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微弱電流

作者: 小野瀬雪乃


手のひらに乗せた白い錠剤が誘っている。

やわらかい光とゆるやかな道への導き。

幸満ゆきみつはもううんざりしていた。この苦痛と怠惰な毎日に。

昨日も今日のつづきをやって、明日はまた今日のつづき、永遠にも思える。


母さんは父とは違う男のところへ逃避して、父さんは会社が倒産してこのところ落ち込みっぱなしだ。


どうして自分の行く道はいつも棘だらけなんだろう、理不尽だ。

同じ会社に通う人たちは楽しそうに喋って、僕はその場所にいないみたいで空気のようで心もとない。


どうせ毎日同じ苦痛の繰り返しなら、今日で終わらせてしまおうと、僕は白い錠剤を大量に飲んで死のうと思っていた。


何も出力できない。出力する手段がないことにどれだけ苦しんだろう。

それも今日でお終いだ。


錠剤をヨーグルトで流し込んで、ビニール袋で顔を覆うつもりだった。


精神科に通院して自然に集まってしまった200錠程の抗精神薬を、シートからプチプチ剥がしながら自分が死んでしまった後の世界を想像してみる。


おそらく僕が死んだら母は男のところから帰ってきて、大泣きしながら僕の葬式を行うだろう。もしかしたら半狂乱になるかもしれないけれど、それは彼女のスタイルであって、本当に心の底から狂うことはないので心配ない。


葬式には誰が来るだろう。高校時代の担任教師と、数少ない友人の智道、大樹、会社の先輩の橋本さんくらいだろうか。

もしかしたらネット友達の雄介もはるばる大阪から来てくれるかもしれない。


この家はどうなっちゃうんだろう。たぶんなにも変わらない、父と母と弟が喧嘩しながらも仲良く生活していく。


母さんは男のところから帰ってくるだろうな、それはわかる。

何故かって、僕は母さんの無料カウンセラーをやって10年になるベテラン。母さんの行動の予想がつくくらい彼女を理解しているから。


彼女はもう40代になろうというのに、精神的に幼い。おそらく幼少期に父親(僕の祖父にあたる)から十分な愛情を受けていなかったからだろう。


僕の成長期は、自分自身の成長と、母のトラウマを癒すという二つの大きな課題でめいっぱいで破裂しそうだった。


まあ、男の方へ逃避してくれたおかげで、僕は自分自身の成長だけに集中することができるようになった。孤独な作業だけれど、これは生きるために重要だ。


たいていはこの作業に失敗して、高層マンションから飛び降りて死ぬか、拒食症になっちまって周囲を心配させるかのどっちか。まあ、色んなケースがあるけど、僕が見てきた結末はそんなところ。


結局僕も同じ穴のムジナだから、今こうして薬を飲もうとしてるわけだけど。


これから死のうというのに、こんなに落ち着いて行動できるとは思わなかった。

朝起きて、「今日だ」と思った。

今日こそ僕の非生産的な人生を終わらせるのにふさわしい。

黒いTシャツとジーパンに着替えて、近くのコンビニまで自転車を飛ばし、無糖ヨーグルトと40リットルのでかいゴミ袋を買ってきた。


今日はまだ安定剤を飲んでいないので、自転車に乗っている時は頭がグラグラして、周囲の景色がチカチカ僕の脳に向かってシグナルを送ってきてた。これが嫌なんだ。いつもそうだ。


安定剤を飲んでいない時の世界の意地悪さはハンパない。

サングラス無しで太陽を見ているような、容赦ない脳への刺激。痛い痛い痛い痛い。

それに慣れることは決してなく、いつも僕を憂鬱にさせる。

刺激過多による脳神経の疲労。


疲労の次に待っているのは、一歩も動けない程の重圧。身体がずっしりと重くなって、視線を上に向けることさえおっくうになってしまう。

思考は停止の一歩手前になる。

わずかに残る思考部分をフルに動かして、次の行動を決める。それがまた大変なのだ。


もし正常な判断をしなかったとしたら、それは他人から奇行として捉えられ、余計な事件に発展しかねない。


何年も付き合ってきた自分の脳と行動の全てから、僕は次の行動を慎重に選ぶ。

怒鳴ったり、無口になりすぎたり、気分が悪いなどとは言ってはいけない。

絶対他人に弱みは見せたくないんだ。それは僕の唯一のプライドだ。


たいていは、その場をとりつくろって、自分ひとりになれる場所・・・トイレの個室などに避難する。

トイレの個室にはずいぶん助けられた。中学時代、高校時代、どちらも友達のやりとりや授業での刺激に疲れたら、大便に行くフリをしてトイレへ行けばいい。


まあ、そのせいで中学時代は「ウンミチ」(ウンコと幸満の「満」をもじったのな)と呼ばれることになるわけだけれど。別に虐められ、馬鹿にされるのは慣れているのでどうでもいい。


