承認欲求
本作品は鬱要素を多めに盛り込んでおります。
雰囲気だけを見れば比較的ライトではありますが、そういった作品に耐性の無い方はブラウザを閉じるかブラウザバックで戻るとショックが少なくて済むかと思います。
また、この作品は比較的現実的な世界観を持っていますが、作中の登場人物の思考、台詞、行動など、現実的ではない部分が多々見られます。
展開も早く、ご都合主義的です。そういった要素に対して忌避感を抱く方も、ウィンドウをそっと閉じるかブラウザバックして閲覧を中止した方が良いかもしれません。
それでも見るという方は、スクロールして本編をお楽しみください。
――2005年 8月19日 橘樹家 子供部屋
夏休み真っ只中のある日。
世の一般人が夏休みを謳歌し、あるいは社畜として汗水たらして働いている時期。
海が青いとか山が綺麗だとか、あるいは森林浴が気持ちいいとか。
それともクーラーの効いた部屋で涼しくお勉強?
ケッ、どっちでもいいっての……――もとい。
そういった「明るい」一面がある一方、闇の一面を持ち合わせているのが、この夏休みというやつだ。
ペンを握り、必死になって、ミミズののたくったような字を紙に写す。
周囲の熱気は異常なほどであり、額から流れる汗も相当な量となった。
幾枚もの紙が汗で湿り、ふやけて字が書けなくなる。それでも書かなければ終わらず、書いたとしても終わる気配は無く。
そんな、苦行にも似た単純作業を延々と繰り返す人間。
つまり、俺たちのような学生である。
繰り返し言うが、今は8月19日である。
限りなく早く宿題を終わらせる人間もいるだろう。
あるいは、最終日にまとめてやったり、ということはあるかもしれない。
だが、俺は違う。
こんな中途半端な時期にありながらも、延々と宿題を終わらせている。
でなければ――俺は、間違いなくあの「試練」には打ち勝てない。
「受験」という名の試練には。
15歳。夏真っ盛り。
普通の人間ならば以下省略。しかし、俺は「受験生」という肩書を持っている。
欲しくもなんともない、あったとしても面倒なだけの称号だ。できれば他人にでもくれてやりたい。
そのおかげで、このクソ暑い――むしろ、熱い中で勉強をしなければならないのだ。
リビングに下りれば、エアコンが効いてるんだろう。
ああ、遥か先の理想郷、今いくよ――。
なんてできたら良かったんだけど。
生憎と、俺には階下に降りるような権限は無い。
親に止められているのだ。アンタ「は」宿題が終わるまで部屋から出るな――と。
理不尽なことこの上ない。
ああ、理不尽だ。理不尽すぎて涙が出る。
妹はごく普通にリビングに降りて勉強している。その許可が出ている。
この扱いの差は何だ。理解できないこともないというのが余計に腹が立つ。
理不尽だ。不条理だ。軽く死にたくなってくる。
いくら俺と妹との能力差が激しい――当然ながら、俺が下である――と言っても、同じ子供じゃないのか。俺はあの両親から生まれた子供じゃなかったのだろうか。
しかし、その点に関してもそうだが、この部屋の気温も問題だ。
どんなに冷えた飲み物も、この炎天下では……。窓を開けているとはいえ、ほぼ密室状態の子供部屋では、すぐにぬるくなってしまう。
とてもじゃないが、勉強に適した環境とは思えない。
少なくとも、飲み物を補充しておかないと、いつミイラになってもおかしくはない。
定期的に水は飲んでいるのだが――そもそも、前述の理由から、俺にジュースを飲む権限は無い――それでも、喉は渇く。
自然なことだ。汗をかけば、その分水分は抜ける。
肉体はそれだけ水分を欲する。自然なことだ。
大事なことだから二回言ったぞ。
さて、となれば水が必要になる。
できればジュースが欲しい。むしろコーラがいい。
となると、自費で購入するのが得策か。
幸い、ここ数か月の疑似ヒキコモリ生活のおかげで、小遣いなら貯まっている。
数百円の出費くらいは痛くもないだろう。
そもそも、パソコンを弄ることくらいしか趣味は無い。
彼女もいないし、いた経験も無い。友達もいない。
金を使う機会なんて、そうは無いのだ。
とりあえず、親のいない今のうちにコンビニにでも行ってしまおう。
そう考え、財布を手に取って部屋から出る。
我が家の構造上、自室を出て階段を降りれば、玄関は目の前だ。
……なのだが。
「あっ……」
「げ……」
世の中、そううまくはいかないもので。
階段を降りれば即玄関ということは、つまり、帰ってきた人間と鉢合わせする可能性が高いということでもある。
そうして、当然ながら――何の心構えもしていなければ、それを避けることはできない。
「チッ……」
俺は軽く舌打ちした。
何で、こんな時にコイツと鉢合わせしなくてはならないのだろう――?
