2-5
これより少し前。
闇の中をうろついていた青丸は、激しく落ちる水の音に気づいて足を止めた。
「滝か。いいな」
滝はさほど遠くない所にあった。それにそう大きくもない。青鬼にとっては滝じゃなく、激流で収まるくらいの流れだ。
青丸はがっかりした。これくらいの流れでは、鬼の姿で飛び込んだらなくなってしまう。
つまらなくなって引き返そうとしたとき、何か鼻についた。
つんと、塩っぽい、腐ったような変な臭い。でも、どこかで嗅いだことがある。
臭いにひかれ、青丸は滝に近づいた。
滝の側に、泉のようなものがあった。
臭いはそこから来ている。泉は川とは別に湧き出ているようで、溢れた分が川に注いでいた。
よく見ると、泉からは湯気が上っている。
「温泉か」
納得した。
腕を入れてみると、人間の腕には熱すぎる温度で、青丸は顔をしかめた。鬼になり、滝側の岩をうまくよける。水の具合を調節すると、薄まっていい湯加減になった。
満足し、元に戻って衣を脱ぐと、温泉に飛び込んだ。
深くなく、浅くなく、ちょうどいい。誰かが作ったのではないかと思うくらい、都合のいい自然の造形だ。
すっかりくつろいで一息つくと、いい考えが浮かんだ。思わず笑う。
「風牙に教えてやろ」
鬼らしいふくみのある笑みだった。
そして美月を抱え、風牙を従えて、青丸は戻ってきた。
「まあ」
美月は青丸の腕の中で寒さに震えていたが、臭いで温泉に気づき、喜びの声をあげた。
『ほう』
風牙も驚いていた。今まで知らなかったらしい。人間に見つからぬよう、山奥でひっそり暮らしていたのだから、無理はない。
二人の様子を見、青丸はとても満足した。
「使うといい。俺はもうすんだ」
そっと美月を下ろす。いろいろと手間がかかったことは言わなかった。自慢にもなりゃしないと思ったからだ。
まあ風牙にはわかったらしい。笑うように舌をちろりと出す。
『すまんな』
「そう思うなら、後で倍にして返せ」
『よかろう』
「冗談だよ」
青丸はけらけら笑った。
しかし風牙も美月もなかなか入ろうとしなかった。風牙の理由はわかる。
「小さくなれよ。そうすりゃ入れるだろ?」
もっともな提案をすると、風牙は不機嫌にしっぽを振った。青丸が言葉に“山神ならその程度の妖力は使えるだろ?”と含ませたのが、気に入らなかったのだろう。もっとも、美月にはわからなかったが。
「たぶん傷に効くぞ。痛むだろうが」
『それくらい、わかっておる』
「じゃ、早くやれば?」
『うむ。矢傷のせいで、身を変化させる術は使っておらなかったゆえ、衰えておるやもしれんな……』
言いながら、縮んでいく。
美月の目の前で、風牙は青丸の背丈ほどの大蛇へと変化した。それでも充分に大きい。知らずに山で出会ったら、思わず悲鳴をあげたくなる大きさだ。
風牙は驚いている美月の傍らに行き、そっと擦り寄った。青丸もにっこりする。
「じゃあ、先に入ってな」
言いながら、青丸は風牙のしっぽをつかんだ。美月の前でずるずると引きずられ、風牙は不満そうだ。鎌首を上げ、シュウと唸る。
構わず、青丸は風牙をブン投げた。
ザバーン!
大きな音がし、川から飛沫が上がる。
「あ、すまん、間違えた」
嘘だ。
青丸は大笑いしつつ、冷たさで硬直している風牙を拾った。左手で取り、右手で温泉に沈める。
熱が回って意識が戻ると、今度こそ風牙は怒った。目を爛々と燃やし、飛びかかる。
「悪かったって言ってるだろう。うわっ!」
ドボーン!
