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4-3

 滝の音が聞こえてきた。

 美月は温泉へは行かず、滝のほうに行った。

 川原でつまずき、転ぶ。


 座ったまま、散らかった荷物を拾い集めていると、笛が目にとまった。

 美月は笛を見つめた。それから手に取り、口元まで持っていったが、吹けなかった。息を入れようとして、手が震える。


 言葉で表せないできない激情に突かれて、美月は笛を叩きつけようとした。


 できなかった。


 笛を胸元で抱き、何回か深呼吸をして、もう一度、笛を口元に寄せる。

 震えながら、美月は笛を吹いた。

 吹いているうちに心が落ち着き、見えなかったものが見えてきた気がした。


「あのときと、同じ」


 呟くと同時に、幼い日の記憶が蘇る。 



***



 あれは美月がまだ五つを越えたばかりの春のことだった。


 そのときは冬が長かった。冷たい風がいつまでも残り、種も縮こまって芽を出さず、家畜達も小屋の隅に固まって震えていた。

 村人達も身を寄せ合い、暖かい日差しを待ちながら薄い粥をすすって過ごした。

 足先が凍り、霜焼けが痛かったのを今も鮮明に憶えている。


 そんな中、一人だけ、みんなと一緒にいない者があった。

 村の外れに住んでいる、小さな婆様だ。


 婆様は村一番の物知りで、占いなどもして、みんなから慕われていた。ただ頑固で、自分がこうと決めたことは絶対に変えない。

 この寒さでは一人じゃ耐えられない、と忠告する村人達を無視して、婆様は一人、小屋にこもっていた。占いをするためと言っていたから、誰も逆らえなかった。食事は一日に二度、順番で運んだ。美月も両親と共に運んだことがあった。