橘樹梨桜。
俺の妹にして、俺が最も嫌っている相手。
そして――何事に関してもソツなくこなす天才。
「……どけよ」
「ご、ごめんね、兄さん……」
睨みつつ一言を告げると、梨桜は萎縮したまま廊下の端に寄った。
頭が良くて、運動が得意。
その上運も良くて、謙虚で大人しく、他人想いで友達が多い。
そんな天才の妹に対し、俺は憎しみにも近い感情を抱いている。
努力家で人望もあり、聡明で運動神経に優れる。その上、運もいい梨桜。
対し、卑屈で嫉妬深く、どんなに望んでも他人から好かれない。要領も悪く、記憶力だって普通より劣る。運動神経も人並みで、平々凡々とした人間以下の俺。
何故、兄妹なのにこうも違うのだろうか。
嫉妬と疑問が、同時にぐるぐる回って――。
結果、どんなに俺の機嫌が良くとも、梨桜を見た瞬間に最悪の状態にまで落ち込んでしまう。
故に、こういった対応は日常茶飯事。
辛く当たることも多いが、それでも梨桜は俺に対し、嫌悪の情を抱かない。
普通、ここまでやられたら嫌うものだろう。
それでも、一切表情に出そうともしないのは……同情、だろうか。
だとしたら、気に入らない。
自分よりも低い位置にいるからと分かっているからこそ、そういった態度でいられるのだろう……と、考えてしまう。
そういう人間じゃないのは知っている。
何せ、13年間もずっと「兄」という役柄を演じているのだ。
こいつの根っこがひどく善良で、ともすれば、悪意を持った人間に騙されるのではないかというほどに甘いのは、よく知っている。
だからこそ、自分に対しての苛立ちも合わせ、余計にイラ立ってきて――。
チッ、と再度舌打ちし、玄関から外に出た。
今日の俺も、見事なまでに最低の人間だ。
* * *
――熱い。
うん。熱い。暑いどころの話じゃない。熱い、だ。
常識では考えられないほどの熱気。それも当然と言えば当然なのだが。
照りつける太陽と、陽炎が立ち上るほどのアスファルトの二重の責め苦。加え、今の俺の服装は上下黒。そういうジャージなのだから、ある意味当然だが――熱を吸収して、暑いのなんのって。
汗が噴き出す。
確か、今日の最高気温は38℃だったか。人間の体温超えちゃってんじゃねえか。
……などとボヤきながら、俺はコンビニへの道を歩き続ける。
しかし、アイスを買おうと思ったのに、この気温……
やっぱり、部屋に持って行かずに食べ歩きで済ますべきだろう。部屋に持って帰る頃には溶けちまうっつーの。
そうして、数分。ようやくコンビニにたどり着いた。
自動ドアをくぐると、さわやか――とは言い難いものの、突き抜けるような冷気が体を叩く。最初は心地よいくらいに感じていたのだが、しばらく経てば、汗が冷えて寒くなってきた。ちくしょう。
さて、そんなことより飲み物だ。喉が渇いて仕方がない。
適当な飲み物とアイスを買い、レジに向かう。
……が。
「うげっ……」
そこにいたのは、普通の店員とは趣の違う男だった。
焼いた肌に金髪。服装はだらしなく、耳には複数個のピアスが装着されている。
端的に言えば――不良である。
不良。ヤンキー。DQN。どれでもいい。
ともかく、そんな人間がレジに立っていたのだが……。
……まあ、難癖付けられるようなことは無いだろう。そう考え、俺はレジに商品を置いた。
「しゃーせー」
ちゃんと「いらっしゃいませ」と言えよ。
「308円になりゃーす」
308円です。でいいだろうがド畜生が。
なんだ。俺の選んだ商品が308円に変化するのか。見てみてえけど違うだろうが。
ともかく、310円を財布から抜き出し、レジに置く。
「2円のおかえしぇーっす。あざーしたー」
「お返しです」「ありがとうございました」くらい言えねえのかこいつは!
