とりのい
―8月某日、とある山―
何故ガチインドアリーマンの俺が山登りなんていう無謀な試練に挑んだのか。
おもえばその時点でなんらかの超常的な力が働いていたのかもしれないしいないのかもしれない。
最大の敗因は運動音痴と方向音痴の二重苦を患った自己の体力の限界を見誤っていたことだ。
「俺としたことが、肺活量のスペックを軽んじていた……」
そこは夏休みに入った地元の子供たちがカブトムシやクワガタを獲りにくるような、むしろ小高い丘と形容した方がしっくりくる規模の裏山で、行き倒れの危険性はないように思えた。
事実途中までは順調だった。
ヘッドホンから流れるアニソンを鼻歌でなぞりがてら斑に落ちる木漏れ日も美しい爽やかな涼気に満ちた山道を歩んでいたら、やがて密に枝葉が茂り出して視界が翳り狭隘な獣道に迷い込んでいた。
引き返そうと思い立ったが、いやここで引き返すのも逃げ帰るみたいで癪だ、この道を抜ければ正規ルートに合流するんじゃないか儚い期待というか根拠のない楽観を捨てきれず歩き通した。
ようするに不毛すぎる自分との戦いに負けた。
過信と慢心が招いたわりとよくある悲劇。
首尾よく出張を終えた帰り道、自然に恵まれた田舎にきたのに直帰するのももったいないと、ほんの出来心でちょっぴり欲をだしてしまった。
俺にも子供時代近所の川や山で遊んだ懐かしい思い出がある。
成人してからこっち日常に忙殺され童心を顧みる余裕とてなかったが、仕事で田舎に足を伸ばした際に、蝉の鳴き声がのどかに響く田園風景に郷愁を感じて、長らく忘れていた冒険心が騒ぎだしてしまった。
男の子はみんな探検が大好きなのだ。
尤もいまじゃすっかりRPGにシフトしてしまったが、きっかけと少しの資金さえあれば、道端の木の棒を拾って旅に出る準備はできている。
一皮剥けたと言わせたいみみっちいプライド、いやせめて日焼けして皮膚の薄皮は剥けたと言わしめたい男の意地だ。
インドア人間がきまぐれ起こして無茶をするからと謗られるのが業腹で、なかばむきになっていたのは認める。
とっくに成人済みの男がこの規模の山で迷子になるなんてそんな、アイデンティティクライシスすぎて自分自身だって信じたくない。
うねりくるった獣道のはてにぽっかり拓けた空間にでた。
「なんだここ……」
マップと照合して現在位置を確認しようとスマホを見る。
アンテナが立たない。
まさかの圏外表示に愕然とする。
「え、死ねと?」
社会人にとってスマホは生命線なのに断ち切られては死ぬしかない。
萌えキャラのラバストを鈴なりにさげたスマホをためつすがめつかざしつつ、なんとか心を落ち着けようと奇妙な空間に視線を巡らす。
不思議な場所だった。
なにより目立つのはぽつねんと建つ鳥居。
どうやら俺が迷い込んだ獣道は、山の中腹に造られた神社の参道へ通じていたらしい。
神主は不在らしくお世辞にも管理が行き届いてるとはいえない。鬱蒼と草生した境内には人けがなく荒廃した気配が漂っている。
正直不気味だ。
ほかにやることもないのでまじまじと鳥居を見る。
随分と年季が入っている。
立てられてから数十年、いや、百年は経過するんじゃないだろうか。
左右対称に鳥居を支える円柱は朽ちてささくれて、丹塗りの赤もみすぼらしく剥げ落ちている。
滲み出るのは浄められた神域の霊格ではない、穢れた禁域とされた不可侵の境界の瘴気。
わざわざ険しい山道を歩き詰め参拝する信者も絶えて久しく、廃れていくのは時代の流れか。
「そもそもなんでこんな辺鄙な場所に作ったんだ。足腰は鍛えられそうだけど」
山の中腹という立地は、ご近所の住民が散歩ついでに気軽に詣でるには敷居が高い。
参詣者がいなければ自然に委ねるがまま放置され、野放図に雑草が伸びて風化の一途を辿るのもさもありなんだ。
「なんだか随分と雰囲気のある……心霊スポットのような……」
その鳥居をくぐってはいけない。
「え?」
だれかに呼びかけられた気がしてヘッドホンを外す。
だれもいない。ぞっとする。空耳?
