6-5
空が、一瞬、揺らいだ。
揺らぎは波紋だった。
空になにかの滴が落ちたのだ。
滴は周りを波立たせ、すぐに消えたが、その波に、今にも消えようとしていた魂の粒が運ばれ、集められた。
粒が滴の落ちた場所に来ると、空がまた揺らいで、滴が落ちてきた。
滴は魂の粒に降りかかり、固めて、いくつかの欠片にまとめた。
欠片になると、魂は自ら欠片同士をつなげて、一つの形を作った。
それは人間の女、溶けたはずの美月だった。
美月は目を閉じて空を漂っている。
『美月………』
遠くから声がした。
かすかに響くほどだったが、空はわずかに揺れ、小さな波を作った。
波は美月の体を揺らした。一度、二度、波を越えるたび、頬に赤みがさす。
波が消えると、瞼が動いた。
美月はゆっくりと目を開けた。
『美月』
また声がした。
空が再び震える。震えに作られた波を越えるうち、焦点がはっきりし、精気が戻った。
美月はゆっくり身を起こした。呆けたまま、周りを見回す。
「私は……?」
視線を手に移す。手を見るのが初めてのような顔をし、握ったり開いたりし、次いで体中を見て驚いた表情になった。足の先まで指を滑らせ、返ってくるしっかりした肌の感触に戸惑っている。
顔を上げると、前に男が一人いて、穏やかな表情で美月を見ていた。
「あなたは……?」
見覚えのない顔だった。白い長い髪、紅の瞳、赤銅の肌、逞しい体と、そして大きな角を一本、持っている。
鬼だと理解するまで少し時間がいた。
恐怖を感じないのが不思議だった。ひょっとすると自分にも角があるのかもしれないと思い、頭を探ってみる。もちろん角はなかったが、鬼が笑ったので、美月もにっこりした。
『良かった』
鬼が言う。
傍らに座ると、鬼は大きく息を吐いた。息は燃えそうに熱くて、忘れていた誰かを思い出させる。
あれは、あの青い影は誰だったろう?
美月は首を傾げたまま考え込んだ。
だがわからない。
額に手を当て努力していると、鬼の手が肩にかかった。鬼とは思えない優しい声が続く。
『間に合って、良かった。もう永遠に会えないかと思った』
「間に合う?」
『ああ。もう少しで、消えてしまうところだったんだよ。優しい娘、お前は憶えているか? 私を、お前が消えては悲しいと言った私を?』
急に頭がはっきりした。
優しさの詰まったその声は、美月が忘れたくても忘れられないものだった。
美月は視線を鬼に向けた。鬼は美月など片手で潰せそうな筋肉と、見ただけで身が竦んでしまう角を持っていたが、言い様のない優しい目と、想像した通りの暖かさがあった。
「初めて、お顔を見ることができましたね」
美月は微笑んだ。
しかしすぐに表情を曇らせる。
「でも、私、何も憶えてないんです。私自身のことも、周りのことも、何も思い出せない。どうしたらいいかもわからない……」
鬼は優しく微笑み、美月を引き寄せて、髪を撫でた。逞しい胸が額に当たり、体臭が鼻に来る。獣のようなむっとした匂いだったが、なぜか心地好かった。
どこかで嗅いだことのある匂い。
たしか、とてもとても好きだったはずだ。
『私の名を言ってなかったね』
髪を撫でながら、鬼が言った。
『私は赤丸。青丸の友だ』
急に美月は胸を押さえた。
心臓が痛む。
鼓動が激しくなり、脈が強く鳴る。
ドクン、ドクンと、体の中の液体が全身を走り、同じ音で頭を支配する。
くらくらと目眩がし、全身が熱い。
焼けて、燃えて、灰になりそうな灼熱感。
これはなんだろう?
