02
「こんばんは」
「こんばんは、今日も来てくれたのね」
消灯後、静かに――と言っても、わたしには実体がないのだから、音を立てるということ自体がないのだが――病室に入れば、盲目の少女はぴくりと反応し、何も見えないはずの視線をこちらに向けた。実体がないといっても、死期が近い人間には死神が視えるのが当然なので、彼女が目ではなく、気配で感じ取っているというのは有り得ない話ではない。
そして、にぱ、と嬉しそうに微笑んだ彼女のベッドの脇にあるイスに、わたしは腰を下ろした。
「毎日夜遅くにごめんなさいね」
「ううん。ここは個室だし、気にしないで。でも、あなたはこんな時間までどんなお仕事をしているの?」
彼女の口から出た何気ない質問に、ドキリと心臓が跳ねる。まさかここで「あなたの命を奪いにきた死神です」なんてバカなことを言えるはずがない。
わたしが数秒の逡巡ののちに、
「――人の生死に関わる仕事よ」
と答えると、彼女は眉を下げて、
「じゃあ、あなたもお医者さんか看護師さんなの?」
と尋ねてきた。確かに、生死に関わる仕事と聞いて真っ先に浮かぶのは医療従事者だろう。だが、わたしの場合は病気を治すのではなく、そのまま死へ誘うのが仕事だ。
「まあ、そんなところよ」
「そうだったの。じゃあ忙しくて当然だわ。疲れているのに毎日来てくれてありがとう」
「いいのよ。わたしたち、『お友達』でしょう?」
「――うんっ」
満面の笑みを浮かべ、彼女は力強くうなずく。十歳なのに大人びた話し方をする彼女でも、笑顔はやっぱり子供らしい。まだ思春期でもないから素直でつけこみやすいわ――いつかの意地っ張りな彼女と違って。
「あなたが担当の看護師さんだったらよかったのに」
その言葉ではっとして、わたしは頭からいつかの記憶を追い出した。わたしには感情なんてないし、特別な想い出だっていらない。今は、目の前の人間に集中しなくては。
「それよりも、あなたは歌がすきなの?」
「え?」
「初めて会ったとき、歌を歌っていたでしょう? とても上手だと思うわ」
「本当!?」
ばっと食い入るようにこちらを向いた彼女の目には何も映っていないはずなのに、それ自体はとてもキラキラと輝いているように見えた。
「わたし、目が見えないでしょう? でも、その分とても耳がいいらしくて、一度聞いたらどんな歌でも歌えるの」
「あら、すごいじゃない。じゃあ、将来の夢は歌手かしら?」
ふふっ、と何も知らないフリをして笑う。彼女に「将来」なんてないと、わたしが一番よく知っているのに。
「ええ、そうなの! 今でも昼間歌っているとみんな喜んでくれるんだけど、歌手になってもっと多くの人にわたしの歌を聞いてもらいたいわ」
「ふふ、それは楽しみね。じゃあ、そのときはわたしがあなたのファン一号になってあげるわ」
「本当? 嬉しいわ、頑張らなくちゃ!」
「ええ、応援してるわ」
――かわいそうに。あなたにそんな「未来」は絶対に訪れないのにね。
今そう言ったら、彼女は発狂してしまうだろうか。それはそれで面白いかもしれないけれど、まだ、ダメだ。まだ希望が足りない。もっともっと大きく期待させて、そこから一気に絶望に突き落とさなくちゃ。そのほうが、もっと面白いもの。
わたしはこのとき自分の企みで頭がいっぱいで、彼女が一瞬何故か哀しそうなカオをしていたことに気付かなかった。
「ああ、短い時間だったけれど、そろそろ帰らないと」
しらじらしくウソをつき、帰るのが残念でならないという演技をする。我ながら完璧だと思う。すると、それ以上に、そして本当に残念そうな表情をした彼女がおずおずと口を開いた。
「……これから、またお仕事?」
「ええ、そうね」
「大変なのに、いつも本当にありがとう。でも、また明日も来てくれる?」
そう聞いてきた彼女のカオがあまりにも不安そうだったので、わたしは思わず苦笑してしまった。彼女が待っているのは、自分を迎えにきた死神だというのに。
「ええ、もちろん」
「本当に?」
「約束するわ。じゃあ、帰る前に一曲歌ってもらおうかしら」
「え?」
不安げな顔から一変して、驚いたようにぽかんと口を開ける彼女。
「わたしがこれからの仕事を頑張れるように、そして、明日もここに来てもう一度聴きたくなるような歌をお願いするわ」
「――うんっ」
「ただし」
わたしの制止に、きょとん、と首をかしげる彼女はまるで百面相だ。
「難しいかもしれないけれど、小声でね。バレたら二人とも怒られちゃうでしょう?」
そうして、くすり、と笑みをこぼした彼女の病室には小さな歌声が響いていた。




