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1-2

 美月(みつき)は独りぼっちだった。

 両親は幼い時に流行病で死に、他に身寄りもない。


 都ならば美月のような子供はすでに死んでいただろうが、幸いにもこの村では村全体で遺児の世話をすることになっていた。青氷山(せいひょうざん)という名の冷たい青色をした山の隙間にへばりついている小さな村では、村人すべてが親戚のようなものなのだ。

 さらにその年は流行病のせいで、村人の約四分の一が亡くなった。

 これ以上人口が減っては困ると、身寄りを亡くした子供達にはそれぞれ里親がつき、家族同様に大事にされていた。


 優しい村人達の中で、美月は成長した。


 美月は決して美しくはなかった。

 目は大きく艶やかであったが、ぱっちりした二重ではなかったし、鼻もどちらかといったらやや上向きでペチャンとしている。

 上下の唇の大きさも揃っていない。

 髪は柔らかなだけが取り柄の焦げ茶色の猫毛で、どれほど梳いても納まり悪く跳ねる。

 がりがりに痩せて手足が長く、浅黒くて肉付きの薄い肢体は、年齢より彼女を幼く見せた。


 それでも美月は気立てが良く、働き者で誰からも好かれた。

 両親から教わった薬草の知識を生かして細々とした病気や怪我を診ることもあったので、重宝がられてもいた上に、祭りのときには笛と歌の名手として踊りの輪を盛り上げた。美月の笛と歌は、祭りになくてはならないものだったし、村人達はそれを愛していた。このような小さな村では、祭りは一年に数回しかない貴重な楽しみの一つなのだ。


 しかし、今年の祭りは恐怖で包まれた。


 あれはどれくらい前のことだったろう。

 雲一つない、月の綺麗な夜だった。

 風が煩いくらい鳴いていて、木々も怯えたように枝を揺らしていた。家畜も落ち着かなく騒いで、眠れない夜だった。


 自然、村人達は村長の家に集まった。

 村長の家は村人すべてが眠れるほど広いので、人々は身を擦り寄せ、子供達を抱いて眠った。


 そんな中、何の前触れもなく、大地を揺るがすほどの咆哮が轟いた。


 突然の咆哮に、村人達は跳ね上がった。子供達は泣き叫び、女達は互いに抱き合った。

 勢いの良い若者の何人かが、正体を確かめようと外に走った。


 直後、家畜の悲鳴があがった。


 若者達は家畜小屋に走った。


 扉が開いている。

 恐怖を忘れ、飛び込んだ。


 その目に映ったものは、これ以上ないほど酷いものだった。


 牛が一頭、死んでいた。


 本当にこれが牛なのだろうか、そう思うほど酷い死骸だった。

 原形もわからないほどぐちゃぐちゃに潰され、血で真っ赤に濡れた肉塊。それがあちらこちらに飛び散り、家畜小屋を汚している。生暖かい空気に包まれた場所からは嫌な臭いが漂い、生き残った家畜が隅で震えている。


 とうとう、一人がうずくまって吐いた。

 それで、若者達は再び動きを取り戻した。

 ある者は腰を抜かしてへたり込み、ある者は気を失って倒れる。


 一番しっかりしている者が、村長に知らせるため走った。


 だが、村長は家畜小屋には行けなかった。

 知らせを聞き、駆けつけようと扉を開けた瞬間、金縛りに会い、えも言えぬ不気味な声に止められたからだ。


「ヌシが村長か?」


 その声は生臭い臭いを連れていた。


 子供達は泣くこともできず、母親にすがりついてじっとしている。

 村長は恐怖に体を凍らせたが、頷いた。


「そうか」


 声の主は頷いたようだった。空気が動き、風ができたので、そう思ったのだが詳細はわからない。


「我は新しくこの地に来た青氷山の神だ。我はヌシらに生贄を求める」

「い……、生贄で、ございますか?」

「そうだ。秋祭りの夜、生娘を一人でいい。我に差し出すのだ。とりあえず今年は……」


 また風が湧く。

 今度の風は強く、村長は一回転して尻もちをついた。


 村長を押し倒した風は家の中に入り、中にいた女子供をなめ回すように一周した後、娘を一人、外に運び出したのち、村長の傍らに下ろした。


 それは村長の一人娘だった。

 娘は恐怖に声もなく、父親に抱きついて震えている。


「この娘でいい。いいか、忘れるな。我は青氷山の上、大樹の傍らの洞窟に住むことにした。娘を櫃に入れ、酒を持って来るのだ。もし言うことを聞かねば、ヌシらすべてを、家畜小屋の牛と同じようにしてやる」


