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笛を吹きやめると、かささっと音がして、風牙が姿を見せた。
「風牙様」
白い姿が安堵の表情で近寄ってくるのを見、美月は息を飲んで顔を背けたが、不自然だと気がつき、笛を置いて微笑んだ。
だが、もたなかった。
風牙が傍らに身を置き、優しく擦り寄ると、ついに美月の中で膨らみ切っていたものが弾け飛んだ。
「風牙様。風牙様……」
美月は顔をくしゃっと歪め、ぽろぽろと涙をこぼした。始めはうつむいて口を覆い、精一杯我慢していたのだが、風牙がさらに身を寄せ、深紅の瞳で優しく見つめると、堪え切れなくなった。
「風牙、様、なん、なんで、私を食べ、食べてくれないんですか?」
白い体にしがみつき、むせび泣きながら、美月は言った。
「わ、私、もうだめです。みんなを、みんなを憎むなんて。みんなを殺したいと思うなんて!お願いです。みんなを怨む、これ以上憎んでしまう前に、私、私を殺して!」
言ってしまうと力が抜けた。美月はその場に崩れ、絶叫して、すすり泣いた。
心の中のすべてが破裂して、何を言っていたのか理解できなかった。ただ、無性に悲しかった。色々なものが悲しかった。
このまま死んでしまいたい、粉々に砕けて散って消えてしまいたいと、真剣に思った。
そのとき、風牙が今までに聞いたことのない音を発した。
はっとして、美月は顔を上げ、凍りついた。
風牙の目が爛々と燃えている。風牙を覆う空気が熱を持って、揺らぐ。
怒気だと理解するのに時間はかからなかった。
美月は恐怖した。風牙がこれほど激怒した姿を見るのは初めてだった。
なぜ、こんなに怒っているのだろう?
まさか……。
「風牙様、私の心を、見たんですか?」
尋ねると、風牙は美月に光る目を向けて頷いた。美月は身を離し、羞恥に頬を染めた。
「浅ましい、憎しみでいっぱいの心を? だからこんな私に触れられたことをお怒りになっていらっしゃるのですか?」
何を言っているのだと言いたげに、風牙はシャッと息を吐いた。
熱い、火がつくと思うくらい熱い息。
美月は、こみ上げる恐怖と必死で戦いながらさらに尋ねた。
「それでは、私が、私が風牙様の術で見た光景を、ですか?」
今度は頷いた。体から発している熱がさらに強くなる。真夏の太陽のような熱気だ。
美月は愕然とし、自分が引き起こしてしまったことに恐怖した。
なんということ!
これでは婆様の時と同じではないか!
風牙が本気になったら、村はひとたまりもないだろう。あの祭りの風景も、みんなの笑顔も、一瞬で消えてしまうだろう。
昔、親を亡くして泣いていた自分を優しく育ててくれた村人達、暖かい家。
どんなに酷いことを言われてもそれだけは変わらない。
そして、どんなに蔑まれたとしても、村を愛する気持ちも変わらない。
「だめです!」
美月は風牙に抱きついた。
怒気で焼けていた息で、たちまち手が焼ける。服から煙が上がり、熱と痛みに悲鳴をあげると、風牙は驚いて怒りを鎮めた。長い髪の端っこがちりちりになり、あちこち火傷した美月を見る。
始め、風牙は慌てた顔をしたが、すぐに少しだけ大きくなり、美月をくわえて滝の水に飛び込んだ。流れの少ない場所に落ち着く。風牙の発した熱で、水はぬるくなった。
風牙はそこで美月を放すと、冷たい水が入らないように流れにふさがった。
美月は風牙越しに手を冷水につけ、痛みに顔をしかめながら溜め息をついた。
「お願いです。村の人達をを罰しないでください。お願いします」
懇願すると、風牙はびっくりしたように目を大きくした。そして首を振る。怒りと不満を混ぜた音を口から漏らす風牙に額を押し当て、美月はさらに懇願した。
「みんな、私の大事な人達です。私、みんなを愛しています。きっと、みんなもそう。あれは、本気じゃないんです。必要悪なんです。ただ、私を憎むしか、私を悪者にするしか、私を生贄にしたという辛い記憶を消す手段がなくて、それで……」
美月の目から涙が落ちた。
「私は大丈夫です。風牙様と青丸様がいてくれますから。私は、だいじょ、う、ぶで……」
言葉は最後まで続かなかった。何もかもが悲しくて、涙が溢れてたまらない。
自分を生贄にした罪悪感から逃れられない村人達の心も、忌み嫌われてもなお村人を慕う自分の心も。
そんな自分を心配してくれる風牙の優しさも。
悲しくて悲しくて、泣くしかできなくて、肩を震わせながら、美月は泣いた。風牙にすがり、ただただ泣きじゃくった。
それでも心は苦しくて、大きな圧力が胸の下からせり上がってきて、辛い。
「風牙。ここにいたのか」
と、背後から青丸の声が聞こえた。
美月は振り向いた。
青丸は笑って手を振り、近づいてきた。
何度も安心させられた笑みを見て、美月の涙はさらに湧いてきた。慌てて風牙にしがみつき、顔を隠すが、止まらない。
「美月?」
美月が懸命に涙を隠すのを見て、青丸の声の調子が変わった。
ゆっくり近づき、風牙と目を合わせ頷いてから、美月に触れる。
軽く衝撃が走り、頭の中をいろいろに風景が駆け巡って、美月は身を竦めた。
顔を上げる。
そこで美月は青丸の顔が驚愕から怒りに変わるのを見た。髪が逆立ち、目が青くなり、鬼の形相になるのも。
青丸が自分のために怒りを感じてくれた。
なぜか、美月の心は温かく和んだ。心の底から、青丸を愛していると感じた。心の中心部にあった闇は、彼がくれた光に溶かされた。
青丸も風牙も、なんと暖かいんだろう。
自分も彼らに暖かさを分けられるようになりたい、そう思う。
いつの間にか、風牙は姿を消していた。
美月は青丸の手をそっと握った。微笑んで、首を振る。
それで青丸は我に返った。いつもの姿に戻り、じっと美月を見る。
おもむろに、青丸は美月を引き寄せ、抱きしめた。
「俺は、俺はお前に、死よりも酷い運命を与えてしまったか?」
美月は首を振った。
この言葉だけで、胸を潰しかけていた力が消えた。充分癒された。
青丸の言葉に含まれた暖かさが胸に染み込む。
たまらなくなって、美月は青丸に抱きつき、首を振りながら泣きじゃくった。
青丸は優しかった。
薄い羽を手のひらで包むように優しく抱きしめ、口づけて、また抱いた。何度も何度も口づけて、涙と痛みを取り去っていく。その口づけが深くなり、息が苦しいほど喰らわれた。
美月は拒まなかった。
青丸が自分に何をしようとしているのかわかって怖かったが、逃げなかった。恐れよりも、幸せのほうが多かったから。
そして美月は、感情の波に身を任せ、目を閉じた。