ちくしょう、何だかイライラしてきたぞ!
無造作に置かれた2円を掴み取り、さっさとコンビニから出ていく。
こんな場所にこう何十分もいられるか!
そう考え、自動ドアから外に飛び出した。
3秒で汗が噴き出した。
* * *
人間の欲求にはいくつかの種類があるそうだ。
そのうち、承認欲求というものがある。単純な言い方をすれば、誰かから認められたいという欲求であり、(当然ながら、自分で自分を認める――つまり、自分に自信を持つことも、この欲求の中に含まれるらしいが、それは省いておく)特に劣等感に悩む人間に顕れるものらしい。
当然ながら、俺にもこういった欲求は存在する。
どころか――思うに、そういった欲求は人一倍強いのではないだろうか。
理由に関しては考えるまでも無い。梨桜の存在だ。
昔から、あいつは常に俺より二歩も三歩も前にいた。
スタート地点が違っていると言ってもいいかもしれない。俺が1の才能を持っているとすれば、梨桜は10の才能を持っていた。そして、あいつはそれらを全て開花させた。
文字通りの「天賦」の才能だ。
天は、二物も三物も与える。
人間は生まれながらに、絶対に埋めることのできない差を持つし、覆すことのできない才能を持つ。
努力だって才能だ。継続すること、そのものが才能だ。
大人は口をそろえて「努力しろ」と、あるいは「努力した過程が大事なんだ」と言う。
しかし、結果が出せなければ、やはり、口を揃えて言う。――「努力が足りない」と。
馬鹿か。
凡人はいつまでも凡人で、天才はいつまでも天才なんだ。努力して結果が出なければ、結局、それは運が悪かったか、あるいはただ才能が無かったというだけだ。
前者はともかく、後者であれば、さっさと見切りをつけるべきだろう。
俺だってそうだ。さっさと見切りをつけてくれなければ――いつまでも、俺は一人の人間として見られることはない。「天才美少女の、凡人の兄」という記号でしか見られることはない。
皆の視線は梨桜へと向かう。
俺に向かっていたはずの視線も、全て、梨桜の方へと向けられる。
羨望。嫉妬。あるいは尊敬。
――そして、憎悪の視線が。
俺は、俺の存在を殺した梨桜が憎い。
俺という人間の存在理由を消し去った梨桜が、殺したいほどに妬ましい。
だけど、それを表に出してはならない。
俺は、梨桜の兄だから。
兄だから、憎んではならない。
憎むことは、許されない。
「……兄さん?」
唐突に、梨桜の声が部屋の外から聞こえてきた。
何事だろうか――そう考え、今の時間を思い返す。
そういえば、もう晩飯時か。恐らく、俺を呼びに来たのだろう。
分かってる、とだけ告げて、俺は軽く息をついた。
* * *
食事の時間は、我が家で過ごす時間の中で唯一、和気あいあいとした時間であり、何より、俺の最も嫌う時間帯である。
理由は、ごく単純。そもそも、俺が話すことなど無いからだ。
両親の期待の目は、常に梨桜に向けられている。俺が口を開いたとしても、何一つ聞き入れてはもらえないだろうし、何よりも、俺は梨桜と同様に両親も嫌いだからだ。
例えば、志望の高校のことを話すとする。「いいんじゃない?」という一言で終わる。
それは、俺が何一つとして結果を残していないからだ。
部活も行っていない。美的センスも劣るし、作文もさして得意ではない。賞状を貰ったことなんて、生まれてこの方一度も無い。である以上、両親は俺に期待すら抱こうとしない。俺の自由に任せる、と言うが、恐らく、公立高校に入らなければ不機嫌にはなるだろう。無駄に学費がかかるからだ。
無駄。そう、俺はこの家にとっての「無駄」だ。
俺がいなくともこの家は上手い具合に機能するし、逆に、いない方がより上手く機能するかもしれない。
いつだったか、家出を画策したことがある。
そのときは確か、途中で警察に補導されて終わったのだが――その際に両親に言われた言葉は、「余計な手間をかけさせるな」だったか。
俺を育てるということは、つまるとこ「余計な手間」だということだ。
生産性の無い「飼育」。あるいは、「手間」。
俺には、養うだけの価値は無い。(あくまでも俺の予想ではあるが)虐待に当たるからということで、一応は食事を貰っているが、会話はほとんどない。
実は、俺はこの人たちの子供じゃないということであっても、何も驚きはしないだろう。
