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青丸には何も残っていない。
手の中も、心にも、何もない。
ただ一つ、絶対だと信じていたものを忘れ、捨てたことで、なくしたのだ。
青丸は旅人になった。
定住せず、束縛されず、自由でいることで、彼は自分から自分を救ったつもりだった。
ただ、あくまでもつもりであった。
何かが足りない、何かを忘れている。
頭の隅にはいつもこの想いがある。
それが何か、気づいてしまったら、青丸は自分が自由でなくなることを知っていた。自分自身でいるために、目を背けていなくてはならないことだ、そう信じていた。
だから深く考えず、足りない何かを無視することに決めていた。
旅をし、さすらい、気が遠くなるほど長い長い年月を、一人で過ごした。
人と交わらないことで、彼は自由だった。自由でいたいと思っていた。本当に、心の底からそう思っていたのだ。
だが束の間、自由を待たせるときもあった。
目の前で小犬が溺れていたら、何も考えずに体が反応して助けてしまう。
青丸はそんな性分だった。飼い主が現れ、小犬を抱き寄せながら礼を言ったとしたら、彼はふて腐れた顔で、気まぐれだと呟くだろう。
そんな気まぐれが、自由な彼を束縛する時がたまにある。
今回もそうだった。
目の前で長々と伸びている巨大な白蛇は、毒にやられたようだった。
白い腹を上にして横たわる姿を見た青丸は、気の毒な蛇が死んでいると思い、人の手に掛かる前に谷に捨てようとした。
だが、持ち上げられると大蛇は弱々しくのたうった。
『何をする!』
青丸の頭の中に悲鳴のような怒鳴り声が聞こえた。どうやらこの蛇の声らしい。
「なんだ、生きてるのか」
青丸は驚きもせずに呟いた。
『生きているのか、ではない、馬鹿者が!』
大蛇の声は頭の中に直接響いている。声を使わずに思念で意思を伝える、いわゆる念話だ。念話が使えるということは、この大蛇は見た目通り普通の蛇ではないのだろう。
青丸は腕に蛇の体をからめ、さらに肩を渡して体にも廻して持ち上げた。蛇の体は青丸の体の五倍は太く、二十倍は重かったが、彼は易々と大蛇を運んだ。
青丸はその気になれば大蛇の二倍は重い岩を運ぶことができるのだ。
なぜか?
それは青丸が鬼だからである。
すらりとした青年の姿なので一見わからないが、その本性は筋骨隆々の青鬼だ。
肌の色も目の色も旅をしやすいように人間と変わらなく見せてはいるが、実際は青い。角は普段は小さいため、長く青がかった黒髪に隠れて見えないが、激怒したり感情が昂ったりすると、たちまち伸びて鋭い短刀のように光る。
青丸は大蛇を住処まで送っていくことにした。このまま放置しておいたら、自然に死ぬか、人間に見つかって殺されるか、どちらかだと大蛇が言ったからだ。
大蛇の案内で、青丸は山を二つ越え、谷を一つ渡り、森を三つ抜けた。
「もう少しか?」
『うむ……』
答える声が次第に弱くなる。
案の定、目的地の青氷山が目前に迫る所まで来たころには、大蛇はすっかり弱っていた。いつ死んでもおかしくないほど息絶え絶えになっている。
青丸は当惑した。
目前の丘の向こうから人間の臭いがする。村が近くにあるらしい。一人ならともかく、今、大勢の人間に見つかったら、大蛇を庇いきれないだろう。辺りは薄闇に包まれる時刻になっていたが、油断はできない。
「おい、大丈夫かよ?」
とりあえず隠れ、大蛇を地に横たえさせて尋ねると、大蛇は弱々しく答えた。
『……、実は毒矢を打たれてな。あまり芳しくない』
「毒矢?人間にか?」
『ああ。あの糞生意気な猟師めが。青氷山の山神であるこの風牙を狙うとは。身の程知らずも甚だしい。ぎゅうぎゅうと締めつけて骨を砕き、飲み込んでやったが、溜飲が下がっただけで、毒は抜けなんだ』
「仕方ないな。それで解毒薬はあるのか?」
大蛇は少し考え、首を振った。
『いや、わからん。だが我の好物の杏を食えば、気分は良くなるな。それでも駄目なら、人間の生娘の生き血を啜り、肝でも食らえば、精が付いて少しは良くなると思う』
「杏なんてカワイイことをと思ってたら、次は生き血に肝、か? 血生臭いねぇ」
『吐かせ。鬼のくせに』
「言ってくれる。ま、その元気がありゃ、俺の腕で死ぬなんてことはねぇだろう」
青丸はにやりと笑うと、座り直して考え込んだ。
しばらく考える。やがてピカッといい考えがひらめいた。
「さっき山神って言ってたが、お前、ただの蛇じゃないのか?」
尋ねると、大蛇は憤然と言い返した。
『失敬な!我を愚弄するか?』
「いや、すまん。この辺りは初めてで詳しくないんだ。許してくれると嬉しい」
『素直でよろしい。許してやろう』
「かたじけない」
青丸が素直に頭を下げると、気をよくした大蛇は自らの生い立ちを話し出した。