声に出そうとして口を開いたはずだったのに、出たのは熱い息と、悲鳴だった。
胸の辺りから湧き出した激流が全身を走り、脳を白く灼いた。
赤丸の胸にしがみつく。
厚い胸に顔を押しつけて、全身から発する声を出し続けるうちに、頭の中にいろいろな光景が入ってきた。一度に吸収するには多すぎる量の情報は苦痛となって、魂を麻痺させた。気が狂いそうな想いは意識を遠くへ突き離し、その身を赤丸の胸から滑り落とす。
『しっかりおし。お前には私がいる。青丸と風牙がお前を待っているよ』
大きな手が美月をつかみ、頭を強く引き寄せた。堅い筋肉の感触から、熱とは違う暖かさが伝ってくる。
暖かさはゆっくりと美月を包み、負荷は半分になった。呼吸が楽になって、胸にしがみつく余裕ができた。悲鳴を押さえ、ぎゅっと目を閉じて痛みに耐える。
やがて情報が尽きると、痛みが消えた。
崩れそうになる体を、赤丸が抱え直す。美月は大きく溜め息を吐いた。手で汗を拭い、赤丸を見上げる。
そこで美月は小さく悲鳴をあげた。
「赤丸様!これは……」
いつの間にか、赤丸の体は濡れていた。
人間とは色の違う、青い血で。
美月は手で血を拭った。指に血が絡み、腕を伝って体から足に流れ、空に落ちる。
どこから溢れているのかわからない血を、美月は懸命に拭った。赤丸がこれほどの血を流すほどの深傷を負っているのかと思うと、心配でたまらなかった。
指で体をなぞっているうち、血の源は胸にあることがわかった。
何も着ておらず、拭うものがなかったので、美月は赤丸の胸に手を強く当てた。血はどんどん溢れ、全身を濡らす。思い余って、傷に口をつけた。口の中に血の味が広がる。焼けるように熱くて、舌を刺激する、人間とは違う味。
『いけない、美月』
言って、赤丸は美月を押し退けた。
弾かれて転びそうになる美月を支え、首を振って微笑む。
『すまぬ。しかし血の味を憶えてはならぬ。それが鬼のモノであっても、だ。良いな』
「でも……。この胸のはとても酷い怪我です。私にはこれくらいしか……」
『忘れたか? これはお前の傷だよ。魂に傷はつけられないから私に傷があるように錯覚したのだろう。私からは血など一滴も流れていない。見てごらん』
おもむろに、赤丸は自分の腕に爪を当て、引っ掻いた。血が滲み、玉になる。血は夕日の橙色だった。
美月は目を見張った。赤丸の胸と自分の手を見、茫然とする。
「じゃあ、これは……?」
声に出すと、青が迫ってきた。視界一杯に広がる青は何かを訴えている。
美月は目を閉じ、手を頬に当てた。
暖かい。
大切な何かを思い出させる暖かさだ。
「青丸様……」
ふいに涙が溢れた。
青い血が頭に氾濫していた情報をまとめてくれたようだった。脳に記憶が落ち着いて、いろいろなことが思い出される。
『思い出したか?』
美月は頷いた。涙が頬を伝い、空に落ちる。
涙はさざ波となって空を揺らした。自分の落とした涙で体が揺れるのがひどくおかしかった。美月は泣きながら笑った。涙の数だけ波ができ、二人を覆う青い血を薄めた。
『術が成功したようだな。良かった』
「術?」
『ああ。青丸が自らの命を削っている術だ。風牙が手を貸している』
「それでは、これは……?」
二人を包んで流れる青を見、赤丸を見上げる。赤丸は美月を真っ直ぐに見つめ、頷いた。
『そう。青丸の血だ。お前を生き返らせるために、お前の体に注いでいる』
美月は大きく目を開けた。立ち上がりかけて戸惑い、また赤丸を見る。
赤丸は美月の肩に手を掛け、座らせた。
『生き返りたいか?』
美月、頷く。
『人間としては生き返れぬぞ。それでも良いのか?』
赤丸は美月が一瞬身を強張らせたのを見逃さなかった。美月の両肩をつかみ、真っ正面から目を覗き込む。
『魔物の血で蘇れば、人間には戻れぬ。自らの意志では死ねず、血の主の傍らを離れることもできず、血の主の死によってのみ滅ぶ、魔物の眷属に成り下がるのだ。それでも良いのか? 魔物にすら蔑まれる魔物以下の存在になる覚悟があるのか?』
「………」
『今ならまだ、人間としての平穏な死を選ぶこともできる。美月は私に力を貸してくれた、次は私の番だ。人として最後までありたいと望むなら、私が彼らの術を破り、人間のまま心安らかに旅立てるよう、力を貸してやろう。人間として、楽しかった思い出を胸に残して、大いなる終焉の地へ旅立てるのだぞ』
美月は紅の目に映る自分を見ていた。
人間の自分だ。
だが、その人間の瞳は、赤丸とどこか違うだろうか?
赤丸は鬼だ。鬼だけど、とても優しい目をしている。自分を気遣ってくれている、暖かい紅の目。
魔物は人間とどこが違うのだろう?
魔物は他の痛みや苦しみを祭りの笛のように好む、自然に逆らう残虐な存在だと言うが、人間でも残酷な者はいくらもいる。人を陥れ、もがく姿を見て楽しむ人間もいる。
人間だということが、そんなに大切なことなのだろうか?
そうじゃない、と思う。
人間でも魔物でも、大切なのは心だ。
痛みを知り、故に他を気遣える優しさを持った魂なら、魔物でも人間でも関係ないのではないか、と。
「もし、神様が許してくれるのなら……」
呟いて、ふと、風牙の言葉を思い出した。
“神は助けてくれぬ。道は自分で作るものだ。神は負けた理由を作ってくれるもの。それ以上のものではない”
そうだ、道は自分で探さなくては。
どんなに辛くても、迷わず、まっすぐ前を見るように。
美月はまっすぐに赤丸の目を見た。
「風牙様と、青丸様の側に帰ります。そこが私の居場所なんです」
赤丸は優しく微笑んだ。
『実はそういうと信じていた』
優しい手が美月の額に触れる。
美月は目を閉じた。
そして、空が弾けた。