 そう言うと、山神は風を供に去っていった。


 村は大騒ぎになった。

 楽しい祭りに、こんな悲劇が重なろうとは。


 村長の娘は杏寿といい、柔らかな肢体の美しい娘であったが、我が身の不幸を嘆き、泣き暮らして病気になり、痩せていった。


 村人達にはどうすることもできなかった。


 娘の許婚である橙次という青年は、何とか山神を倒そうと村長にかけ合った。

 しかし、あの恐ろしい力を充分見せつけられていた村長は首を縦に振らなかった。娘は確かに可愛い。だがそのために村人を犠牲にするわけにはいかない。


 そうこうしているうち、祭りの日は迫ってきた。


 村人達は祭りが近くなると次第に無口になった。子供達すら、大声をあげるのを憚るようになり、外に出なくなった。


 村は死んだように静まり返り、人の心も死んでしまったように思えた。


 そんな中、美月はある決意を固めて、村長を尋ねた。


「み、美月!今、なんと言った?」

「はい。私と杏寿を入れ替えて、私を生贄にしてくださいと申しました」


 美月は真摯な瞳で村長を見つめた。


「杏寿は来年の春に橙次さんの嫁になるのを楽しみにしているじゃありませんか。それをあんな、あんなことになってしまって。でも私は、私は両親を亡くしてから、みんなに大事にしてもらいました。村長にも、杏寿にも、数え切れない思い出をいただきました。今度は私の番です」

「しかし……」

「大丈夫です。山神様には私からきちんとお話しします。杏寿は病気になってしまったので、私が代わりに来たと。私は美味しくないかもしれませんが健康ですからと、一生懸命お話ししてみます。山神様もわかってくださいます、きっと」

「美月……」


 村長は美月の手をぎゅっと握りしめた。


「ありがとう」


 美月の体を抱き寄せ、抱きしめる。

 その顔が村長から杏寿の父親のものに変わっていることに気づき、美月は優しく微笑んだ。


 そして、ついに祭りの日になった。


 昼の間、美月は笛を吹き、歌った。


 村人達はそんな美月を涙を浮かべた目で見つめた。

 村長も杏寿も橙次も、美月の顔をまともに見られなかった。

 いや、村人の誰もが、美月をまともに見れなかった。不憫に思う心と罪悪感で、心がいっぱいだったのだ。


 夕方になり、美月は櫃に入れられた。


「すまんのう」


 酒を運ぶ役目になった男が頭を下げると、美月は黙って首を振った。

 男は目に浮かべた涙が溢れないように上を向いたまま美月の笛を持ってきて、櫃に一緒に入れてくれた。もう生きて笛を吹くことはないだろうが嬉しかった。この優しい人々を守れると思うとそれだけで誇らしい。


 辛いのは自分ではない。村のみんなだ、そう美月は思った。

 自分は死んでしまうが、辛いのはそのひとときで終わる。

 みんなは来年や再来年の心配、生きていく上での心配事がたくさんあるのだから。


 やがて櫃が担がれた。

 男達が苦労して山道を登っているのが櫃を通して感じられる。


 不思議と穏やかな心だった。


 村人達は誰もが美月の恩人だ。両親を亡くし、独りでは生きていけない美月を暖かく包んでくれた、大切な人々。こうして彼らの役に立つのは、とても、嬉しい。


 やがて動きが止まった。


 櫃の中で、美月は村長の声を聞いた。

 恐ろしい咆哮があがり、不気味な声が村人達を急き立てたのも聞いた。


 そして、静寂が戻った。


 別れが悲しくて、美月は泣いた。泣いても仕方ないのはわかっていたが、それでも悲しくて涙がこぼれ出る。美月は溢れる涙を拭った。これで泣くのは最後だろう。


 静寂の中、美月はそっと櫃から出た。

 身に纏う物は白い浴衣だけ。髪は下ろしてある。

 風に髪を煽られると、体の心が凍り付きそうなほどれ寒気が走り、体が震えた。

 山の空気は冷たく、ねっとり湿ってまとわりつく。


 美月はざわめく大樹の下まで歩いた。


 浴衣を脱ぐ。

 滑り落ちた浴衣の下の肌は、女達によって磨かれていたが、やはり浅黒い。わずかに杏寿の香油の香りがした。杏寿の代わりだからと、女達は安寿が愛用している香油を美月の体に塗ったのだ。

 腰までの長い髪を裸身にからめ、洞窟の前に進む。


 奥からは未だかつて経験したことがないような臭いが漂っていた。

 甘酸っぱい死のような腐臭。

 さらに聞こえてくる気味の悪い唸り声が全身を恐怖で締め付ける。


 耐えきれず、美月はその場に伏して懇願した。


「お願いです。早く私を食べてください。そして村人達を殺さないでください。私はどうなってもいいんです。でも、村の人達に危害を加えないでください。村の仲間達を救ってください。そして……」


 喉の奥で呟く。


「あの人を、殺さないで」


 しめ縄の奥で何かが吠えた。






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