1-3
しめ縄の奥で何かが吠えた。
恐ろしい突風に、美月は吹き飛ばされ、大樹に叩き付けられた。
息が詰まる。
ずるずると地面に落ちると、衝撃の後から苦痛が来た。
樹にもたれたまま、体を二つに折り、痛みに耐える。
「違う」
洞窟の奥から声がした。
「あの娘ではない」
「あの娘は病気になりました」
ぞっとするような恐ろしい声に、美月は必死に訴えた。痛みと恐怖に負けて声がかすれないよう、ぎゅっと目を閉じたまま叫ぶ。
「病気で痩せて、とても生贄にはふさわしくないと、私が代わりになりました」
「代わり?お前がか?」
「はい」
「……、そうか」
暴れていた風が止まった。
前から押す力がなくなり、呼吸が楽になった美月は、まだ痛む体を起こし、大きく息をついた。
ほっとして力が抜けていく体を奮い立たせつつ、前を見る。
洞窟の奥に、二つの光があった。
光はじっと美月を見ている。
それが山神の双眸だと気づくのに、少し間が必要だった。
美月ははっとして自分を見直した。髪は乱れ放題だし、体中が傷と泥でひどい状態だ。
どうしよう……。
泣きたくなった。
これでは山神様の生贄にふさわしくない。それでなくとも、自分は不格好で美味しくなさそうな娘なのに。
洞窟の奥で、シュウシュウと何かが鳴った。
美月は物思いから醒めた。
洞窟から放たれる異臭がさらに強くなる。辺りに濃く霧が漂い、夜の闇の訪れを早くする。
闇が美月を取り囲むと、光は一層強くなったように見えた。
妖しいまでに艶やかな、深紅の光。
濃密な血を連想させる、濃い赤。
目をそらせなかった。
光は徐々に強くなる。こっちに向かっているのだ。
美月は怯えて縮こまった。喉がからからに渇き、全身を冷たい汗が流れる。恐怖で体が動かないのに、目だけが光を追っていた。
光が目の前に来た。
それは、大きな蛇だった。
大樹と同じか、一回り太いくらいの胴回りをした、白い大蛇。
闇の中で、雪白の体は夢のように美しく、幻のように残酷に見えた。
光は大蛇の双眸だった。霧でしっとりと濡れた、血のような、美しい紅。
大きな口からは時折舌が覗き、シュウシュウと音も漏れる。異臭は音とともに出ているようだった。
目を見開いたまま、美月の動きは止まっていた。
喉元まで悲鳴が来ているのに、重い塊のようにそれ以上は出ない。背に当たる大樹と冷たい土の感覚だけが、夢でないんだと囁いている。
『怖い……。でも………』
赤い目に、美月は自分が映っているのを見た。
目は妖しい美しさで、美月の魂を魅きつける。赤い光が頭の中いっぱいに広がっていく気がした。血と同じ色の赤は美月を染めていくようにどこまでも広がる。
『お願い。あの人を……、あの人を殺さない、で………』
意識が遠くなった。
もう二度と目を醒ますことはない、そう思うとなぜか、美月は心が軽くなった。
目を閉じる。
同時に張りつめていた糸が切れ、全身の力が抜けた。
ずるずると崩れ、地に着くと同時に、美月は意識を失った。
完全に意識がなくなる僅か前、大きな腕に抱かれたような気がした。
あの世から父母が迎えに来たのだろうか?
そう思うと、美月の心は母の胸で眠る幼子のように満たされ、穏やかになるのだった。