「御馳走様」
一言呟き、食器を洗い場に持っていく。
自分の食べたものは自分で始末を。俺にだけ適用されるルールだ。梨桜と親父の分は、お袋が洗うことになっている。
軽く水で流し、その上でスポンジでこすり、洗う。
その後、食洗機にセットし、これで俺の仕事は終了。
もうやることも無いし、何よりも、この場にいるような理由も無い。
俺は、自室へと向かって踏み出して――。
「兄さん」
直前、梨桜に呼びかけられた。
「……あ?」
低い声が口から漏れる。
同時、梨桜が身を縮めた。口をパクパクさせ、何事かを尋ねようとしているようだが……聞こえない。ならば、そもそも聞く必要も無い。俺は、無視するようにしてさっさと自室への階段を昇って行った。
* * *
まるでそうすることが当たり前であるかのように、自身に憎悪の感情を向けた兄――橘樹桐人を見送り、梨桜は階段の前で立ち尽くしていた。
いつから、兄妹仲がこんなにも険悪になってしまったのだろう?
梨桜は思い浮かべる。昔の自分たちを。
梨桜は現在13歳。桐人は15歳だ。小学校も中学校も同じ学校に通っている。2歳差ということで、兄が3年に上がったときに、同時に梨桜も中学に上がってきた。
桐人は多少ぶっきらぼうながらも、小学校の、4年になるまでは優しい兄だったはずだ。少なくとも、今のように梨桜を邪険に扱ったりはせず、面倒と言いながらもちゃんとした「兄」として、一つの確固たる位置にいたはずなのだ。
それが、今のようになってしまったのは、梨桜が小学校に上がった、その次の年。小学校2年の頃のことだ。
きっかけが何だったのか、梨桜はあまり覚えていない。ただ、一つだけ言えるのは、そのときに兄の自尊心をひどく傷つけてしまったという自覚が残っているだけだ。
そのときを皮切りに、両親はしきりに「梨桜に比べて桐人は」と言うようになった。
比べて。比べて。比べて。
その言葉が、ひどく癇に障ったのだろう。少なくとも、梨桜はそう考えていた。
実際、あらゆる部分で、梨桜は桐人の上を行っていた。それは、小学校の頃――身体的にも、考え方も、何もかもが未熟だったころから変わらない。
学力。運動能力。運。人間として重要と言える全てが、彼を上回っていた。
唯一、桐人の認識している限りでは、勝っているのは年齢のみ。
全ての物事において、壮絶なまでの挫折を経験した。
立ち直ることなどできなかった。より才能のある人間が、最も近い場所にいたから。
梨桜にしても、努力が無かったわけではない。しかし、常人に比べればわずかな時間だったのは確かだろう。すぐに要領を掴み、普通以上の結果を出す。そういう才能を持っていたのだ。
対し、桐人は何一つとして、有用な才能を持っていなかった。人並み以上に努力はしていたようだが、そこで終わり。――結局のところ、努力が結果に反映されていないというのが実情だ。
それ故に、努力すればするほどにその才を発揮する梨桜と比べられる。そして、また性格が歪んでいく。
今となっては、梨桜だけでなく、両親――更には、かつて友人と呼んでいたはずの者とも、会話は無い。
望む、望まざるにかかわらず、彼に近しい人間は、すべからく梨桜の存在を知ることになる。結果、より優秀で、より人間として完成している梨桜に視線が向かい、桐人の存在は忘れ去られてしまう。
桐人はあらゆる面において凡庸だ。能力。運。顔。全てにおいて、普通であり平均であり凡庸だ。多くの人間に埋没する存在とも言える。
逆に、梨桜は異常だった。優秀すぎた。全てにおいて、比肩する者がいなかった。実の兄でさえも、格下――どころか、既に、違う次元にあった。
争ったところで意味は無く。競ったところで意味は無い。
「それでも」
それでも、と梨桜は呟いた。
それでも、橘樹梨桜は橘樹桐人の妹なのだ。
たとえ誰もが桐人を必要としなくなったとしても、梨桜だけは桐人を必要としていたい。そう考えているからこそ――梨桜は、両親へ問いかける。
「お父さん、お母さん。兄さんがどこの高校に行きたいか、って、聞いたこと、ある?」
当たり前の家庭ならば、当然のように聞いたことはあるはずだ。特に、夏休みのこの時期、どういった高校を志望するかということによっても、勉強する内容は変わる。学費も違うし、その学校で学ぶ内容も違う。
