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6-1

 棲み処である大樹を見た瞬間、青丸の体から力が抜けた。

 ペタンと座り込む。


 いつの間にか、十六夜の月が、夕闇を夜に変えていた。


 青丸は美月を見つめた。


 美月が冷たく硬くなっていく感触が腕に伝わってくるのに、信じたくなかった。

 安らいで薄く微笑んでいるその顔は、眠っているのと変わらない。夕べ、腕の中で眠っていた顔、幸せだと言って微笑んだあの顔と。


「美月」


 呼んでみたが、反応はなかった。

 抱きしめても、ぐにゃりと冷たい感触が返ってくるだけだ。

 胸の血もすでに固まっていて、美月をくるんだ青丸の上着を貼り付けている。

 閉ざされた目が、青白い頬が、血がこびりついてもつれ固まった髪が、言い様もなく哀しかった。


 そうしてしまったのが自分だと思うと、息が苦しくなる。

 美月に食い込んだ手に伝わる肉の温かさと、腕を伝い落ちる血の流れが、生々しく思い出されると、苦しくて、痛くて、倒れてしまいそうだ。


 美月を抱え直し、立ち上がって大樹の根元まで行く。

 崩れるように座ると、腕から美月が滑り落ちた。慌てて手を伸ばす。

 身を屈め、うつ伏せになっている美月を仰向けに直すと、もう何をする気力も出なかった。

 側にうずくまり、膝に顔を埋めて目を閉じる。


 目の前の美月は、もう美月ではなかった。

 死んだ人間、魂の抜けた肉の塊だ。


 今まで旅をして、多くの死を見、また、この手で作ってきた。

 鬼である青丸にとって、死は人間が思うほど忌むものではない。自然には生と死が常に隣合わせで存在している。

 弱いものは死んで強いものの食料になるし、強いものが死ぬと弱いものがそれを食べる。

 自然の中では青丸とて食料の一つにすぎず、死ねば土の中の小さな生き物や弱い小動物の腹に入る運命。死に、肉の塊となったものはすべて、自然に還り他の生き物の体を作る。当たり前のことだ。


 だが、静かに横たわっている美月を見ていると、今まで持っていた死への想いが崩れていくのがわかった。


 青丸は美月と(もう美月ではないのはわかっていたのだが)離れるのが厭だった。

 美月に触れられないのが厭だった。

 目の前から消えてしまうのが厭だった。

 自然が自分から美月を取り上げてしまうのが、とても、とても厭だった。

 厭で、怖かった。

 美月の存在が失われることに対し、純粋に恐怖を感じた。

 これが人間が言う死なのだと思った。

 死によって奪われるものの意味、青丸が理解していた食物連鎖以外の死を、初めて知ったような気がした。


“青丸様は私に優しくしてくれました。あの優しさが嘘じゃなかったって、私、わかります。青丸様は鬼。でも優しい方です”


 以前、美月が言った言葉が、ふいに脳裏をよぎる。


“鬼だからどうだって言うんです? 人間とどこが違うんですか? たしかに、鬼は怖いモノだって聞いて、ずっとそう信じてました。でも青丸様は違います。青丸様は大きな、とても大きな優しさをくれました。冬の間、私を護ってくれました。鬼だとか人間だとか、そういうのよくわからないけど、これだけはわかる。青丸様は誰にも酷いことなんかしてない。私、信じてるもの!”


 あのとき、泣いてしがみつく美月に困惑したのを憶えている。


 どうして美月が泣くのかわからなかった。

 そして鬼の自分を好きだと言い、かつ信じていると叫んだ美月に驚き、戸惑った。


 だが同時に、心の奥のほうが火がついたように熱くなって、自分でも理解できない気持ちのまま、美月を抱きしめたのは確かだ。


 腕の中の美月を感じていると、叫びながら暴れてしまいたい感情が退いて、自分でも不思議なほど穏やかな気持ちになれた。

 こんなことは初めてだった。


“私は、分を越えて、青丸様を愛して、しまいました。だから、私が死ぬのは、罰。神様からの、罰です。青丸様の、せいじゃ、ありません。許して、許してください…”


「罪? 罰? 何のことだ? 美月が何の罪を犯したと言うんだ? 馬鹿な!」


 呟く。


「俺を、愛していたって……? そんな……」


 そのとき急に、青丸は自分が美月を鬼の本能に逆らって抱いたことの理由を悟った。

 あまりに化け物らしくない故、思いもつかなかった感情、だからわからなかった。


 しかしそれならば、罪深いのは美月ではなく、自分ではないのか?


“青丸様……、風牙様、美月は、幸せ…。もっと、一緒に、いたかった……”


 急に激情の波が押し寄せて、青丸は地面を殴った。


「一緒にいたかったのは、俺のほうだ!」


 大地が揺れる。


「俺のほうが、死ねばよかったのに……」


 大樹が震えると、バラバラと葉が落ちてきて二人に掛かった。

 青丸は弾かれたように立ち上がり、美月に掛かった葉をどけた。頭の上からつま先まで、狂ったように手を動かし、葉が一枚もなくなると、青丸はまたうずくまった。


「俺はまだ、一度も、お前に、愛していると、言っていないじゃないか……」


 美月を愛している。

 そんなことに気がつかなかったなんて。


 馬鹿だ、青丸は激しく後悔した。胸の奥が苦しくて、目眩がして、胃の上をぎゅっと捕まれてるみたいだ。何もかもが現実から遠くて、故に夢よりタチが悪い。


 青丸は地面に埋まった岩に拳を置き、強く押しつけた。手首までめり込み、皮膚が割れ、血が流れる。

 大樹の葉の陰から差し込む十六夜の月灯りが、美月の横顔を照らした。いろいろなものから解放されて安らいでいる、永遠の寝顔。


 青丸は叫んだ。

 月を見上げ、血を吐いて、喉が裂けるほど絶叫した。その叫びは森を越え、山に木霊し、空に広がって散った。


 青丸は泣けなかった。

 悲しくて、辛くて、苦しくて、肺が潰れそうなほど痛いのに、一粒の涙も出なかった。


 赤丸が死んだときは、体中の水分が全部涙になったと思ったくらい、涙が溢れて止まらなかったのに。

 あのときも今と同じくらい悲しかった。

 悲しくて悲しくて、どうして自分が代わりに死なないのだと思った。


 同じなのに、どうして、美月のときは涙が出ないんだろう?


 赤丸を思うほど美月を思っていなかった?


 いいや、違う。

 青丸は、赤丸に向けたのとは違う想いを美月に持っていた。


 美月を失って初めて知った、愛という想い。

 美月が教えてくれたのだ。力の限り青丸を愛し、死んだ美月が。


 いつの間にか、風牙が来ていた。

 風牙は何も言わずに青丸の傍らに身を落ち着けた。舌をちらちらさせながら、じっと美月を見ている。


 青丸は岩から手を抜き、座り込んで膝に顔を埋めた。相手が風牙でも、今は何も話す気になれなかった。だが、風牙が側にいると思うと、それだけで肺の痛みが減った。

 何とも化け物らしくない。

 ひどくおかしな感じがして、少し笑う。


『奴は、お主に気づいて欲しかったのだろうにな』


 ふいに風牙が言った。






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