外部からの刺激が遮断できるメリットに比べれば、そんなガキの戯言ぐらい我慢できる。

まあ、そのくらい世界は僕に攻撃的だったってこと。シェルターが必要なくらいに。



父さん、母さんにそのことを言ってみたけれど、全く伝わらなかった。


世界から発せられるあの過剰な程の刺激が、彼らにはたいしたことがないものらしいのだ。


理解されないのは予想していたけれど、それを「気のせい」で片付けられるのにはウンザリした。


僕には一大事なんだ。一生世界から攻撃され続けなければならないのか、この脳味噌で楽に生きて行けるとは思えない。何故わかってくれないんだ。


せめて脳病院に連れて行ってくれるよう頼んだけれど、母は「幸満ちゃんは少し神経質なだけなのよ。おじいちゃんもそうだったもの。気を落ち着けて、三食きちんと食べて、よく眠れば良くなるわよ」と言いやがった。



高校時代、僕は産まれつきのアトピーが酷くなっていた時期があった。

両手の指が見るのも辛い程にただれている。まるでスプラッタだ。


産まれつきホラー要素を持ち合わせたので、僕の精神にはぐじゅぐじゅに膿んだ部分が出来てしまった。それも世界が僕を攻撃する理由の一つかもしれない。


アトピーはわかりやすい。外見ですぐ判断できるからね。


母に膿んだ両の手を見せて、皮膚科に行きたいから保険証と金をくれと言ったら、あっさり了解してアイテムをくれた。本当は脳病院に行くためのアイテムを。


さて、僕は家の最寄り駅まで自転車をこぎながら、どこに脳病院があるのか考え始めた。

駅付近の商店街にあるメンタルクリニックはまずい。母の知り合いに見られていたら、ばれてしまう。


色々頭の中を検索しているうちに、5駅先に設置してある宣伝看板を思い出した。

たしか心療内科だったはずだ。


記憶力の悪い僕が覚えていたという事は、かなり重要な情報だったんだろう。そして今役に立ったわけだ。


そうと決まれば即行動だ。もうこの苦痛には飽き飽きしている。解放されたい。

どんな治療が行われるのだろう。きっと、僕のこの辛い経験をじっくり聞いてくれて、「よく我慢してきたね。」と慈悲の目で見てくれるに違いない。



5駅先の心療内科は小さく汚いビルの2階にあった。

足が震えてきた。ここは脳になんらかの障害を抱えた連中が来る場所だ。

奇声を上げる奴とか、焦点の定まらない目をした気持ちの悪い奴なんかがきっといるだろう。


そう思ったら血の気が引いて、2階へ続く階段を上がるのを途中で止めようとしたが、せっかくのチャンスを無駄にするのも馬鹿らしい。


吐き気を抑えながらやっと階段を上り、ドアを押し開いた。

白かったであろう壁が黄ばんでいる。思ったより狭い待合室で、枯れかけた観葉植物がより空間を狭く見せている。

震えながら受付のおばさんに、初診であることを告げ、保険証を差し出した。


やっとこの苦しみを打ち明け、解放してくれるお医者さんに会うことが出来るのだ。

期待と恐怖感が半分くらいな気持ちで僕は待合室のパイプ椅子に腰掛けた。


周りを見渡すと、4人ほど待ち人がいて、特に奇声を上げたりしている変な奴はいない。

よく観察すると、雰囲気が常人と違っているのは感じ取れたが。


自分自身の苦しみを、やっと専門家に告白することができることに僕は興奮していた。