このヘッドホンは気密性が高くソリッドな音質が自慢で、ひとに話しかけられてもまず聞こえない。
なのにその囁きは耳あてを隔てた鼓膜に直接響いた。
もしくは霊的な聴覚に。
退化した第六感に。
「ねえ」
「!」
いま一度呼びかけられ、ヘッドホンを肩に掛けたまま反射的に向き直る。
土肌むきだしの参道の傍らに烏天狗の面を付けた少女が佇んでいる。
肩で切りそろえた古風なおかっぱ頭、あちこち擦り切れて継だらけの粗末な着物を羽織っている。
随分と時代錯誤な風体だ。
百年前からタイムスリップしてきたみたいな。
子供特有の甲高く澄んだ声音に反し、枯れた佇まいから老成と達観が滲みだす。
「きみ、このへんの子?おうちは近く?お母さんかお父さんは」
女の子は無言のままスッと指をあげる。
指を辿って視線を巡らし硬直。
「おとうはあそこで首を吊った」
少女が指さした先には神寂びた鳥居があり、その真ん中に麻縄で縒った輪が緩慢に揺れている。
あんなモノさっきあったっけ?
ほかに見るものもないので時間潰しにじっくり観察した、はずだ。いくら俺の目が節穴といえど、単純な見落としとごまかすには少々苦しい。
鳥居の中央から垂れさがった縄の輪を凝視する。
まるで手招くようなリズムでくりかえし前後に揺れている。
目を離すのが怖い。離した瞬間何かが起きそうで、とんでもない災いが降りかかりそうで、可視化された凶兆に怯える。
音たてて生唾を呑む。
見落としだ。そうに決まってる。絶対そうに違いないと動揺をおさえこみ無理矢理自分を納得させる。
「おとうはあそこで首を吊った」
寂とした佇まい。恬淡とした口調。漠然と違和感が膨らむ。
烏天狗の面の奥から異様な視線を感じる。
焦点は小揺るぎもせず、おそらく瞬きもせず、無感動にこちらを凝視している。
貧相な体躯に羽織った粗末な着物、煤けて痩せこけた手足、面の小さな穴を通して注がれる虚ろな凝視には一切の情動と感興が封じられ人肌の体温が失せきっている。
(どうしようリアル幼女怖い)(保護しなきゃ)(でも怖い)(せめて麓まで送らなきゃ)(110番?)(地元の青年団に連絡?)(だめだ俺が不審者だ)(スマホにアニメキャラのラバストをじゃらじゃら付けたサラリーマンが幼女の手を引いて山からおりてきたら?)(正しい大人の態度ってなんだ?)
保身と打算と良心がせめぎあい、混乱した思考が脳内でぐるぐる渦巻く。
スマホを握り締めた手が小刻みに震え、冷や汗でぬめる。
「鳥居で首を……?」
異様な気迫に呑まれ、鸚鵡返しにくりかえす。
だって気付いてしまったのだ、その発言の意味するところに。物理的にありえない矛盾に。
「そんなのおかしい、できっこない」
無意識に反駁するも、いや、できなくはないと思い至る。
鳥居は巨大なもので、てっぺんに辿り着くにはまず円柱をよじのぼらなければならない。
苦労しててっぺんまで上り詰めたら、まず横柱に縄を結んで、その輪に首を入れて飛びおりる。
そうすれば体が重石になって勝手に縊死が成立する。
首吊り自殺は不可能じゃないが大変な手間がかかる上に、わざわざ鳥居で首をくくる意味がわからない。
何故縊死を誇示するようなまねをする?
見世物じみた、あるいは儀式めいた……
女の子の気迫に押されてあとじさった事で、奇しくも鳥居の柱に接近してしまった。もう一歩さがれば片方の柱に背中があたる、という地点で停止し、こみ上げた悲鳴が喉に詰まる。
至近距離まで近付いて、気付いた。
あちこち剥げたみすぼらしい丹塗りの紅に、赤い手形が無数に紛れている。
鋭利なささくれで切り裂かれ、柔いてのひらから血を滴らせ、それでも柱をよじのぼった亡者の群れの痕跡が網膜に焼き付く。
一体何人の人間が柱をよじのぼり鳥居で首を吊った?
自らの手を酷く傷付け血を流してまで、鳥居の真ん中で首をくくったのだ?
