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「俺は、赤丸を殺したんだ」
青丸は力なく呟いた。
***
赤丸は俺の親友だった。俺達はここからはるか東にある天鵬山に住み、平和に暮らしていた。
そんなある日のこと、飢えた人間が山の麓に住み着いた。赤丸はいい奴で、俺なんかとは比べものにならないほどいい奴で、人間が来たのを心から喜んでた。友達がたくさんできたらきっと楽しい、それが奴の口癖だった。
だから赤丸は山に山菜採りに入る人間に美味しい山菜がたくさん採れるとっておきの場所を教えたり、いい水の湧く泉を教えたりしたいと言った。
俺は反対した。人間は鬼の赤丸を見て怯えていたし、疑り深くて俺らを信じないし、いい隣人とは思えなかったから。
だが、赤丸は諦めなかった。飢えているのならば何か食わせてやりたいと、不器用にも人間の食べ物をまねてこしらえて、近くに人が来るのを待っていた。
だけど人間は来なかった。赤丸の姿を見るだけで怯え、遠くから罵倒し、心を覗こうとする者は一人もなかった。
俺は……。
たまらなかった。
いつ訪れても、手作りの茶と菓子の前でしょんぼりとうなだれている奴を見るのが辛かった。何とかしてやりたかった。山に悪意がやってきたのはそんな時だった。
人間が10くらいだったか。
そいつらは山からも人からも奪い、汚れをまき散らす存在だった。奴らを殺したことは後悔していない。子供を殺そうとしていたからな。
だが、そこを赤丸に見られてしまった。人を殺したことを赤丸はとても怒った。命乞いをする人間を殺すなどと奴は言った。その目は大好きな人間を見ていたが、中身は見えなかったのかもしれない。
奴は人間を恋しがり過ぎたから、俺は赤丸の側にいられないと思った。それに、もうあんな淋しそうな赤丸は見たくなかった。ずっとずっと、幸せでいて欲しいと願った。
だから、逃げた。帰る場所を捨てたんだ。
***
青丸は口をつぐんだ。
美月はたまらなく青丸を抱き締めたい衝動に駆られた。人間の自分がそんなことするのは僭越だと理解していたし、青丸は嫌がるだろうとも思ったが、急に青丸が幼子よりも弱々しく見え、胸が痛んだのである。
***
旅に出てまず、俺は人間の姿に化ける術を学んだ。同じ姿なら人間は怪しまないし、どこへ行くにも楽だったからな。
一年経って、俺はこっそり赤丸の姿を見に行った。ちらりとでよかったんだ。人間と仲良くやって、幸せそうなあいつを見ておきたかった。だけど……。
あいつは、死んでいた。
麓から来た炭焼きに尋ねると、俺がいなくなった後、赤鬼は残された子どもたちを探しに来た人間たちと仲良くなったそうだ。そいつは赤い鬼はありがたい山の神だと手を合わせたよ。
俺はすごく嬉しかった。赤丸が望んだ幸せを手に入れたくれたことが純粋に嬉しかった。
次に美月くらいの娘に話を聞いた。娘は大粒の涙をこぼしてこう答えた。
赤鬼はとても優しい神だったが、半身のように助け合って生きていた青い鬼を自分のせいで失ったと後悔していたと。
友達に酷いことをしてしまったと、自分が見たいものしか見ずに優しさに甘えて傷つけてしまったと、ずっとずっと後悔していたと。
赤丸の優しさに打たれた者が毎日毎日庵に足を運び、慰めたが、それだけでも辛い様子だったと。
そして先月、ついに衰弱して死んだと。
娘があまり激しく泣くので、俺は泣けなかった。
代わりに鬼に戻って山を駆け登って、赤丸の墓を見つけた。
赤丸は庵の側にひっそりと埋められてた。墓碑にはつたない字で“山神であり永遠の友達・赤鬼”とあった。
俺は涙が止まらなかった。
俺が赤丸を殺してしまったんだと思った。
俺が消えてずっと、赤丸は幸せだと信じていたのに、違ったんだ。こんな俺を裏切ってしまったと思い込んで、苦しんで、泣いていたんだ。
俺はとても辛かった。辛くて、苦しくて、哀しかった。墓の前で、うずくまって何日も泣いたよ。
そしてまた旅に出た。旅に身を置き、待つ者もいない流浪の鬼になることで、自分を罰するために。
***
話が終わった。
青丸は溜め息をつき、また空を見上げた。無表情に。
美月には青丸の痛みがわかるように思えた。実際、胸がとても痛かった。
青丸のあの笑顔の中身を知って、なぜだかとても悲しかった。知ったことが悲しかったのではなく、青丸が赤丸に対して持っている負い目を否定してあげられないのが悲しくて、涙が溢れた。
「そんな、そんな悲しいことを言わないでください」
頬を再び涙が伝う。
そして美月は自分でも驚くほど大胆な行動に出た。
青丸に近づき、背後からそっと腕を回す。
広い背に額をつけると、青丸の痛みが伝わってきた。自分の中にあるものと同じ痛みだった。美月はできる限り青丸を抱きしめた。
「そんなに自分を責めないで。赤丸様は青丸様に嘆いてもらうために悲しんだのではないと思います。きっと、きっと自分を責めずにいられないほど、青丸様が好きだったんです。好きな人に好きだと伝えなかったのが辛かったんです。青丸様も赤丸様が好きだったのでしょう?」
「……」
「私も、青丸様が好きです。青丸様の暖かさが好きです」
青丸が身を強張らせるのがわかった。振り返ろうとするのを、美月はさらに強く抱きつくことで制した。頬を背に押しつける。
「俺は…、鬼だぞ」
青丸は絞り出すように呟いた。
美月は首を横に振った。頬の当たり具合で動きが青丸にわかる距離で。
「鬼だからどうだって言うんです? 人間とどこが違うんですか?」
「……」
「たしかに、鬼は怖いモノだって聞いて、ずっとそう信じてました。でも青丸様は違います。青丸様は大きな、とても大きな優しさをくれました。冬の間、私を護ってくれました」
「美月………」
「鬼だとか人間だとか、そういうのよくわからないけど、これだけはわかる。青丸様は誰にも酷いことなんかしてない。私、信じてるもの!」
美月は叫ぶように言い、泣きじゃくった。話しているうちに感情が高まって、何を言っているのか自分でもわからなくなっていたが、もうどうでもよかった。
ただ、何か言いたかった。
自分の言葉で青丸を少しでも癒せるなら、そう思った。思い上がりだと思ったが、止まらなかった。
そして気づいた。
自分は、青丸を愛していると。
十二のあのとき、橙次に感じたものと同じ火、いやより暖かで大きな炎が、いつからか胸の奥に灯っていたのだと。
「美月……」
青丸は美月の名を呟いて、手をそっとほどいた。
そうして、美月を正面から抱きしめた。優しく、包み込むように。
「すまん。しばらく、少しでいいんだ、こうしていてくれないか?」
美月は答えなかった。ただ、青丸の胸に腕を回し、何度もうなずきながら、しがみついて泣いた。




