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そして、さらに半年。
青丸と風牙、そして美月が出会って、ちょうど一年が経った。
風牙は冬眠の準備を始め、普段の二倍以上食べるようになったので、太ってきた。
そんな風牙を見、青丸はげらげら笑いながら“ノヅチにでもなるつもりか?”などとからかって、飛びかかってくる巨体相手に格闘していた。
それを眺め、美月は笑う。
すっかり定着した光景だ。
青丸はまだ旅に出ていなかった。
旅に出るよう荷を作っては、悩んで解き、解いては作りを繰り返し、そうしているうちに再び祭りの季節になってしまったのである。
風牙が冬眠に入ってしまったら、美月を守るためにまた春まで旅に出られない、そう思うと複雑な気持ちになった。
頭ではよくない、早く旅に出なくてはと思うのに、心は喜んでいる。
二つの間に挟まれて、時折、大声でわめきながら何かを壊したい衝動が湧いた。もちろん、風牙の領域を荒らす気はないし、美月が怯えるので実行はしないが。
美月は一人で笛を吹くことが多くなった。
風が涼しくなり、葉が赤くなるにつれ、祭りのことを思い出すのだろう。大樹の根に座り、目を閉じて、明るい囃子や、静かな子守歌を吹いている。そして合間に時々、幹に寄り掛かって空を見ている。
そんなときは青丸も風牙も近寄らないようにしていた。二人の姿を目にすると、美月が気を遣ってしまうのを知っていたからだ。
ただ、美月が何時間も時を忘れて惚けているときだけは、迎えに行くようにしていた。
『たまに泣いているときがあるからな』
一度、風牙が青丸に言った言葉だ。
美月が村を想って一人で泣いているのを、二人は知っていた。秋が深まり、祭りが近づくにつれ、村が恋しくなったのだろう。祭りのときはいつも笛を吹いていたと聞く。美月の囃子の笛は祭りに不可欠だったと。
生贄としてここに来て、間もなく一年。
美月にも考えるところがあるのだろうと、青丸も風牙も気にしないようにしていたが、心配はしていた。
『何とかできるものならと思うが…』
悲しげに響く笛の音を聞くと、たまに風牙が口に出す。
そのつど、青丸は顔をしかめ、言った。
「知ってるだろ?俺らには何もできない」
『それはそうだが…』
「それに今更、生贄の娘が戻ってきたらどうなると思う?村八分程度ですめばいいが、山神の子を身籠もって帰ってきたと思われるかもしれん。下手すると殺されるぞ」
『人間とはそのようなものなのか?』
「ほとんど、な」
溜息が入る。
「俺は人間の姿を取ることで、多くを見てきた。時に人間は化け物よりずっと無残なことをする。化け物の俺が思わず目を覆うようなことを、人間は平気でやってのける。人間は一人では何もできないし無力だが、集団になると何をするか分からない恐ろしさがあるからな。お前も知ってるだろう?」
『無論だ。おかげで幾度も酷い目に遭っておる』
「俺は美月をそんな目に遭わせたくない」
『我もだ』
「よかったよ。お前が同じ考えで」
二人は顔を見合わせて笑ったが、共通の考えは口に出さなかった。
一年前、美月を喰ってしまえばよかったのだろうかという疑問。
あのとき風牙を止めず、やりたいようにさせてやったほうがよかったのだろうか、と青丸は悩み、面倒なことになる予感はあったのに何もしなかった、と風牙は悔やんだ。
だがどちらも、今すぐに美月を殺してしまおうと思わなかった。それが一番良い解決だとは思えなかったし、またそれ以上に、美月を失いたくなかったのだ。
そしてどちらも美月を好きだという事実を知り、顔を見合わせて笑った。ここのところよく見る場面だった。
そんなある日、風牙が言った。
『美月に村の様子を見せてはどうだろう?』
青丸は夕べ食べた鹿の皮を切り裂いているところだったが、手を止めて風牙を見た。風牙は音もなく青丸の傍らに来て、きらきら光る双眸を向けている。
『青丸と我、両者の妖力を合わせれば、ただの人間にも遠見の術を使わせてやることは可能だろう。いい考えだと我ながら思うが、どう思う?』
「そうか?かえって悲しませるかもしれないぞ。自分はただ見てるだけの存在だ。美月はそれでもいいと言うだろうか?」
『……、そうだな』
反論すると、風牙は落胆したようだ。しおしおと洞窟の奥に引き上げていく。
青丸は少し悩んだが、立ち上がって三歩で風牙を捕まえた。
「でも悪くはないと思うぜ。協力するよ。行こう」
風牙は嬉しげに青丸に巻きついた。
「村の様子を…、ですか?」