天から垂れた一筋の糸にこぞって群がる亡者のように、後から後からきりもなく柱に縋って……
昇り詰めたところで極楽に至れるはずもないのに。
「なんで鳥居っていうか知ってる?」
手形の血痕はすっかり乾燥しひび割れている。新旧無数にびっしりと穿たれて、剥げた丹塗りの代わりに柱の全面を覆い尽くしている。
まるで鳥居がそれを望んだみたいに。
生者の狂気と死者の妄執が呪いの如く塗り重ねられ、蠱毒のように煮詰まった血糊の柱から瘴気が立ち上る。
「鳥居は鳥葬の場」
烏天狗の少女が託宣を下す巫女の口調で淡々と告げる。
人さし指の先は彼女の親の仇の鳥居に固定されたまま微動だにしない。
父親の死体が晒された風葬の場を見詰める目には、何の感情も浮かんでない。
「おとうは死んでカラスに食われた。鳥居で首をくくるとみんなそうなる。食べやすいようにそうする」
肉を啄ばまれ、目玉をほじられて、全身を突かれて。
酸鼻の極みの凄惨な情景が脳裏に像を結ぶ。
禍々しく赤黒い夕焼けを溶かし込んだ鳥居に、ゆぅらり影が揺れている。
柱にキツく食い込んだ縄が鈍く軋み、墨色の虚空で影が揺れる。
逆光を背に萎びた骸に群がる無数のカラス、視界を埋め尽くす黒い羽ばたき、
ぎゃあぎゃあと耳汚く啼き狂い蛆が沸いた屍肉に犇めきたかる鳥たち……
唐突に太陽が遮られ日が陰る。
烏天狗の化身の少女が無感情に呟く。
「みんな、鳥居がよぶ」
この子はだれだ?
ここはどこだ?
俺は一体どこに迷いこんで、なにを視てるんだ?
現実と地続きの白昼夢に迷い込んだ熱に浮かされ、全身に広がる悪寒に耐えながらジリジリと距離をとる俺をきっかり見据え、少女があどけなく尋ねる。
「あなたもよばれたの?」
鳥居は鳥胃。
首吊り死体は猛禽の格好の餌食。
重要なのは中身ではなく、むしろ外側。
あの鳥居が神威を借りた鳥葬の場として機能しているなら、烏天狗の面の少女を水先案内人に、神社に擬態して贄を求め続けているとしたら―
「―っ!」
取り込まれたら戻れない。
元いた世界には帰れない。
目の前の少女とその父親のように死後もなおこの場に呪縛され、新たな贄を誘導し続ける亡者の列に加わるのか。
背後の鳥居の威圧感が覆い被さるように増して、同時に少女が一歩を踏み出した刹那、寸手で保っていた理性が決壊した。
意識が途切れる寸前に最後に見たのは、少女の一挙手一投足にあわせて舞い立つ漆黒の羽根。
少女の顔の皮膚は面と完全に同化し、ヒトとヒト非ざるものの境を失っていた。
「へんじがない、ただのしかばねのようだ」
「!」
「あ、起きた」
「しかばねじゃない」
「ぎりしかばねじゃない」
俺は道端に倒れていた。
補虫網や虫かごを持ち、真っ黒に日焼けした子供たちが地面に寝転んだ俺を囲んでまじまじと見下ろしている。
「ここは……えっ、鳥居は?キミたちは?」
一人一人の顔を見渡し、突如消失した鳥居と女の子の行方を尋ねれば、一様に「何言ってんだコイツ」とあきれと不審が入り混じった表情にむかえられる。
補虫網を肩に担ぎ、麦わら帽子を被った小学校高学年程度の少年が首を横に振る。
「鳥居なんかねーよ。見たことねえ」
「このへんに神社なんかねーよな」
「うん」
互いに顔を見合わせ首を振る、少年たちに嘘を吐いてる様子はない。
遠巻きに俺を眺める目に怪訝な色が混じり始めている。
「アンタ大丈夫?暑さで頭やられちまったの?」
「そう……かもな。全部夢だったのかな」
もう帰ろう。まったく、インドア人間が無茶するとろくなことがない。木の棒を拾ったところで別段奇跡は起こらないのだから、分を知るのは大事だ。日常から逸脱して帰らぬ人になるのは望まない、撮り溜めてまだ消化してないアニメが部屋で待っているのだから。
起こしてくれた小学生の一団に一応お礼を述べて(ただし薄汚れたスニーカーの先端で突かれたことは恨みます)大人しく山を去ろうとして……
「なんかカラス多くね?」
なにげない一声に慄然と立ち竦む。
「ああ、もとから多いんだこの山」
「気味わりぃ」
「巣食ってんのかな」
「カラスってなに喰ってんだろ。生ごみとか?」
「だれかフホートーキしてんのかな」
「わざわざこんな山ン中捨てる?」
「あ、おれ怖いこと思いついた」
「なになに」
「樹海とおなじでさ、死体をさ……」
他愛ない会話にこだまして被さるカラスの鳴き声、頭上を旋回する漆黒の群れ、白昼夢で片付けるには生々しすぎる体験の細部と符合する不吉なしるし。
ぎゃあぎゃあと山中に響き渡る不気味な鳴き声に負けじと声を張り上げ、俺は一散に逃げだした。
「キミたちも早く帰ったほうがいい、カラスが啼いてからじゃ手遅れだ!」
あの女の子は今もまだあそこにいて、鳥居は口を開けて待っているのだから。
『その鳥居をくぐってはいけない』
『その鳥居でくくってはいけない』