3-2
美月は眠れなかった。
目を閉じると、村での楽しかった生活が浮かんでくるからだ。
半年が過ぎ、ここでの生活も慣れたと思っていたが、風牙が目を覚ましてから、なぜか村のことが片時も頭から離れなくなった。
たぶん、初めてここに来たときのことを思い出したからだろう、美月はそう思った。
胃の辺りがずぅんと重く感じられて、たまらなく切なくなる。
気を落ち着かせるには、起きて、笛を吹くのがいいかな。
そう思って身を起こし、笛を探していると、近くで苦しげな呻きが聞こえた。
誰だろう?
暗闇に慣れるまで待てず、目を凝らす。
やがてぼんやりと、寝返りを打つ青丸が目に入った。ひどく苦しそうに唸り、身じろぎしている。
美月は慌てて側の手拭いを取り、青丸の傍らまで這っていった。
ようやく闇に慣れた目で青丸を見る。寝汗をびっしょりかき、固く目を閉じていて、悪夢を見ているのか、とても辛そうだ。
指に髪を絡めながら、そっと汗を拭いてやると、青丸は低く呻いた。
「う…、せき…、ま…る…」
「青丸様?」
声をかけると、青丸はうっすら目を開けた。美月を見る。
「大丈夫ですか、青丸様?」
「俺は…、俺は…」
夢に浮かされているように呟く。
続いていきなり起き上がり、美月を強く抱き寄せた。
腕に指が食い込むほどの強い力で締められ、息が詰まる。爪が夜着を破り、肉を噛んだ。そのまま突き通りそうな痛みに、美月は小さく悲鳴をあげた。
それで青丸は気づいたらしい。急に腕から力が抜けた。
だが次の瞬間には、強く突き飛ばされ、地に伏していた。
痛みに顔をしかめる。見るとひじが擦り剥け、血が出て夜着を汚していた。心配するほど大した傷ではないが、ひりひり痛む。
驚いた。半年一緒にいたが、青丸がこんな顔を見せたのは初めてだったのだ。
しかししばらくすると、急に不安になった。
青丸はどうしたんだろう?
ひょっとしたら、今の彼は青丸ではなく、青い鬼なのかもしれない。
そう考えると怖くなり、美月は身を縮めて怯えた。身の危険より、青丸を見失うことに恐怖を感じた。
「すまん」
だが青丸はこう言って美月を抱いた。
ほっとした。青丸が青丸なのを実感し、心の底から安堵する。
そして二人はいつもの温泉に足を向けた。
青丸に抱えられて進む間、美月はずっと青丸の顔を見つめ、考えていた。
“せきまる”って、誰なんだろう?
聞きたかったが、聞けなかった。そこまで踏み込んではいけない、青丸に触れてはいけない、人間の分際でそこまでするのは不遜な振る舞いだ、それがわかっていたから。
しかし、気になった。
風牙が眠りについて、長い間二人で過ごしたときは、これほど青丸がうなされることなどなかった。
なにがあったのだろう?
何か心配ごとがあるのだろうか?