学費を出すのは両親であるし、最も近しい人間も、また両親だ。この二人であれば、聞いていて当然ではないのだろうか。
「んん? そういえば、知らないなぁ」
「あら、お父さんも?」
その答えは、ある意味で言えば――この家族の中で言うならば、当然だったのかもしれない。だからこそ、梨桜は冷静に受け止めていた。ああ、やっぱりか、と。
最も初めに桐人に期待をかけたのも両親であれば、最初に彼への興味を失ったのも、また両親だ。
一般人であり、また、凡人であるから、選民思想を持っていない、などということはない。むしろ、だからこそ、根強く強烈で、頑強で覆しづらい。
自分たちがダメだったから、次の世代なら。
自分たちの子供なら、もっと、より良い――より、優秀な結果を残してくれるかもしれない。ならば、自分たちにも箔がつく。子供が優秀なのだから、自分たちも優秀だと――そう思う。思い込む。人間は、いつまでたっても同じ人間のままだというのに。
どうしたんだ、と父親が訊ねる。ううん、と梨桜は首を振った。
――もう、この人たちに期待できることは何もない。
相手が親であっても、その事実だけは明白だ。いや、相手が親だからこそ、その事実は余計に際立つ。
言っても、行動しても、おそらくはこの二人の行動が変わることは無い。兄は――桐人は、永遠に、この二人の心の外に在るままだ。
梨桜は、諦念を込めて溜息をついた。
――どうにかして、兄と話す機会を設けよう。
――そのための方策は準備できている。
――うん、少し強引だけど、これなら――。
梨桜は考え続ける。兄と、もう一度話すための方法を。
――もう一度、昔のような関係に戻るための、方法を。
* * *
個人的には割とどうでもいい、どころか、正直なところ、気にも留めていなかったが、俺は親と話すことそのものが大嫌いなのだ。
普段はそもそも会話が無いから、気にする必要が無かっただけだが――まあ、それはそれとして。
理由は単純。話せば話すだけ、ストレスがたまっていくからだ。
一言目には梨桜がどうのこうの。二言目にはお前も見習えのなんの。そうやって、三言目で、ようやく本題に入るのだ。ややこしいし、何より俺の神経が逆撫でされていく。要件があるのなら、本題から先に言えばいいのに。
さて、ともあれ、親――正確には、母親が、久しぶりに俺に話しかけてきたのだ。俺としては、願っても叶ってもいないしそもそも望んですらいなかった事象なのだが。
その話の内容を整理すると、まず、梨桜を迎えに行けと言う。
場所は、駅前の雑居ビルの塾。勉強しに行っているらしい。
俺に出すだけの金をそちらに使った方が有意義であるとのこと。その点に関しては否定のしようもないが、腹立たしいことこの上ない。
ちなみに、駅前まで行こうと思えば、歩いて30分といったところか。面倒な頼みごとをしてくれる。ともかく、俺は即座に断った。そんな理由は無いし、そもそも帰ってくるのに支障はないだろう、と考えたからだ。
しかし、親の考えは違った。俺と違って優秀な梨桜が、帰る途中で暴漢にでも襲われたらどうするの。身を挺してでも守りなさい。だそうだ。
ま、この言葉の裏を読むとすれば、あんたはどうなってもいいから――という言葉が、補足として入るのだろうな。普段のこの人の言動を見ていると、そうとしか思えない。
ついでのついでに、小遣いを減らすとまで言われたとき――俺の心は折れた。
元々少ない小遣いをどうにかやりくりしている状態なのだ。これでまた更に減らされるのも困る。
わかった、と言いつつ、渋々迎えに行こうと思った俺なのだが――。
「……うわぁ」
雨が降っていた。それも、想像以上に強烈な雨だ。
絶対これが面倒くさいと思ったから行かなかったな、あの人たち。ちくしょう。恨んでやる。一族郎党呪ってやる。あ、俺も含むか、これ。
さて、まあそんなことはともかく、である。
駅まで30分。横風によって振り込んでくる雨にも負けず、服をびしょびしょに濡らしつつ、俺はどうにかたどり着いたのだった。
見れば、ぽつんと駅前の雑居ビル――塾の看板が掲げてあるその下で、梨桜が立ち尽くしていた。
物憂げに、雨天の空を見上げている。
手元に傘などの雨具は無い。ここ最近晴れていたし、昼間は普通に晴れていたから、忘れてしまっていたんだろう。俺は最近あまり外に出ないから関係ないが。
