03
彼女のところに通い始めてから、早二週間が経った。死期の近い人間に死神が視えるのはせいぜい余命一ヶ月前後だから、彼女はもういつ死んでもおかしくないだろう。もちろん、わたしには彼女の正確な死期がわかっているのだが、そんな状況にあるとは思えないほど彼女は元気だった。
長い入院生活による筋肉の衰えのせいか、歩くことはできなかったけれど、天気のいい日には車椅子で中庭を散歩したり、ロビーに行って歌を歌ってはほかの患者と談笑したりして。そう、彼女はとても「普通」の女ノコだった。
「わたしね、もうすぐ死ぬんだって」
「え?」
ある日の夜、いつものようにこっそりと彼女の病室を訪れ、もうすぐ帰ろうかと思っていたとき、ぼんやりと窓の外を見ていた彼女がぽつりとそうつぶやいた。
「どういうこと?」
「今日、看護師さんたちが話してるのを聞いちゃったの。あんなに元気なのに、余命一ヶ月だなんて信じられないわね、って」
「そう……」
これは、絶望に突き落とすチャンスだろうか。しかし、彼女からは哀しみの片鱗が感じられないどころか、むしろその残酷な運命を受け入れているようにすら見える。ねえ、どうして?
「哀しく、ないの?」
「哀しいわ。でも、何となくわかっていたもの。確かにわたしはすごく元気だけど、小さいころからずーっと入院してるのよ? 一生退院できないのかなあ、とは思っていたわ。そう考えると、今の状況が奇跡だとすら思えてくるの。わたしはむしろ神様にありがとうって言いたいくらい」
ふふっ、と気丈に笑う彼女は確かに幼い。けれど、自分の置かれた立場がわからないほどバカではないのだ。彼女の身体のことを一番よく知っているのは、彼女自身なのだから。
「でも、一つだけ残念なことがあるの」
「……何?」
「歌手に、なれなかったこと」
ゆるり、と首を動かしてこちらを向いた彼女の目には涙が浮かび、一すじのそれがほおを流れ落ちた。
「あなたに『将来の夢は歌手なの?』って聞かれたとき、ドキッとしたわ。だって、そのときはまだ確証がなかったけれど、きっとわたしには『将来』なんてないって薄々わかっていたんだもの」
ああ、彼女はわかっていたのだ。自分はもうすぐ死ぬのだと。だから、あんなすべてを受け入れたようなカオをして――
「でも、あなたがファン一号になってくれるって言ったとき、すごく嬉しかった。みんながわたしの歌を上手いって言ってくれて嬉しかった。だから、もっとたくさんの人にわたしの歌を聞いてほしかったなあ……」
ひっく、としゃくりあげながらも、彼女は決して大声で泣き叫んだりはしなかった。どうして、泣きたいのなら思いきり泣けばいいじゃない。わたしには、そんなことできないのに――そう考えて、はたと我に返る。わたしは何を考えているのだろう。わたしには、そんなことをする必要なんてないのに。
よくわからない気持ちを押し殺し、わたしは静かに涙を流す彼女の手を握った。
「じゃあ、そのお願い、わたしが叶えてあげるわ」
「え?」
きょとんとしたカオでこちらを見つめる彼女。それに対して、わたしはにっと笑みを浮かべ、その手を離した。
「明日はお昼ごろに来るから、予定を空けておいてね」
「え、ちょっ、待っ……」
「また明日。おやすみなさい」
そうして、わたしは病室をあとにしたのだった。
* * *
「え、と……これはどういう状況なのかしら?」
「見てのとおり、ここは近くの公園よ。外出許可はもらってあるわ」
次の日、わたしは彼女の車椅子を押して近くの公園に来ていた。そのための外出許可が意外とあっさりもらえたことに驚いたが、主治医や看護師たちも最後くらい彼女のすきにしてやりたかったのだろう。一応体調は安定していて、こんなに元気に見える彼女でも、本当にいつ死ぬかわからないのだ。
わたしは公園が一望できる場所で足を止めると、不安げにしている彼女に話しかけた。
「さあ、ここで歌ってごらんなさい」
「え?」
「野外ライブってやつよ。あなた、もっと多くの人に自分の歌を聞いてもらいたいんでしょう?」
「そ、そうだけど、こんなところで恥ずかしいわ。それに、人が集まってくれるかわからないし……」
彼女の声は次第に小さくなり、最終的にはしゅんとうつむいてしまった。
わたしは彼女の正面に回ってすっとしゃがみ、何も映っていない――だけど、とても澄んでいる――その目を真っ直ぐに見据えた。
「いい? 今、この場所であなたは『歌手』なの。歌手なら自分の歌声で人を集めてみなさい。今ここで夢を叶えるのも、あきらめるのも、あなた次第なのよ」
少し説教くさくなってしまったが、次第に彼女の顔に真剣みが帯びてきたかと思うと、彼女は「わたし、やってみる」と力強くうなずいた。わたしはそれを見て、彼女から少し距離を取る。すると、視界の端に同伴していた彼女の母親が見えた。
そして、彼女は数回深呼吸をしてから大きく息を吸いこんで、歌い始めた。それは、天使の歌声のように透き通っていて。最初は何事かと思って驚いていた人たちもその歌声に惹かれて集まり、歌い続けるうちに公園の外からも人が集まってきた。すべてを歌い終え、はあっ、と彼女が息をつくころには、たくさんの人が惜しみない拍手を送っていたのだった。
その後、彼女は何曲か歌を披露したあと、集まってくれた人たちにお礼を言って、わたしと帰路についた。
「どうだったかしら?」
「すっごく楽しかったわ! あんなに人が集まってくれるなんて思わなくて、わたし、本当の歌手みたいだった!」
「ええ、とても素敵だったわ」
車椅子を押すわたしからは彼女の顔が見えなかったけれど、その弾んだ声から彼女が今どんな表情をしているのか容易に想像することができた。
「あのね、また、連れていってくれる?」
ゆっくりと振り向いて、おずおずと尋ねてきた彼女。それに対して、わたしはにこ、と穏やかな笑みを浮かべてみせる。
「ええ、もちろんよ」
「ありがとう! わたし、とっても嬉しいわ」
彼女の「希望」は、今が最高潮だろう。だから、これで終わり。次わたしが彼女に会いにいくときは、彼女を迎えにいくとき。
そう、「死」という名のステージに、ね。