待ち人数が一人ずつ減っていき、僕の番になった。

目の前にあるドアを開け僕の苗字を読んだのは、頭の禿げ上がった、犬みたいな顔をしたずんぐりむっくりのおじさんだった。


診察室に通される。待合室をより黄ばませたような狭い部屋で、机をはさんで椅子が置かれ、おじさん側には灰皿がある。


座り心地の悪い椅子に腰を下ろし、精神科医であろうオッサンの顔を盗み見る。

大きな目の彼は僕の顔を静かに見ながら、

「川本さんは初診だね。えーと。どういったことで悩んでいるのかな?」

と聞いてきた。


急に涙が出てきた。今までの辛い出来事が頭の中でシャッフルされて、洪水のように脳の中心を刺激する。

それでもなんとか涙を止めようと、僕の理性があがいている。


ぼろぼろ泣く僕に驚きもせず、オッサンは「ティッシュがそこにあるから、涙と鼻水拭いて。」と言いやがった。


その言葉で僕は理性を取り戻し、今までの経緯を語ることができた。

相手に解るように、具体的な例までそえて。


具体的な例に、デパートでの件を挙げた。デパートなどの光や物が多い場所へ行くと、それら全てが自分の目の中に入ってきて、刺激で混乱してしまうこと。

混乱の次には、身体が動かなくなるほどのだるさに襲われること。


「・・・なるほどね。では軽い安定剤を処方しましょう。それを飲めば、君の言っているような症状は緩和されるよ。ソラナックスという安定剤を出すから、受付でもらってね。で、様子をみたいから一週間後にまた来てもらえるかな。」

オッサンはそう話しながらカルテに何か書き込んでいる。


え・・・・・・そんなに簡単に僕の苦しみを片付けるのか?

だって、ここまで来るのに並々ならぬ覚悟と期待をしてたんだぜ。震えながら階段を上った僕の努力はどうなんの。

精神科医であろう犬顔オッサンの簡素な対応に、僕は肩透かしをくらった気分だった。


薬を処方してそれで終わり。苦しみに共感さえしてくれず、カルテへの記入と薬の処方だけをした奴の態度に若干腹は立ったが、次は「安定剤」という薬を飲めば症状が緩和されるという言葉に期待し始めた。


ソラナックスという名の安定剤は、僕の生活をガラリと変えてしまった。


それまでの目からの刺激が大分抑えられ、後頭部のつっぱりが緩まる。

副作用にはふらつきや眠気、というものがあるらしいが、軽い眠気は感じられても、その副作用にありあまる程の効果があった。


刺激ばかりだった生活に、やっと訪れた静寂。

なんてこの世界は優しいところだったのだろう。

以前は殺意を抱いていた相手にさえ、笑顔で接することが出来る。人格まで変わってしまったようだ。

安定剤バンザイ!!!僕の人生を変えてくれた薬!!!



それから僕の高校生活は安定していった。安定剤を飲むことによって。

そのまんまだよな。


少なかった友達とも以前より楽に接する事ができるようになった。

トイレの個室へ行く回数も減った。


もちろん、精神に影響を及ぼす薬を飲んでいるなんて周囲には感付かれてはいけないので、薬を飲むときは特に注意した。


制服のズボンのポケットに錠剤のシート(4錠ほど)を入れ、校内の人気がない場所でこっそり飲む。水無しで飲めるほど小さいので、口の中に唾を少し溜めて薬を放り込めばOK。


