色をした瞳が夜の闇に映える、美しい白い蛇。
動く壁と記憶の中の大蛇と比べた美月は必死で悲鳴を飲み込んだ。
ひょっとして、いや、そんなことは……。
だが否定の考えは、美月が顔を上げた瞬間に破られた。