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6-3

 気がつくと、あの何もない空を漂っていた。


 美月は胸を押さえた。

 さっきまでの灼熱感が嘘のようにない。

 血も、傷もなくなっている。

 破れた服も、自分の肌さえ、感触がない。


 感触?


 ふと美月は自分の手を見た。

 指の形はあるのに、どこか違う。

 密度が薄くて、時折透ける。そう、湖に張った氷が春の水に消えていくように。


 自分が消えていく?


 美月は起き上がった。

 自分を見回し、足の先や体の所々も指と同じなのを知る。


 驚きながら、安心している自分がいた。


 美月は自分を離れた所で見ているもう一つの目を持っているのに気がついた。

 その目が、消えかかる自分を見つめていた。

 淡々と、氷が溶けるのを見る目で。


 空に、風牙の顔が浮かんだ。


 初めて会ったとき、風牙はとても恐ろしい荒ぶる神に見えた。深紅の大きな瞳が、白い大きな体が、ちらりと見せる舌が、言い様もなく怖かった。

 この神が私を食べる、そう思っただけで、震えが止まらなかった。


 でも、風牙は優しかった。

 村人達が美月にするのとは違ったが、精一杯優しくしてくれていた。


 始めは、自分を食べてくれない風牙を恨み、生贄にもなれない自分を口惜しく思ったが、風牙と暮らすうち、本当は生贄など求めていなかったことがわかった。どうして生贄を求めたのか、話さなかったが、傷を治すために、血がいたのかもしれないと美月は思っていた。だが、今となってはわからぬことだ。


 それにたとえ風牙が恐ろしい化け物だとしても、美月は風牙が好きだった。こう呼ぶことを許してもらえるのなら、風牙を一番の友と思っていた。風牙の美しさ、神々しさ、優しさ、すべてが好きだった。

 もし許されるならば、このままずっと側に置いてほしい、真剣にそう思ってもいた。


 続いて、青丸の顔が浮かんだ。


 初めて見たとき、美月は青丸を畏怖した。その時は青丸は鬼ではなかったが、風牙と一緒にいたので、青丸も神だと思ったのだ。

 その後、本当の姿、恐ろしい、異形の鬼の顔、を見、恐れた。体が竦んでしまって、震えが止まらなかった。


 だが、青丸はそんな美月に微笑んだ。心に痛覚を与える笑みだった。

 美月ははっとした。微笑みの中にある何かは、美月が知っているものだったからだ。


 それから、青丸を見る目が変わった。

 今まで持っていた、魔物は恐ろしく、無慈悲で、忌むべき存在だという価値観を、青丸と風牙が変えてくれたのだ。

 彼らは村人達と同じくらい優しくて、風牙の冬眠中、青丸と二人で過ごした冬は、寒かったが、暖かかった。


 美月は次第に青丸に惹かれていった。

 青丸は美月の話を聞いてくれたし、自分のことも話してくれた。


 それから青丸を愛していると思うのに、時間はかからなかった。

 青丸は鬼、美月は人間、だがそんなことはどうでも良かった。青丸が鬼であることと、彼を愛することは全く別のことだったから。


 村のことを思い出して切なくなることもあったが、青丸の笑顔を見るだけで幸せだった。それだけで辛いことも耐えられた。


 青丸に抱かれたときも、怖かったが、それ以上に幸せだった。

 青い目を愛しいと感じ、大きな手を逞しいと思い、広い胸に顔を埋める一時の幸せを知った。両親が死んで以来初めて、全身を満たすような安らぎと幸せを感じた。

 青丸は美月に同情してくれたのであって、愛してくれたのではないと理解していたが、それでもいいと思った。愛情を与えた分だけ返してもらおうと思うのは僭越で、愚かなことだ。