しかし、天気予報でやってなかったわけがないだろうに。微妙な部分でどんくさい奴だ。
それに、これくらいのことで駆り出す親も親だ。車があるんだから、そちらで行けばいいのに。わざわざ俺を迎えに寄越さなくても、そうすれば時間は十分に節約できるし、俺もまだ勉強ができた。結果に反映されるかは別としても――だ。
チッ、と軽く舌打ちし、俺は梨桜の待つ場所へ近付いて行った。
俺の姿を認めた瞬間、梨桜の表情がぱっ、と華やいだ。が、次の瞬間には、どうにも申し訳なさそうな表情に変わる。
俺としても、好きでこんな場所に来たわけではない。そもそも、俺が来るような必要は無いし――……って、さっきからこれずっと言ってるな。まあいい。
ともあれ、これで任務完了。俺は無言でもう1本の傘を手渡し、梨桜から背を向けた。
「ま、待って、兄さん!」
ざあざあという雨の音に負けない程度の声が、俺の背後から響いてきた。
今、こいつは待て、と言ったのか? 何のために?
俺がこの場から去って行かないようにするために?
非現実的だ。傘を届けたのだから、もうすべきことはない。梨桜もそこは理解しているだろう。呼び止めるだけの理由は、何もないのだ。
俺が車でこの場に来ているのであれば、まだそれもわかるだろう。しかし、俺は徒歩。梨桜も同様に徒歩だ。呼び止めるような理由は無いはず。
は、と軽く溜息をつき、俺は振り返った。
「………………」
「あ、の、その……こ、こんな雨、だし……一緒に、帰らないかな、と思って……」
「一人で帰れるだろ」
「に、兄さんは、妹のことが心配じゃないの?」
「どうでもいい」
「…………」
俺の言葉に対し、むっとしたように、梨桜が顔をしかめた。
ま、常識的に考えれば、ああいう言葉は聞きたくないだろうな。
だけど、俺にとっては当たり前の言葉だ。
お前のことはどうでもいい、と。
――何度、その言葉を聞いてきただろうか。
――何度、その言葉を言われ続けてきただろうか。
その苦しみを味わえ、とか。そんな気持ちは微塵も無い。ただ、俺にとって当たり前の言葉が、こいつにとっては当たり前でなかったという、それだけの話だ。
「……兄さん。どっちにしても、私より早く帰ったら、お母さんに怒られちゃうよ」
「…………」
確かに、その通りかもしれない。少なくとも、このまま梨桜をここに置いて帰れば、まず間違いなく小遣いは減らされるだろう。でなくとも、ねちねちと聞きたくもない小言を言われるに違いない。
梨桜と関わることと、小遣いを減らされること。その二つを天秤にかけ、結果――。
「チッ……」
梨桜とつれ立って帰ることに決めた。
どちらも嫌だが、どちらかと言えば、一緒に帰る、という選択肢の方が、まだマシに感じられたからだ。
「ちゃっちゃと帰るぞ。時間が勿体ねえ」
「あ、うん、うん……」
帰っても、勉強以外にすることはない。ただ、ひたすらに凡人以下の俺は、勉強をしなければ、受験で合格することなど、夢のまた夢なのだ。
要領のいい梨桜にとっては朝飯前なのだろうが、俺には――俺みたいな人間は、がむしゃらにやって、ようやくだ。
本当、羨ましいよ。同時に、憎たらしいけど。
「兄さん」
ふと、か細く――それでいて、よく通る声が聞こえてきた。
いつもより幾分か小さい梨桜の声。それでも、俺の耳に入ってくるのに、何の過不足も無い。無言のまま、次の言葉を待った。
「多分、答えてくれないだろうから……これは、私の独り言。兄さん。何で、そんなに私が嫌いなの?」
言うまでもない。俺の居場所を、全て――全て、お前が奪っていったからだ。
自覚すらないのか。いや、無いのだろう。実際に、こいつが悪いわけじゃない。
悪いのは、何も持っていない俺だ。何か持っていたとしても、それに気付くことすらできない俺だ。
俺に持っていないもの全てを、こいつが持っていたから。
だから――俺の居場所は、無くなった。
「私のせいなの? だったら、私はどうすればいいの? ……分からないよ、私」
分からない、か。
それが当然だ。俺だって、どうしたらいいのかは分からない。
梨桜がいなくなればいいのか? いや、違う。根本的な解決にはなりえない。
俺が努力を続ける? その成果を出すことができるような見通しがつかないのに?