それから僕の脳内には変化が起きる。

じんわり背筋を上って来る気配を感じる。身体の緊張が溶け、後頭部のキリキリ感がなくなり、気持ちが穏やかになってゆく。


ああ、神様、僕をこの世界に存在させてくれてありがとう。

普段、神様なんて信じない僕が、敬虔なクリスチャンのような気分になっている。

なんて素晴らしい薬だろう。

母もこの薬を飲めば、あんなにヒステリックに怒鳴らなくてもすむのに。

でもこれは僕だけの秘密。誰にも知られてはいけない。

知られたらキチ○イ扱いだ。特に狭いこの高校生活の中では。



白い錠剤が僕を誘惑している。

やっと「僕を終わらせる日」が来た。


あれから高校生活を無事終えた僕は、ある会社へ就職したのだ。


安定剤をもってしても、僕の根本的な変人ぶりは変わらなかった。

それが原因で社長から目をつけられ、蔑まれ扱き使われる蛆虫のような存在になってしまった。

会社の誰もが僕を蔑んでいる。


唯一の趣味、映画鑑賞さえも、会社でのひどい扱いの記憶から逃れるためのシェルターにはなってくれなかった。

心の傷が多すぎて、自然治癒する速度に追いつかないのだ。

そして、それらの傷はどんどん膿み、治療不可能なほどに大きくなってしまった。


会社の奴らが憎い。幽霊っていうもんがいるなら、僕はそれになってあいつらを呪ってやろうと思う。

だけど、結局は僕の奇抜さがいけないんだ。わかってる。


中学・高校と、僕は周りに溶け込めなかった。

ファッション雑誌の記事なんかを読んだり、流行りのドラマやなんかを見て勉強してみても、何をしても、僕は周囲へ溶け込むことができなかった。


まるでジグソーパズルのなかで僕のピースだけがどれとも繋がれないように。

どこに行ってもあてはまらない。

夜、布団の中でそれを考えては涙したものだ。何故、何故、といくら考えても答えは解らなかった。


社会に出たらどうなるのだろう。そう、高校時代に思ったものだが、まさか本当に社会でもつまはじきにされるとは思わなかった。

だって、僕は精一杯、努力してきたつもりだから。



結果、200錠程の白い錠剤を目の前に、死を決意しているわけなんだけど。


もう涙は出尽くした。泣き虫であることを知っているのは自分だけだ。

親の前でさえも泣かないからね。


さて、そろそろこの世ともオサラバだ。


コンビニで買ってきた大きいヨーグルト容器に、抗精神薬をザラザラと落とし込む。

溶けないうちに、胃に流し込まないとな。

味もなにもわからないくらいの勢いで、ヨーグルトを流し込む。


あーーーーーーーー。

頭がグラグラしてきた。僕の魂はどこへ行くのだろう。

ラジカセからCoccoの曲が流れている。最期に聴くならこのアーティストだと考えていた。

この世界との接点はなくなり、身体から魂が離れ、僕は自由で純粋な存在へと変化する。

ビニール袋を被らなきゃ・・・・

抗精神薬を大量摂取するくらいで人は死なないからね。ビニール袋での窒息死を狙ってるんだよ。早く、早く被らないと・・・・・・・・・・・・・・



長い長い夢を見ていたようだった。


瞼を上げると、心配そうな表情をした父さんと母さんがベッド脇に座っていた。


どうやら病院の救急救命へ運ばれたらしい。

「幸満ちゃん・・・・・・・・」涙を浮かべながら母さんが言う。

「ビニール袋、被り忘れちゃったみたい。」僕は微笑みながらそうつぶやき、意識を失った。


次に意識を取り戻したのは、誰かが点滴の様子を見に来た時だった。

看護士さんらしい。


なんだかとても大便がしたくなり、朦朧とした意識のまま「すみません、トイレへ行かせてください」と頼んだ。ベットの上でするかどうか聞かれたが、それは屈辱的に思えたので断り、車椅子でトイレへ連れて行ってもらった。


点滴は薬を浄化する作用があるらしく、墨のように黒い大便を、僕は何回もした。


3日間くらいだろうか。やっと退院できる状態になり、母さんから渡された服を着て、病院を後にした。

入院費が5万くらいかかったらしい。少し申し訳なく思った。



まあ、今回の自殺計画は失敗したわけで。

その後の僕は両親からとても優しくしてもらえた。

予想していた通り、母さんは男のところから帰ってきた。

会社は辞める事となり、僕は今ニートだ。親のすねかじりってやつ。


父さんと母さんはしばらくゆっくりしろ、と言ってくれている。

これから先の人生設計なんかを考えながら、何ヶ月か休ませてもらおうと思う。


こんな欠陥品が生きているのは申し訳ないけれど、一度死ぬ気で自殺してみると、なんだかスッキリした気持ちだ。


もっと努力すれば、いつかこの世界とも折り合いがつけられて、楽しく生きていくことができるようになるのだろう。

僕はまだ若いのだから。諦めるのは早すぎる。





そんな淡い期待を抱いていた7年前。

僕は、今日


読んでいただきありがとうございました。

大部分が自分で経験したことなので、今後も作品を書けるかはわかりませんが、よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 読めてよかったです
2016/03/19 18:15 退会済み
管理
[一言] お邪魔しまーす。日野です。 私も『鬱病』をテーマに駄作なんか書いてますが、なかなか参考になりました(^^) そして、『今日』!! 最後の最後に書いてある『今日』がかなり気になります!! …
2010/01/27 18:44 退会済み
管理
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