 たった一日でも、青丸を愛させてくれたこと、青丸が自分を愛していると思わせてくれたことを思うと、それだけもう、幸せだった。


 二人の顔が浮かんだ。


 その間に自分がいるのが見えた。美月は幸せになった。一緒にいるようになって、二人が自分の居場所を作ってくれたのがたまらなく嬉しかったから。


 村にいたとき、美月の居場所は少なかった。

 両親を亡くしてから村長に預けられた美月は、性格柄、家で寛ぐなどできなかったし、村の人とはしゃぐこともあまりなかった。

 一人になりたいと思うことは少なかったが、そんなときは川や丘の上まで行った。笛や歌の練習も、そこでした。


 村人達は美月を愛してくれた。村の娘として、ずっと育ててくれた。

 美月も村人達が好きだった。


 だからこそ、生贄を代わった。

 もちろん、前に青丸に話したようなこともあったが、それ以上に村人達を守りたかった。


 だが、幸せだったか?と聞かれると、わからない、自信が持てない。

 その時は美月は幸せだと思っていた。村の仲間と過ごして、幸せだったと。


 しかし青丸や風牙といるとき、美月は安らいでいた。心が凪いでいるのが感じられた。

 これが本当に幸せというものなのかはわからなかったが、別に良かった。


 どちらも大切だから、比較できないくらい、大事だからだ。


 美月は胸に手を当てた。


 かすかにごつごつした感触がある。胸に穴が開いているんだから仕方ない、と少し笑う。

 美月は指先で傷をなぞりつつ、死は天罰だと思った。

 人間が愛してはいけないものを愛した罪は死でしか贖えない、美月はそう信じている。

 青丸を愛していると気づいてからずっと、遠くない未来に死ぬことはわかっていた。

 だから、その死が青丸の手によるもので嬉しかった。自分勝手で申し訳ないと思ったが、愛する者の手にかかって死ねて、幸せだった。


「青丸様」


 声に出して呟くと、急に指に伝わっている感触がはっきりした。

 同時に痛みが胸を貫き、灼く。

 苦痛に息を吐き出し、首をのけ反らせて、目を閉じ、また開けると、全身の密度と輪郭が戻っているのがわかった。

 だが見えない血が胸の傷穴から噴き出て、体を構成している線を消していく。

 胸を、腰を、背を、足を、存在があったことを否定するように、空に返してしまう。

 美月は首を振った。こんなのは厭だ。急にぱっと消えてしまうのは悲しすぎる。これならまだ、薄くなって溶けるように消えてしまうほうがいい。


 なぜ、いきなり戻ってしまったのだろう?


 しばらく考えて、理由がわかった。


 風牙と青丸のことを考えていたからだ。


 二人と作った記憶が、美月をここに引き止めておこうとして存在を強めたが、運命は美月の死を変えず、相反する力が作用してこうなったのだ。


 美月は思った。自分が自分であるために必要なのは、自分を形作る肉体という存在だけじゃなく、周りを取り巻く人々の心であると。心の結びつきが魂を成長させ、自分を存在させてくれるのだと。

 青丸、風牙、二つの大きく暖かな心は美月を愛してくれ、美月を美月でいさせてくれたと。


 血が顔を伝い、頭に届いた。


 その瞬間、頭の中が白くなった。


 記憶の襞が少しずつ伸びていく。襞の中に蓄えられた思い出が消えていく。

 村での時間、風牙と青丸との時間が、次第にぼやけて、遠くへ行ってしまう。


 遠い昔に死んだ両親が去り、村人達が去り、村長、杏寿、橙次が去る。


 その後を、風牙が追った。消えるとき、村人達は笑顔しか思い出せなかったのに、風牙は悲しげに美月を見ていた。

 美月は胸に別の痛みが走ったのを感じた。


 最後に、青丸が来た。


“俺は青丸。こいつの知り合いだ”

“俺は鬼だぞ。怖くないのか?”

“俺は、俺はお前に、死よりも酷い運命を与えてしまったか?”


 青丸は笑っていた。美月を抱きしめた大きな手を広げ、そのままぼやけていく。

 姿が薄れてくると、青丸から笑みが消えた。目が大きく見開かれ、美月を見つめている。自分の手と美月を見、信じられないと言った顔で、茫然と美月を見ている。地面に拳を突き立て、顔を上げて絶叫している青丸は、今まで見たことにないほど苦しそうだった。

 胸が痛む。

 傷の痛みも身を折るほど苦しいが、青丸のそんな姿を見るのは、それよりもっと辛い。


 だが、それも次第にぼやけ、消えていく。


「いやあ!」


 美月は首を振り、叫んだ。

 青丸を忘れるのだけは厭だった。忘れてしまえば、こんな痛みを感じることはないが、それでも厭だった。

 自分の存在が消えること以上に、辛かった。

 そして初めて、消えること、死に恐怖した。

 一度も感じたことのない、体の芯を潰されるような恐怖だった。恐怖と痛みで、気が狂いそうになる。


 だが、ついに青丸も消えてしまった。


 美月の中で、何かが弾けた。

 胸の血の残像が止まる。


 同時に、美月を形作っていたものにヒビが入り、残っていた輪郭線を割った。


 美月は痛みを感じなかった。

 恐怖も悲しさも辛さ、すべての感情は、記憶とともに消えてしまった。


 美月を構成していたものは細かな破片になって、乾いた音を立てて崩れた。


 そして、破片はさらに細かな粒子となり、空に溶けていった。







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