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父よ、母よ、今、いずくにぞおわす。。(私の人生考察瞑想ノートより)

作者: 舜風人

「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞおもう。」行基菩薩




母がなくなって11年と成る。父は24年前になくなった。

母は大正生まれ、父は明治うまれである。

 

男の子は大体そうだと思うが、私も大の母好きだった。


幼き日々は貧窮の我が家ではあったが、母の庇護のもと何不自由なく育ち、甘えきっていた。

思えばあのころは皆、貧しい生活ながら、それを苦にすることもなかった時代だ

った。

母は気丈な人で、いつも、強い母でいたし、私に甘い言葉の一つもかけてくれた

わけではない。

しかし、私は母が大好きだった。


母は、今次戦争のため父の古里の片田舎に疎開し、それがついの住

処となってしまったが、四国生まれで


四国なまりの言葉も今は懐かしい。


母の幼い頃納豆というものを知らなかったこと。

母の兄が東京に出ていて、納豆を送ってきて、食べ方がわからずに煮てしまった

こと。


溜池の水を田んぼに引くのにけが人がでるほどの水争いの事、

讃岐富士といわれた飯野山,城山のこと、そこへ生活物資を採りにいったこと、


盛んに行われた草競馬の事、母の父はそれが大好きで盛大に行っていたこと。

母の実家は地主で大きな門があったこと。しかし、母の父の代で凋落してしまっ

た事。

そんなこともよく聞かされたものだった。


母は老後よくこんな言葉をつぶやくようにいっていた。



「おとうさん、お母さん、そして、ふるさとさん、

今そこへ行ってももう知らない人ばかりでつまらない、

生まれた家もない。本家の人も孫の代になっていて話も通じない。


でもむかしのことばかり、なつかしんでいても、結局今はここが私のふるさとよ

私はこの家を守って死ぬよ。

そして未来に目を向けて、子供たちの繁栄を毎日祈っているよ。」



私も今すっかり歳をとり、頭は真っ白、目はかすみ、不整脈と動脈硬化でめまい

、、節々は痛く、立派な中高年と成った。

そして思うのは父の事、そして母のことだ。


ああ、もう一度会いたい。

あって話したい。


「母さん、俺、も、もうこんな老人になってしまったよ。」


「そうかい。長い間、よくがんばったね、

 早死にしなかったのもあんたを支えてくれた周りの人のおかげだよ。

 よく感謝しなよ。」


母はきっとこういってくれるだろう。


ああ、肉声で母の声を聞きたい。


しかし、今、私は仏壇に手を合わせ、


位牌に話しかけるしかないのだ。


「母の恩は海より深し、父の恩は山よりも高し。」


私の父母は、確かに昔の父親像、母親像を自覚していた明治、大正生まれの父母だった


厳しく、甘えたところなど微塵も無い、父を母を体現していた。


いまどきの「お友達おとうさん」、「おともだちおかあさん」などではなかった。

しかし、こうして私が年取ってみると、それでよかったと思っている。


いや、そのほうが千倍もよかったと確信している。


老境に達した今だからこそ、しきりと恋しい。


老いて分かる母の恩、父の恩。


ああ、父よ、母よ、いまいずくにぞ、おわす。





「年取れば故里恋しいつくつくぼうし」  山頭火




私もすっかり年取ってしまった。


あんなに若かったのに、、、


あんなに青年だったのに、、、


気が付けば今はすっかりおじいさん、、、。



年取ると


しきりに父母のことが恋しい。


別にどうということのないごく普通の


明治大正生まれの父母だった。


貧しい山村の農家だった。


そんな山村に仕事があるわけもなく、、


父は出稼ぎに東京へ行き家計を支えた。



母は実家に残り痩せ畑を耕して食料の足しにした。


あれからどれほど経っただろうか?



そんな母も


11年前に亡くなった。


苦労苦労の人生だった。


それがいつか、報われるということもなく



無名の庶民として



苦労だけで


なんら報われることもなく、


神の恩寵も何もなく


一生を終わった人だった。


神は盲目なのだろうか?


こうした庶民の人生っていったいなんだったのだろうか?


私は真剣に悩み、神を呪いさえした。


しかしその報われなかった


父母は今では、故郷の先祖代々の墓地に眠る。


そしてこの私は


故郷の山村に仕事があるはずもなく、、


そこから遠く離れて就職せざるを得なかった私は




今は遠い他県で就職し、結婚し、


ちっぽけな建売住宅を建ててそこに今こうして、老体をさらしているわけだ。



その故郷の墓地は、あまりにも遠い。




それが理由で?


私は春秋の彼岸と、お盆しか墓参りには行けない。



もちろん私が最近目がかすんで、めまいもひどくてという事情もあるのだが、、、。


この家にある仏壇には必ず毎朝お線香をくゆらせて


礼拝はしてますよ。


お母さん。


お父さん。


この私もすっかり年取りました。


やがてそちらに行く日もそう遠くはないでしょうよ。


それまで待っていてくださいね。


お父さん


お母さん。






「うどんそなえて母よ私もいただきまする」山頭火



父よ、母よと、


いくら呼べど返るる声なし、


大庄屋の末裔と言われながらも父の代には


貧しく零落して向学の志を捨てて東京に出稼ぎに出て


労働者として一生を終わった父だった。


そうして、、、


讃岐の没落士族の家筋に生まれて


生家を売り払い


東京に出て父と巡り合い結婚した母だった。




晩年の父は田舎の実家に舞い戻り


農業と俳句に生きがいを見出していた。


その父も無くなり


母はその家を一人で守り続けた。



私は実家を遠く離れて就職せざるを得ず、


結局実家に戻れずに


今もこうしてこの他県に住み続けている。


その母も11年前に亡くなった。



亡くなって知る親の恩という。


今、巷間では、子殺し、親殺しの殺伐とした事件が頻発しているという。



そんなこともなく私を貧しいながらも


育て上げてくれた、父と母。



ああ、父の恩は山よりも高く


母の恩は海よりも深し。


そんな言葉が生きていた時代の父と母だった。


父よ



母よ、



私もすっかり中高年になりました。


体もあちこち軋みが出ています。


体力気力もめっきり衰えました。



そうなってみると


父の事



母のことが



しきりに思い出されて仕方ありません。



父よ



母よ、



今何処の


輪廻六道の階梯におわします?



いずれ私もこの不肖の息子もそこへ


参ります。



そう、先のことでもないでしょう。



それまで父よ母よ



大宇宙のその階梯でお安らぎください。



10年後?


20年後?には


私もそちらに参ります。


その時にはこの不肖の息子を


どうか


暖かくお迎えくださいませ。



そして不条理ある世界での転生を


お互いに語らいあいましょうか?



『ほろほろと、鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う』



「行基菩薩」のこの歌のように思いも


かくやと私にも思い知らされる今日この頃です。



最後に


こんな不肖のわたくしを


いまどきの無慈悲な親のように


虐待もせず


スポイルもせず


暖かい、まさに観音慈悲のまなざしで



遠くから見守って



育ててくれた



父よ



母よ



本当に



本当に



ありがとう。



















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