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美月の気は重かった。
緩めると座り込んでしまいそうな体を引きずり、山道を歩く。
今の美月には、青丸と風牙に胸の内を気づかれぬよう、少し遠くに行く必要があった。二人の好意を裏切らないために、離れていなければならなかったのだ。
そうでなければ、無様な姿を曝してしまいそうだった。
「どうして見たいなんて思ったんだろう?」
こみ上げてくる涙を懸命に堪え、それでも頬を伝うのを拭きながら、獣道を進む。
呟くと、胸で固まりかけた感情が鋭く尖り、しくしく痛んで辛くなった。頭の芯が白くぼんやりして何も考えられず、目眩がする。
***
村の様子は、美月がずっと焦がれていたものとはまるで違った。
風牙達に術をかけられると、急に何も見えなくなったので、驚いて目を閉じた気がする。
それからふいに眩しくなって、目を開けたとき、そこはもう村の入口であった。
懐かしさと嬉しさにはやる気持ちを押さえ、それでも急いで駆け込むと、村は祭りの前日で、準備の真最中だった。
村の真ん中の広場に行くと、懐かしい顔ぶれがやぐらを作っていた。その側では、女衆が飾りをつけていて、子供達も遊んでいる。
胸がいっぱいになり、思わず近寄ったが、彼らには美月が見えないようだった。
少し物足りなかったが、美月は風牙に感謝をした。
見えていたらさぞ厄介なことになったろう。大騒ぎになるかもしれない。
美月は「よく帰ってきた」と喜ぶ村人達にもみくちゃにされながらも笑っている自分を想像し、おかしくなった。
くすくす笑いながら、あちこちに顔を出し、作業の様子を見る。
橙次や杏寿、村長の姿も見え、美月の心は弾んだ。懐かしさで満たされ、涙が浮かぶ。
ここでいきなり、青丸の顔が頭に浮かんだ。
頭の中の青丸は頭を斜めにし、気をつけろよと言って、心配そうに笑っている。
そんな心配がものすごく嬉しい、と思ったのを認め、美月は顔を赤らめた。鼓動が速くなる。
青丸をこんなにも好きだと感じるたび、全身が火照る。
それがたまらなく心地よいことを知ったのは最近だった。それまでは病気になったかと訝しんでいたのだ。
そのうち心が落ち着いて、村人達の会話が耳に入ってくるようになった。
“いやあ、今年はいい天気だなあ”
“まったく。祭り日和だ”
本当ね、と美月は心で呟き、微笑んだ。
できれば自分もみんなの輪の中に入り、笛を吹きたい、そう思う。
“だけど、去年は大変だったな”
去年、の単語が出ると、いきなり村人達に殺気が走った。
手が止まり、そして沈黙。
気まずいと言うには陰気すぎる空気が場を覆い、満たした。去年と口走った者に厳しい目が行く。
“まあ、厄介者を体よく払えてよかったってことで、いいんじゃないか?”
誰かが言った。それで場が和んだ。みな、笑いながら作業を再開した。
“しかし本当によかったよな。可愛い杏寿が犠牲にならなくて”
“まったくだあ。杏寿がいなくなったら、村の損失だぜ”
“アレが生贄でよかったよ”
“そういや、今年は生贄を求められなかったな。ひょっとすると、アレを喰った山神は、あんまり不味かったんで腹でも下して苦しんで、二度と人間の娘なんか喰わんと思ったんじゃねえか?”
“違いねえ”
げらげら笑う。
アレが自分のことだと理解するのにしばらく時間がかかった。
美月は愕然とし、立ち尽くした。言葉一つ一つにえぐられる思いで、ただ見つめている。
“橙次もそう思うだろう?”
橙次の名に、耳が反応した。
目で探す。橙次はやぐらを組む仲間にいて、話を振られると思わなかったのか顔をしかめていたが、すぐに苦笑いした。
“まあな。アレ、俺に色目使ったんだぜ。いなくなって安心したさ。顔と相談しろと何回言ってやろうと思ったかわからんが、とりあえず生娘だったし、味見くらいいいかと思ったときもあったんだがな。ま、本気になられたら迷惑だし、そもそも怖いからしなかったが”
“悪趣味だなあ。くわばらくわばら”
“やだ、そんなことしたの?”
“んじゃ、生贄になったのだって、村に恩を売ったつもりなのよ、きっと。身の程知らずもいいところよね”
“ちょっと笛がうまいからって調子に乗ってるのよ。自分が一番と思ってたんじゃない?第一、杏寿の身代わりなんてずうずうしい。ね、杏寿?”
“そうね”
いつの間にか、杏寿が側に来ていた。
作ったばかりの花飾りを手に笑っている。女衆に囲まれている杏寿の腹は膨れていて、子を宿しているのがわかった。
“父様が連れてきたから仕方なく優しくしてあげてたのに、いつの間にか馴れ馴れしくなって困ったわ。いろいろ役に立つから使ってあげてたのに。それを私と張り合おうなんて。身の程知らずもいいところよ”
子供達が走ってきた。
“アレってなーに?”
“アレってなーに?”
“これ!口に出すんじゃありません!心が汚れるでしょ!”
後からついてきた女が子供を叩く。
子供達は泣き声をあげ、また走っていった。
その後ろから村長がやってきた。
村長は作業の進み具合を見て回り、会話を聞いて顔をしかめたが、やはりみんなと同じようににやりと嗤った。
“まあ、こんなときのために飼ってやっていたのだからな。利用できるものは利用したということだ”
美月は声に出さずに叫んだ。
全身に力が入らなくなって、へたり込んでしまいそうになる。
そんな、なんで、みんな、どうして……?
私の笛の音が好きだって言った武吉おじさん。
薬を喜んでくれた菊おばさん。
一緒に野山を走り回った幼馴染たち。
病気の時にそばにいてねと手を握った杏寿。
抱きしめて守ってくれた橙次さん。
娘のようにかわいがってくれた村長。
私を山に置いていった、村の人たち。
ずっとずっと、笑いあって生きていくのだと思っていた、優しい人たち。
なのに、なんで、なんで………?
白くなった頭の中に、ふっと青丸の笑顔が浮かんだ。先ほど浮かんだのとは違う、柔らかく、包み込んでくれるような笑顔だった。
美月はそれにすがりついた。
「青丸様、助けて、青丸様!」
正気を保つために必死で、青丸の笑顔に手を伸ばし、何度も名を呼んだ。
自分の中に沸いて膨れ上がる大きな感情に塗りつぶされてしまいそうで、怖くて怖くて、青丸の存在に縋りつきたかった。
すると急に引っ張られるような感覚があり、気がつくと自分を呼ぶ声と、風牙の顔があったのである。




