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大蛇は名を風牙という。
白子として孵化して以来、二百年を川で、三百年を湖で過ごした、由緒正しい化け物だ。
化け物といっても風牙は他の生き物(特に人間)と事を構えることを好まず、害を加えられない限り、穏やかに暮らしていた。
湖で過ごすうちに神通力を身に付けた風牙は、緑々山の山神であった友のノヅチに『俗世を捨てて天に昇るので、山神の座を引き継いでほしい』と懇願され、引き受けて地位を継いだ。百五十年前のことだった。
緑々山の入っても、風牙は争いを避け、巨体を洞窟に横たえて静かに暮らしていた。
外出中、運悪く人間と出くわすこともあったが、腹が減っていても風牙は人間を襲わなかった。人間は一人食ったら十人で仕返しに来る厄介な生き物だと知っていたからだ。
だがしかし、人間のほうはそう思ってくれなかった。
風牙の、白く巨大で異質なその姿を記憶し、語り継いだ結果、人々の心には大蛇への恐怖、恐怖を叩き潰すことによって生まれる名声への渇望が生じた。
夜目にも鮮やかな美しき白蛇を狙い、多くの人間が緑々山に足を運ぶようになった。
風牙はそんな人間全てに、無謀な行いの報いを与えた。
自分を傷つけようとする者を風牙は決して許さなかった。風牙に挑んだすべての人間は二度と帰らなかったから、彼の意に反し、白蛇の化け物の噂は広く知れ渡った。
だがある日のこと、風牙は例外を作ってしまった。
事の数日前、風牙は中年の男を一人殺した。
男は無抵抗だった。
風牙は男の態度が気に入らなかった。妙に落ち着いて、他の人間のとは違った、居心地の悪い印象を与えたためだ。
男は一所懸命に何か言っていたが、風牙には聞き取れなかった。放っておいたら際限なく話し続けるので、さくりと殺した。命の危機にさらされたわけではなかったが、鬱陶しかったのだ。
それだけだ。
それからしばらくして、その例外が現れた。
相手は一人の子供だった。
子供はちびのくせに堂々と名乗りを上げた。そして自分は風牙が殺した無謀な人間の息子だと言い、仇を討ちに来たのだと言った。
それだけなら、風牙はいつものように子供を殺しただろう。相手が女子供だとて風牙の知るところではない。
だが子供はさらに、父親が風牙を狙ったのは単なる名誉欲ではなく、これ以上人を殺すのをやめてほしいと懇願に来ただけだったのにと、厳しく非難した。さらにお前は血に狂った化け物だ、とも言った。
その言葉で、風牙は思い出した。
武器も持たずにやってきて、必死に何かを訴えていた人間を一人、殺したことを。
風牙は己を恥じ、悔やんだ。
振りかかる火の粉を払っていたつもりだったのに、いつの間にか無用な殺生をしていた自分に気づいたのだ。
恥ずかしさのあまり、逃げ出した。
子供は追ってこなかった。ただ、涙に濡れた凄まじい視線で風牙を見ていた。
風牙にはそれがたまらなかった。
責めてもらったほうがありがたい、そう感じたのは初めてだった。
だから、風牙は緑々山の山神の座を知り合いの大亀に託し、まだ誰のものでもない青氷山に隠れ住むことにしたのだ。
青氷山では、風牙は決して人間に姿を見せなかった。
人間の気配がしただけで、風牙はその身を隠した。人間を見ればまた殺したくなりそうな予感がしたし、なによりそうやって自分を落としていくのが嫌だった。
そうして五十年の月日が流れ、風牙は青氷山の山神として化け物たちに認められる存在となったのである。
矢傷を負ったのは、全くの不注意だった。
久しぶりに大亀に会おうと、懐かしい緑々山を訪ねた折り、不運にも猟師と出くわしてしまったのだ。
風牙には戦う気などまったくなかったが、猟師は違った。猟師は風牙の噂を聞き、名誉欲に駆られて山に入った者だったのである。
友に迷惑がかかることを恐れた風牙は神通力を使い姿をくらましたが、猟師は執拗に追いかけた。
例え姿は見えずとも、白蛇の巨大な体が進むと跡が残る。熊を追うより容易いと、漁師はほくそ笑み、幾度となく毒矢を放った。
ついに、毒矢が風牙の堅い鱗を貫いた。
激しい痛みに理性を吹き飛ばされ、風牙は猟師を殺した。
緑々山の大亀は死んだ猟師を見ると嫌な顔をしたが、風牙の傷を見ると納得し、不機嫌そうに舌打ちしたあと、漁師の頭を踏み潰した。
そうして大亀は風牙に猟師の死体を処分するよう言った。人間がこの死体を見つけたらどうなるか、よく知っていたからだ。
風牙は頷き、猟師を飲み込んだ。髭が喉に引っかかって辛かったが、なんとか腹に収めると、吐き気がするほど気分が悪くなった。仕方がない、それでも栄養にはなる。
聖域を汚したことを謝ると、大亀は気にしていないと言った。むしろ無謀な人間は嫌いだから感謝したいくらいだとも。
風牙は感謝し、緑々山を後にした。
だが、毒は強烈だった。化け物の風牙を苦しめるほどのそれは、熊が泡を吹いて即死すると言われるほどの猛毒だったのだ。
そしてとうとう力尽きてしまい……。
***
「俺に会ったっつーことか」
『そういうことだ』
風牙は長々と溜め息をついた。
『お主に会わなんだら、どうやっていたかわからぬ。礼を言おう』
「ありがたいね。それよりちょっと思いついたことがあるんだが、聞いてくれるか?」
風牙が頷いたので、青丸はにっこり笑った。
青丸の考えとは、手近の村から生贄を要求することだった。
幸い、青氷山麓には小さな村が一つあるが、村人は風牙が山神として存在していることを知らない。元気なときならいざ知らず、万が一、今の風牙が見つかったら、人間に殺されるのは確実だ。
それなら人間に山神の力を見せて脅し、傷が治るまで山に近づけないのが得策だろう。
それに風牙の話では解毒薬が見つからなかったら人間の生娘の生き血を啜り、肝を食らえば少しは良くなるらしいから、生贄にその条件を当てはめれば、一石二鳥を狙える。
『しかし、人間が生贄を差し出さなかったら、どうする? 一斉に山狩りなどされたら、余計面倒ではないのか?』
「そんときは俺が村人を皆殺しにして、山神の偉大さを後世に伝えさせてやるよ」
青丸は鬼の顔になって凄みのある笑みを見せ、牙を剥いた。
「ま、どっちにしても、生贄を要求するときに、人間を脅さなくちゃならないな。お前、空を飛べるか?」
『無論』
「よかった。それじゃ、お前の背に乗せてくれ。あとは適当に話を作ってやるよ。それでいいか?」
『ああ。よろしく頼む』
それから二人は具体的に話をまとめた。
心うち解ける仲間ができて気が楽になったのか、話している間に風牙の体力も少しではあるが回復し、一人で動けるほどになった。
二人はほっとしたが、のんびりしてもいられない。
このままだと毒は確実に風牙を蝕むだろうからと、青丸は今夜中に計画を実行することに決めた。
「生贄をいただく日はいつがいい? お前が毒とどのくらい戦えるかで決めようと思うんだが」
『確か一月も待たずに村祭りがあるはず。それくらいなら耐えられると思うが』
「よし、決まりな」
そして夜になった。
月が綺麗な夜だった。