「どうして来ないの?みんな待ってるよ」


 尋ねると、婆様はほとんど歯のなくなった口をいっぱい開けて笑い、答えた。


「山が寂しがるでな。春を一緒に待たねばならんのさ」


 美月には婆様の言うことがまったくわからなかったが、それが何か大事なのはわかった。

 それからまた凍える日が十日も続いただろうか。ついに風が止み、空気が暖まってきた。

 春が来たのだ。


 村人達は大喜びで外に出た。老人も子供も、躍り上がって笑った。祭りでもないのに、手をつないでくるくると回り、唄い踊った。


 そしてみんなが疲れた頃、美月が言った。


「婆様を呼びに行こうよ!」


 言われるまで婆様のことを忘れていた村人達は、ちょっと照れたように顔を見合わせてから、そうだそうだと言いつつ婆様の家に向かった。久しぶりに村人達の顔が輝いていた。


 しかし、婆様は死んでいた。


 部屋の隅で、丸まって死んでいた婆様。

 美月には婆様が石になってしまったかのように思えた。

 びっくりして、皆、声も出ない。

 周りには占いの道具が散乱していて、婆様が何かやっていて命を落としたのがわかった。


「婆様が春を呼んでくれたんだな」


 美月の父親が言った。

 それでようやく、美月にも婆様の死を飲み込めた。美月は声をあげて泣いた。他の子供達、女達も同じだった。誰もが皆、婆様の死を悼み、悲しんだ。


 葬式はその日の内に終わった。

 村外れの墓地に婆様を埋め、旅立ちを祈った。

 美月は最後に見た婆様の笑顔が忘れられなかった。涙があとからあとから湧いてきた。母親にしがみついて泣いた。


「婆様、山が寂しがるから春を一緒に待つんだって言ったんだよ」


 泣きじゃくりつつ、呟いた。

 と、大人達がざわめいた。

 長老と村長が走ってきて、美月の肩をつかみ、大声で言った。


「今、なんと言ったんじゃ?」


 美月は驚いたが、涙と鼻水をすすりながらさっきと同じことを言った。

 再び、大人達が顔を見合わせてどよめく。

 誰かが言った。


「この寒さは婆様のせいだったんでねか?」


 みんなの目が声の主に集中した。

 主は婆様の一番近くに住んでいる茂蔵だった。茂蔵は禿げた頭を神経質っぽく掻きつつ、続けた。


「だってよ、おかしくないか? 何で婆様は山が寂しいなんて言ったんだ? 山には冬の主が来るんじゃろ?」

「そだな。それなら寂しくはないな」

「主と通じていたのかもしれないぞ」

「ありえるな。あの占い道具が怪しいべ」

「そだそだ」


 いつの間にか、婆様を非難する声が辺りを埋め尽くしていた。


 大人達の激しさに、美月は怯えた。事の発端を作ったのが自分の言葉だと美月は気がついていた。恐ろしいことをしてしまった。震えが全身を包む。


「よく話してくれたな、美月、ありがとう」


 それなのに、村長は優しい笑顔で美月を抱きしめ、言った。

 美月はさらに怖くなり、村長を突き飛ばして逃げた。

 村長は美月が照れているのだと受け取り、両親に笑顔を見せた。


 両親はすぐに美月の後を追った。

 美月は村の真ん中の広場で、膝を抱えて震えていた。母親が抱きしめると、美月は胸に顔を押しつけ、しがみついた。


「あたし、婆様を、殺しちゃった……」


 両親は言葉の意味を理解してくれた。父親が被さるようにして力一杯二人を抱いた。


「美月のせいじゃないわ」


 母親が髪を梳きながら言った。


「人間は弱い。憶えておきなさい。人間は暴走すると化け物よりも惨いことをする。それを狂気と言うんだ」


 父親は抱きしめる腕に力を込め、二人にしか聞こえない声で囁いた。 


「お前はそうなるな、美月。おとうにもおかあにも、みんなを止めることはできない。逆に仲間にならなかったと言って、酷いことをされるだろう。それが狂気だ。今はわからなくても、いつか、わかる。その日まで、憶えておきなさい、美月」



***


 

 今日がその日だったんだ、と滝の音を聞きながら美月は思った。


 あの後、婆様の家は燃やされ、死体は掘り返されて山に捨てられた。持ち物もすべて一緒に捨てられたと聞く。


 今の自分も同じだ、そう思った。今、美月がまとっている着物は捨てられていた物だったのを思い出す。自分は不浄の者、と皆に捨てられたのだ。


 そのとき、なぜ村人達が自分を冷たく言うのかも、少しわかった。


 よくよく考えてみると、村人達の笑いが引きつってたような気がする。様子もどこかおかしかった。楽しげな表情には、どこか追い詰められている者特有の影があったし、言葉にも仕草にも、苛立っているような刺々しさがあったように思う。


 自分勝手な思い込みなのだろうが、それでも自分を納得させられる考えができた。

 あの場でよく観察できていたら、こんなに心が痛むこともなかったのかもしれない。

 だが、信じていた村人達の会話が、美月から余裕を奪っていた。


 何も考えられなくて、青丸にすがった。

 これ以上惨めになりたくなかった。

 辛くて、悲しくて、苦しかった。

 生贄の身代わりになると決め、風牙に会うまでの恐怖よりずっと、恐ろしかった。


 婆様のことを想う。


 婆様はあのとき、空から皆の騒ぎを見て、なんと思ったんだろう。

 悲しかっただろうか?

 怒りに身を震わせたであろうか?


 急に、力が抜けた。


 きっとどちらでもない、そう理解したから。


 あの後、誰も婆様のことを言わなくなったが、皆はよりいっそう絆を深めた。共通の暗い想いを持つことで、その直前の辛い記憶を消し去っているかのようだった。


「必要悪って言うんやで」


 ある日、にやりと笑いながら茂蔵が美月に漏らしたのを思い出す。

 そのときはまったくわからなかったが、どう言うわけか、両親に聞けなかった。

 聞くのが怖かった。

 婆様に直接何かをしてはいないが、同じように酷いことをしたのはわかっていたから。

 婆様を殺した仲間だったから。

 婆様はこんな自分達を悪い子供を見るように見、笑って逝ったのではないか、と思う。


 だから、自分も同じでいいと思った。

 自分は皆が幸せでいられるように杏寿と代わったのだから。今更、村人達に色々な感情を持つのはおかしいんだろう。それに風牙が自分を食べていたら、何を言われようとわからなかったはずだ。


 しかし、心の中心部では違うもの、自分ではどうしようもない暗い感情が溢れ出し、煮えたぎっていた。


 怒り、憎しみ、怨み。

 皆を救うために生贄になってやったのにという、自分を台座に上げた傲慢な考え方。


 美月はこれらすべてが自分の中にあるのを否定したかった。だが、否定すればするほど、それらは大きく育ち、美月を自己嫌悪の沼に突き落とした。

 際限なく沈む底なし沼のようだ。はまったら、もう二度と抜けられない、暗く深い闇のような泥沼。

 死ぬまでずっと、この気持ちを抱え込んでいかなければならないのだろうか?

 美月は自分がべったりとした汚泥で塗り潰されたように思えてならなかった。


 こんな醜く歪んだまま、どうやって青丸や風牙と接すればいいのだろう?

 わからない。

 わからないことが辛くて、壊れてしまいたくなる。


 笛を吹きやめると、かささっと音がして、風牙が姿を見せた。







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