2-4
美月は心細くて気が狂いそうになりながらも、じっと大蛇を待っていた。
寒さで体が震え、歯がガチガチ鳴る。生臭い膿と血で濡れた浴衣が体に張りつき、体温を奪った。指先も真っ白で、痛い。
このまま凍えて死んでしまうのだろうか?
震えながら、美月は外を見つめた。
目に入るのは闇ばかりだ。
だが、闇の中でさえ、大蛇の白い体は確認できた。夜目にも鮮やかな白さだった。白自体が輝きを放っているような、そんな神々しくも思える白だ。
その白を見ると、美月は安堵した。
「山神様」
呟く。
優しい目で見つめられてから、美月の大蛇への信頼は高まっていた。
なんて優しく、力強い神様なんだろう、そう思うようになった。
「あの方は、私を食べてくれるだろうか?」
ただ、これだけが不安だった。
生き長らえ、そのせいで、村人達に害が及ぶようなことになるのが怖かった。
ずっと、独りぼっちになってくれた自分を、支えてくれた村人達。
そして……。
あの人………。
物思いに耽って、目を上げると、洞窟の暗闇が目に入った。
深い深い、暗い暗い、底の見えない闇。
奥から冷たい風が吹きつける。
感覚のなくなった指で、美月は血で固まってもつれた髪を梳いた。
どこにつながっているのだろう?
目を凝らしても闇しか見えない、深い洞窟。
黄泉の国につながっているのだろうか?
耳をすますと、水の音も聞こえるような気がする。奥には地下水が流れているのかもしれない。それが凍って、美しい氷の柱を作っているのかもしれない。
暗闇には、人を不安にする力がある。
何もいないのに、見られている気になる。
美月は体を大きく震わせた。
寒さだけではなく、不安と恐怖で。天井まではだいぶあるのに、今にも押し潰されるように思う。
怖い。
腕を体に回し、小さく小さく身を縮めているというのに、洞窟の闇は美月を邪魔に思い、蚊を叩くように潰してしまえと言っているみたいに感じられる。
お前はここの者ではない、立ち去れ、と。
山神様……。
圧迫感のある不安で叫びだしそうなのを堪え、美月は心の中で大蛇を呼んだ。何度も何度も呼んだ。悲鳴をあげないよう、物理的な恐怖に勝つよう、必死だった。
すると、すごい勢いで山神が戻ってくるのが見えた。
大蛇はあっという間に美月の前に着き、大きな頭を擦り寄せてこちらを見た。
「山神様!」
美月は立ち上がり、精一杯腕を伸ばして、大蛇の太い首に抱きついた。
「山神様、山神様、山神様!」
繰り返し、繰り返し、呟く。
安堵のあまり力が抜けた。ただ夢中で、大蛇にしがみついた。大蛇の体は冷たかったが、気にならなかった。その白い体からは、無限に安堵が溢れているように感じられた。
美月はしばらく、大蛇を呼びながらすがりついた。涙が止まらない。感情に任せ、美月は声をあげて泣いた。
その間、大蛇は嬉しいような困ったような、顔をしていた。ちろちろと舌を覗かせる。
時が過ぎ、再び寒さを感じてようやく、美月は我に帰った。
「すっ、すみません。私ったら……」
慌てて腕を解く。ひれ伏そうとする美月を、大蛇はそっと押しやった。そんなことはしなくていいと言うように、首を横に振る。
それから、大蛇は美月の両頬を舐め、立ち尽くしている美月をくわえて、背に乗せた。
「山神様?」
いったい、どうするつもりなのだろう?
聞こうとして、大蛇がこちらを見ているのに気づいた。首を回し、恐ろしいと感じたあの深紅の瞳に優しさをいっぱい湛えて、美月を見ている。
ただそれだけだったが、美月は大きく安堵し、問いを引っ込めた。
美月がしがみついたのを確認すると、大蛇は洞窟から出た。戻ってきたときと違い、歩みは遅い。背の美月を気遣ってくれているのだろう。その優しさが美月は嬉しかった。
だが外気は洞窟内よりさらに冷たく、美月は濡れた体を震わせて寒さに耐えねばならなかった。
やがて大蛇の歩みは止まった。
着いた所は焚き火の前。
よく見ると、薪は美月が入れられてきた櫃だった。火は勢いよく燃えている。
大蛇は美月を下ろし、火の前に押した。
「ああ。あったかい……」
火の暖かさは、冷え切った体に優しかった。美月は固まった体を火にあてた。暖かさが染みてくる。
安堵のあまり、その場にへたり込んだ。
後ろに倒れそうになるのを何かに支えられる。大蛇の体だ。驚いて身を浮かせると、大蛇は美月の体に頭を回した。そのままでいいと言っているようだ。
「山神様……」
美月は大きな目の近くに額をあてた。
そうすると、なぜかまた涙が溢れてきた。
いろいろなことがありすぎて、頭の中がおかしくなっているに違いない。でなければ、山神の白蛇に対してこんな畏れ多い振舞いはしないだろう。
などと思いつつも、美月は感情をうまく操作できなかった。ただただ、赤子のように泣きじゃくるだけ。
そうしてどのくらい過ぎただろうか。
気がつくと、目の前に見慣れない若い男が立っていた。
「おっ。連れてきたな」
にやりと笑う。男は無作法に座り、大蛇の腹をピシャリと叩いた。
驚きで声も出ない美月の前で、男は枝に何かの肉を刺し始めた。鼻唄を歌いながら、枝を焚き火にかざす。
「おい、風牙。ちょっと付き合わんか? いいものを見つけた。あれなら娘も喜ぶぞ」
枝を回しつつ、言う。大蛇が首を男に向け、シュウシュウと息を吐いた。
「ああ。喜ぶさ。人間は好きだからな」
なんだろう?
美月は男をじっと見つめた。
男は大蛇の吐くシュウシュウいう音に対して返答している。会話しているのだろうか?
それならば、この男は人間ではないに違いない。なにせ山神と友達なんだから。
美月の心に畏怖のようなものが広がった。我知らず、後退りする。
それに気づき、男はバツの悪い顔で頭を掻いた。立ち上がって、美月に手を延ばす。
「驚かせたな。すまん」
男はまたにっこりした。
「俺は青丸。こいつの知り合いだ。こいつは風牙。ま、ここの山神だな」
やっぱり。
美月はどうしたらいいのかわからず、ただおろおろしていた。乾きかけたとは言え血と膿でべたべたの体を見、さらに身の縮む思いを味わう。
そんな美月を青丸は困った顔で見ている。
その表情で、美月はさらに混乱した。
どうしよう、思っていると青丸が差し伸べた手のやり場がなくて悩んでいるらしいのに気づく。
「私は、美月と申します」
美月はおずおずと青丸の手を取った。
お互い、ほっとして思わず溜め息。
相手の溜め息を聞いて顔を上げ、二人は思わず笑った。青丸は豪快に、美月ははにかんで。
笑いながら、青丸は美月を抱え上げた。美月が小さく悲鳴をあげる。
「よし。じゃあ行くぜ。その体、何とかしないと。戻ってきたらメシにしような」
青丸が風牙の腹を軽く蹴る。風牙は美月が怯えるくらい大きくシュウと息を吐いた。