大樹の根元で空を見ている美月の元に行き、事情を話すと、美月は喜びと困惑の混じった表情で二人を見つめた。
「ああ」
青丸は美月の傍らに座り、風牙を巻きつけたまま頷いた。
「嫌ならいいんだがな。風牙がさ、美月の悲しい顔を見たくないんだそうだ」
この直後、青丸は風牙に首を絞められた。
美月は悩んだ。うつむいて、膝に置いた手を震わせながら、じっと考え込んでいる。
気にはなったが、放っておくと、やがて美月は顔を上げ、頬を赤く染めて二人に目を向け、微笑んだ。
「嬉しいです」
青丸とは風牙は同時に大きく息を吐いた。吐き終わってから互いに緊張していたのに気づき、笑い転げる。
「じゃあ、見てみるか?」
「はい。お願いします」
二人を見、美月もくすくす笑った。
それから、風牙と青丸は美月に術をかけた。
美月の目の焦点がずれ、黒い目が開く。
呪を唱え終え、少し経ってから、青丸は美月の目を閉じさせた。大きく一息ついてから、美月を抱き、膝に乗せる。
風牙は美月の膝に乗り、ゆったりと体に巻きついていたが、青丸の呼気を肌に感じ、深紅の目をきらめかせて首を上げた。
『息があがっておるぞ。疲れたのか?』
「あ、いや。大丈夫だ。慣れない術を使ったんでな」
『そうか。では少し休んでおれ。後は我が見ていてやろう』
「すまん」
それっきり、青丸は口を閉ざした。
複雑な気持ちだった。
美月が村を見たいと言ったとき、なぜか、ひどくがっかりしたのだ。
落胆の成分が一般に期待外れという感情だと知覚したとき、何を馬鹿なことをと青丸は自分に言い、嗤った。
美月には美月の想いがある。生きている間に作りあげた感情がある。
半年前、傷口を舐め合ったという思い出だけを使って、美月を測ってはいけない。
わかってはいたが、自分の中の、認めたくない部類の苛々が、感情の野を走り回るのは止められなかった。
青丸は自分に嫌気がさして、大きくまた溜め息を吐いた。
しばらくして、美月は帰ってきた。
「美月?」
声をかけると、美月は薄く目を開けた。そして急に身を竦め、びくびく怯えたと思うと、風牙に気づいて力を抜く。
そして風牙の深紅の目に自分を映し、おもむろに青丸にしがみついた。
何回か大きく息を吐く。
「なにかあったのか?」
戸惑った青丸が声をかける。
美月ははっと顔を上げた。それから慌てて身を離し、安心したのかにっこり笑った。
「久しぶりの村はよかったか?」
つられて微笑みながら、青丸は尋ねた。
美月は頷き、自分に巻きついて覗いている風牙に抱きついた。はあっと、音が聞こえるほど大きく溜め息を吐く。
「少し、疲れたみたいです。お湯をいただいて参ります」
「ついていってやろうか?」
「ありがとうございます。でも大丈夫です。一人で行けますから」
言いながら、美月は立ち上がろうとした。
だが風牙の重さで立てず、困って青丸を見上げる。笑いながら、青丸は風牙を右手でつかんで解いてやった。だが紐のように投げられた風牙は不満そうだ。牙を剥き、威嚇音をあげて青丸に詰め寄ってくる。
「おいおい」
『我を何だと思っておる。愚弄するとお主でも許さぬぞ』
「わかったよ。こら、かじるな!いでいでいででででっ!俺が悪かったってばさ」
『わかればよい』
「まったく、冗談の通じない蛇だぜ」
じゃれながら、二人はいつもこの辺りで入る美月の笑い声もしくは制止する声を待ったが、今日はいつもと違った。
美月は二人のやり取りなどまるで聞こえない様子でふらりと立ち上がった。
おぼつかない足取りで洞窟に戻ると、必要な物を手にし、二人には目もくれずに山道に入っていく。
「俺は使ったことないし、誰かにかけられたこともないからよくわからんが、遠見の術ってそんなに疲れるのか?」
不思議に思って尋ねると、風牙は首を斜めにした。
『いや。我だけの妖力でかけたならともかく、今回はお主の力も借りた。人間だから気を遣ったし、さほど疲れぬはずなのだが』
「そっか。そうだよな。そんなに大した術じゃないもんなあ」
青丸も首を傾げる。
『そういえば、我に抱きついたとき、美月の様子がおかしかった』
「どんなふうに?」
『大したことじゃないのかもしれんが、何と言うか、怯えて震えているようだった』
「お前の気のせいじゃないか?」
『お主はまだ我を甘く見るのか?』
「そういう意味じゃないって」
言い合いながら、二人は美月が消えたほうに目を向けた。もやもやした気持ちの悪い感じが青丸の胸をよぎり、言い様のない何かが心に入ってきた。風牙も同じらしい。
二人は互いに顔を見合わせた。