飛沫が上がり、青丸は温泉に落ちた。頭を底にぶつけ、ボコボコ言いながら浮いてくる。
「な、なんてことするんだ!このバカ蛇!」
『馬鹿はお主のほうじゃ。戯れもたいがいにせい!』
「頭に来てるのは好いた女の前でいい格好しようとしたからだぞ」
『ええいうるさい!』
「こら、巻きつくな!沈む!うわわっ!」
美月は驚いたまま、二人を眺めていたが、やがてくすくす笑い出した。
それに気づき、青丸達はじゃれるのをやめた。湯が半分なくなったひどい状態の岩場に目をやり、溜め息。それから仕方ないなあという目で互いを見、和解する。
「さ、次はそっち。氷みたいに冷たかったからな。可哀相に、寒かっただろう?」
青丸は美月に手を差し伸べた。こっちにおいでという意味だ。
しかし美月は動かなかった。困った顔で、青丸を見る。
「どうした?どこか痛むのか?」
おかしな様子に気づいた青丸が尋ねると、美月はさらに困った顔で首を振った。そして小声で言う。
「お湯が……」
「は?」
「私が入ったら、お湯が汚れてしまいますから……」
言われて初めて、青丸は美月の酷い姿を思い出した。
髪の毛も着物も、剥き出しの足にまで、赤黒く生臭い風牙の血膿がこびりついている。
青丸は自分の衣を眺めた。確かに美月を抱いた辺りが汚れていた。それを洗わせるために連れてきたんだった。
鬼と化け物はそんなことは気にしないがと言いかけたが、やめた。
こっちが気にしなくても、美月は気にするのだろう。自分が入る湯が汚れるのが嫌なのかもしれない。
バカな。ちらりと思った直後、青丸はそれを否定した。
この娘は多分、風牙の湯治の湯を汚すなどしてはいけないと思っているのだろう。そうに違いない。買い被りかもしれないが、その程度の娘でなければ風牙が気に入るはずはない。
「少し待ってな。桶を作ってやろう。先に体と衣を洗うと良い」
湯から上がり、言うと、美月はまだ同じ表情をしていた。
青丸はその肩を軽く叩いた。氷のような冷たさに驚く。一瞬、風牙のように温泉に放り投げてやりたい気分になったが、娘相手には乱暴だと思い直した。
美月を見る。美月も驚いた様子だったが、青丸が笑うと微笑んだ。
「すみません」
「気にするな。お前は風牙の客。風牙の客は俺の客でもある。気にかけるのは当然だ」
「風牙様の?私が?」
美月は硬直した。戸惑っているようだ。気になりはしたが、構わないことにした。
手頃そうな木を探す。
幸い、手近にいい木があった。幹は今の風牙の胴回りくらい、枝は青丸の足回りくらいの椎。これなら美月が使える桶ができそうだ。
鬼の姿に戻り、腕を突き出した。
それだけで、木はあっさり倒れた。案外もろいかな、と心配になったがとりあえず叩き切る。
大きいのと小さいのと一つずつ、使い勝手がよさそうな大きさを作ると、残りは叩き割って薪にした。大量にできてしまったが、運べないことはないだろう。
それから残しておいた二つを爪で器用にくり抜き、桶にする。
美月には重いかな、そう考えて木の皮も剥いだ。手でこすると、やすりをかけたようにすべすべになる。
あっという間に、職人が真似したがるような桶が二つできた。
青丸は心から満足した。再び人間に姿を替え、戻る。
「これを使いな」
桶を差し出すと、美月は後退った。
怯えた顔をしている。
青丸ははっとし、舌打ちした。こんな姿を見せれば、人間の娘が怯えるのは当たり前だ。
しみじみと馬鹿だったなと青丸は苦笑し、しばらくどこかに行っていることに決めた。
ちらりと風牙を見る。
『すまんな』
風牙の声に、化け物らしくない戸惑いを見つけ、青丸は笑った。
「気にするな。じゃ、また」
桶を置き、手を振る。震える美月に怒りを感じないことを不思議に思いつつ、青丸は夜に溶け込んでいった。