3-1
半年が過ぎた。
夏が近づき、大樹の新緑が眩しい。
目を細めると、葉の隙間から入る光が優しくなる。
毎年同じだというのに、そのきらめきを見つけるたびに、美月は何度も感嘆し、溜め息を吐いた。その度、人間はおもしろいと青丸は笑う。
冬眠していた風牙は、最近になってようやく目を覚ました。
青丸と美月が冬眠前より親しくなっているのに気づいたが、当然だろうと大して気にしなかった。むしろもっと進展していてもおかしくないと訝しげに首を捻ったほどだ。
しかし、冬眠中は元の大きさに戻っていた風牙の巨大な首に、美月が嬉しげに飛びつき、すぐにとんでもないことをと言いながら離れておろおろと謝り、その横で青丸が腹を抱えて笑い転げるのを見た直後に、その考えを捨てた。二人が相変わらずでよかった、化け物らしくなく、そう思ったのである。
「傷、よくなったろ?」
青丸に言われ、風牙は初めて傷のことを思い出した。体をひねって傷があった場所を見、驚く。
『ああ。もう痛みも疼きもないな』
「だろ?美月に感謝しろよ」
「感謝なんてとんでもない。青丸様、やめてくださいませ」
「やだ」
意地悪く舌を出し、けけけと笑う。
「ここにいる美月がな、毎日毎日、吹雪の日も休まんと薬草を探し、傷に貼りつけたんだ。おまけに温泉へも足を運んでな、温泉の湯でお前の傷を拭ったおかげで、早く回復したんだぞ。力一杯感謝しろ」
『そうか。では全力で感謝せねばならんな』
風牙は深々と美月に頭を下げた。深紅の目が、嬉しそうにきらきら光っている。
美月は困ったような顔で頬を赤く染めた。両手を頬に置き、熱くなっているのに気づいてさらに赤くなる。
「わ、私、水を汲んできます」
火照った顔をしげしげ見られて、美月は急に恥ずかしくなったらしく、小走りで桶を取り、出ていった。
青丸と風牙は笑いながら見送った。
『変わらぬな』
風牙は嬉しそうだ。だが言ってから、はっと息を飲み、青丸を見た。
「だろ?」
青丸は笑っている。バツの悪そうな風牙をそれはそれは楽しげに眺めて。
「化け物らしくなくてヤバイって思ってるだろ?安心しろ、俺も思ってる」
青丸は笑いを苦笑に変え、片方の眉を動かした。
「ま、だがそれもここまでだ」
『どういうことだ?』
「そろそろ、旅に戻ろうと思っている」
風牙の目がきらりと光り、青丸を見据える。
苦い笑みの下から、青丸は大きく溜め息を吐いた。肩を竦める。
「お前の傷も癒えたし、な。お前がいれば俺が美月を守ってやる必要もないだろ?」
『それはそうだが、急だな』
「のんびりとここにいる理由もなくなったし。いい時期だと思ってさ」
『我は目覚めたばかりだというのに』
「すまん。俺の勝手だ」
また溜め息。
「しかし、決めていたんだ。お前が目覚めたら、終わりにしようと」
『流浪の鬼に戻るか?』
「そんなところだな」
言って、青丸は心からほっとしたような表情と、どこかしら寂しげな表情を同時に見せた。風牙の体に手を置き、笑いながらペシペシっと叩く。
「まあ、すぐにってわけじゃない。支度もあるしな。一月はいることになると思う」
『そうか』
「旅に出るときはお前には言っていくよ。いろいろ世話になったし」
『美月には言わぬのか?』
「言ってどうする?」
風牙は答えなかった。深紅の瞳に言葉にするより多くの感情を含め、じっと青丸を見ている。
青丸は鼻から息を吐くように笑って、肩を竦めた。
「腹が減っただろう?何か獲ってきてやるよ。待ってろな」
青丸はそう言って背を向け、外へ行った。
しばらく狩りをし、風牙の好物の熊を三頭ほど獲ったら日が落ちた。
帰ると、美月が風牙の傷を診ていた。見慣れた光景だ。
熊の臭いに気づいた風牙が嬉しげに頭を上げると、美月も青丸に気づいた。青丸は風牙を手招きし、良く肥えたほうの熊二頭を与え、残りはさばいて美月との夕食用とした。風牙が火をくれたので、美月が焚き火を作り、それを囲んで食事を取った。
冬眠明けで空腹だった風牙はあっという間に二頭の熊を飲み込んで美月を驚かせた。それを眺めて青丸は笑った。