推測するのが悪いことだとわかっていながら、つい考えてしまう。
ふいに青丸が足を速め、そのおかげで、すぐに温泉に着いた。
美月は夜着を脱いだ。両袖に穴が開き、血が滲んでいる。青丸の爪跡だった。もし、青丸が気を向けるのが遅かったら、腕の筋肉を指が食い破っていただろう。鬼の力の凄まじさを改めて知り、背中が寒くなる。
「どうした?」
だがそれも、青丸を目にすると消えた。
青丸は美月の顔を見て微笑んだが、どういうわけかいつもと違ってすぐに目を逸らし、背を向けて座り込んでいる。美月は髪を巻き上げつつ、首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「いや。それより早く湯に入れ。寒かろう」
「でもそれでは先に湯を使ってしまうことになりますが……」
「ああ構わん。そのほうがありがたい」
「え?」
「あ、ああ、いや、なんでもない」
慌てている青丸を不思議そうに眺めた後、美月は温泉に近づいた。
桶に湯を張り、傷を洗う。ひじの擦り傷はかなり痛かったが、血は止まっていたので、すぐに治りそうだった。とりあえず化膿止めの薬草を探して貼り、押さえながら足を浸そうとして、替えの夜着も濡れた体を拭う布も持ってきていないことに気づいた。
どうしよう、としばらく悩む。
「どうした?」
動きを止めた美月に、青丸が聞いてきた。相変わらず目を逸らしている。
事情を話すと、青丸は笑った。
「なんだ、そんなことか」
直後、青丸は服を脱ぎ、歓声をあげて温泉に飛び込んだ。
飛沫を全身に浴びてしまった美月は、目をぱちぱちさせ、濡れた体を困った顔で眺めた。
「俺の服をやるから帰りに着ていけよ。体はその穴の開いた夜着で拭けばいいさ」
「はい」
美月はありがたく服を借りることにし、自分の夜着の裾を裂いて傷に巻きつけ、そっと湯に入った。
手足を伸ばすと傷が痛んだが、ゆったりくつろげて、気持ちが安らいだ。
反対に青丸はうろたえた様子で離れた。
そんな青丸にどう対処していいかわからず、美月は困ってしまった。
「すみません」
だからつい、謝ってしまう。
「なぜ、謝るんだよ?」
青丸は反発した。むっとした顔で口を尖らせる。
美月はますます困ってしまい、うつむいた。今の心境を示すいい言葉が思い浮かばなくて、悩んでしまう。
「すまん」
すると青丸も謝った。何だか不思議な感じになり、二人は思わず笑ってしまった。
「眠りを邪魔した謝罪と、礼を言わなきゃいかんな」
「そんなこと。私も眠れませんでしたので」
美月は遠くに目を向けた。
「少し、歌ってもいいですか?」
聞くと、青丸は笑って頷いた。
安心し、目を伏せて、歌い出す。
昔、母に歌ってもらった子守歌だ。
低く優しくたゆたう調べに、青丸は目を閉じた。青丸は美月の笛も歌も好きだった。美月の歌を聞いていると、鬼の自分が先ほど感じたヘンな感情を肯定しても良いかもしれないという気持ちになる。その感情を理解してもいいような、ヘンにくすぐったい思いが込み上げてくる。
やがて歌が終わり、静かになった。
青丸が目を開けると、美月は肩から上を湯から上げ、岩にもたれかかってぼうっとしていた。目に涙が浮かんでいる。
「美月?」
美月は慌てて目を拭った。
「すみません。つい……」
「村のことを思い出したか」
「…、はい。あの人のことを」
「あの人?」
美月ははっとした。
口が滑ってしまった。
一生言わないつもりだったし、忘れたと思っていたのに。
口をつぐみ、うつむく。
ちらりと目を上げると、青丸は何も聞かなかったような顔で空を見ていた。
「夜明けが近いな」
まだ暗い夜空を仰ぎつつ、それでも美月の視線の気づいて、微笑む。
そして沈黙。
「聞かないんですか?」
しばらくして沈黙に耐え切れなくなった美月が口を開いた。
「聞いて欲しいのか?」
逆に聞き返される。返答に窮して黙り込むと、上を向いたまま、青丸は言った。
「俺に聞く気があるなら、風牙が寝ているうちに機会がいくらでもあったがな。話したくないことを無理に話させるのは性に合わんし、やめていた」
「……」
「だが、話すと楽になると言うのなら聞いてやる。ただ聞くだけだ。意見を言うつもりもないし、風牙に言うつもりもない。まあ、聞かなかったことにはしないが、それでいいなら、な」
青丸は優しかった。
そのとき、美月に何もかも話して楽になりたい衝動が湧いた。葛藤が始まる。
青丸はそれきり何も言わなかった。急かすでもなく、かといって無視するわけでもない。ただ、美月が落ち着くのを待っている。
美月は長く悩み、やがて溜め息を吐いた。