楽しい食事だった。
だが楽しさゆえ、青丸は居心地悪いものを感じている自分に気づいた。気持ちが沈む。
「青丸様、どうかいたしましたか?」
それに気づいたのか、美月が声をかけてきた。青丸は首を振り、笑った。
「いや、大丈夫。でも、山を三つほど駆け回ったから、少し疲れたな」
「それはいけません。私、片付けますから、先にお休みくださいませ」
「ありがとう。そうする」
心配げな美月を見ていると、後ろめたい気持ちになる。
立ち上がって洞窟に戻ると、背後から生臭いゲップと声が追いかけてきた。
『長いこと生きてきたが、鬼が疲れるなど聞いたこともない』
青丸は肩を竦め、横になって岩を枕にし、目を閉じた。
うつらうつらしていると、厭な思い出が戻ってきた。
捨てたと思った、昔のことだ。
どこまでが現実で、どこまでが夢なのか、わからなかったあのとき。
二度と思い出したくない、記憶の片隅に押し込めてしまいたい、悪夢のような現実。
「赤丸……」
知らず、親友の名が口を出た。
もう二度と会えない。
自分のせいで失った大事なものへの想いがじくじくと痛んで胸を刺す。遠い過去のことだ。
青丸……。
どこかで自分を呼ぶ声がする。
うなされながら、青丸は薄く目を開けた。
誰かがいる。
柔らかな手の感触が額に当たり、次いで布の感触が来る。
「赤丸!」
青丸は飛び起き、目に映った相手を抱きしめた。確かな肉の手答えが、抱いたのは幻ではないと教えてくれた。
やっぱり、夢だったんだ。
赤丸を置いて逃げた、あいつが死んだのは夢だ。
俺があいつを捨てたのも、あいつを傷つけたのも、すべて夢なんだ。
そんな思いが瞬間、胸をよぎる。
「い……、痛っ……」
小さな悲鳴で青丸は我に返った。
相手を見る。
腕の中には、怯えて青ざめ、震えている美月がいた。
手を見ると爪先に美月の夜着が引っかかっている。そこに血がついているのを知り、青丸は思わず美月を突き放した。
そしてはっとし、慌てて美月を起こす。
「すまん。大丈夫か?」
「……、はい」
美月はひじを擦りむいていた。痛むのか、顔をしかめている。
腕に自分の手の跡が残っているのを見た青丸は、酷く自己嫌悪の念に苛まれた。目を伏せて震えている美月をできる限り優しく抱き上げ、ぎこちなくも髪を梳いてやる。
「まだ早い。眠っておけ」
それでようやく震えが止まり、美月はにっこりした。
「いえ……、眠れませんので、湯をいただいて参ります」
「馬鹿言うな。こんな夜更けにあそこまで行くのは危険だぞ」
「でも……」
口ごもる。
それで青丸は美月が傷を洗いたいのだということに気づいた。良心がちくちく痛む。
「じゃあ俺も行くか。汗かいたからな。構わんか?」
美月は驚いたように青丸を見、すぐに破顔して頷いた。心なし安堵したようにも見える。
「なんだ、ほっとして。俺と湯に浸かるのがそんなに嬉しいのか?」
「や、やだ、そんなことありません!」
「ふう~ん。じゃ、嬉しくないんだ」
「んもぅ、からかわないでくださいませ」
「はは、悪い悪い。俺が悪かったってば。そうムキになるなよ」
笑いながら、美月を抱えて山道を歩く。自分で歩くと抵抗する美月はとても可愛い。悪戯心とともにぎゅっと胸に押し付けると頬を真っ赤に染めて両手で顔を覆い、静かになった。
ふと、起伏に合わせて揺れる美月の体が前よりも柔らかなのに気づく。
前よりもふっくらと丸みを帯びて、大人の女らしくなっているのを知る。ここ半年で急に成長したようだ。確かに、青丸が獣を獲ってくるし、温泉の地熱のお陰で山の恵みが豊富だったので、村にいたときより食糧事情は格段にいい。栄養が行き渡っているのだろう。
青丸は頭を振った。意識し始めると、時折触れる柔らかな部分に気が行ってしまい、心の中の鬼が押さえられなくなるような気になる。
「どうかなさいましたか?」
意識なしで足早になってしまったので、揺れが激しくなり、美月がしがみついてきた。特に柔らかい部位が体に押し当てられて、血の気が引く。
「いや。なんでもない。少し急ぐぞ」
青丸はさらに足を速めた。