お前に分からないんなら、俺にだって――分かるかよ。
「……ごめんね、兄さん」
何で謝るんだよ。
謝るだけの理由があるのかよ。
そもそも、何に対して謝ってんだよ。
お前は――俺に対して、何がしたいんだよ。
じれったい。そう感じて、俺は梨桜の方へと振り返った。
「え……」
「何に対して謝るべきかも明確じゃねえのに、簡単に謝ってんじゃねえよ」
「え、あ、……で、でも、私」
「でも? 何が『でも』なんだ。ただ謝れば済むと思ってるのか、お前」
本当に、俺はこんなことを考えているのだろうか。
これが、俺の本心なのだろうか。
分からない。
ただ、口から漏れだす言葉は――これまでの怨嗟が詰まった、最低の言葉だった。
「そんなに知りたきゃ教えてやるよ。お前がいるから、俺は夢をあきらめなきゃならないんだ。天才のお前がいるから、凡人の俺は、永遠に誰の目にも留まらない、誰にも必要とされない!」
その言葉は、考えるまでも無く――最低だった。人間として、最低で……最悪だった。
自分の才能が無いことを、他人のせいにして。妹に当たって。
冷静に思考できている一方で――口は、激情に任せて言葉を連ねていく。
「何度も、何度も努力をしてきた。だけど、努力だけじゃ才能には勝てないんだよ! どんなに努力を重ねても、俺は永遠に誰にも追い付けない! その最たる例が、最も近い場所にいて、嫌わないワケがあるかよ!」
お前がいるから――。
「お前がいるから、俺は誰にも『俺』として見てもらえない! お前がいるから、俺は、永遠にお前の付属品のままなんだよ!」
――あの子の兄貴?
――ああ、あの天才の。
――で、キミ何ができるの?
――何もできないのかよ。
――あの、天才少女の兄なのに?
――馬鹿みたい。
――天才の兄は凡人以下ってか!
――てんでダメじゃん。
――使えねー。
何か言ったところで、その言葉は止まらなかった。
延々と、俺という存在を否定され続けた。
何の才能も持っていなかったから。
何一つ、できることが無かったから。
全てが――妹に劣っていたから。
だけど。
これだけは――言っちゃ、だめだ。
「お前なんか――」
言えば――間違いなく、俺は後戻りできなくなる。
一人の人間として、取り返しのつかないことをしてしまう。
だから。
「っ!!」
「兄さん!?」
俺は、梨桜に背を向けて走り出した。
――お前なんか、いなければよかったんだ――。
一瞬でも、頭の中をよぎった一言は、延々と脳内でこだまし続ける。
駄目だ。考えるな。こんなこと、考えたらだめだ。
俺は、あいつの「兄」なんだ。あいつの「兄」である以上、俺はこの言葉を言ってはだめだ。そうなれば、俺は、本当に、人間としてクズ以下になってしまう。
だから――ダメなんだ。
いくら俺のことを見てくれる人間がいなかろうと、その原因が、妹が優秀すぎるせいだったとしても、その言葉だけは、ダメなんだ。
* * *
そうして、どれだけ走っただろうか。
5分? それとも10分? もっとだろうか。
いずれにしても――もう、走るだけの体力など、残ってはいなかった。
手元には傘も無い。びしょ濡れのまま、こうして走って――いや、逃げてきた。
気候が比較的温暖であるためか、不思議と冷たいとは感じない。
ただ、今はひたすらに――痛かった。
どうということはないはずなのに。ただの、雨のはずなのに。
「――はは」
言ってやったぞ、という感覚は無かった。
逆に、胸の奥には虚無感が渦巻いていた。
最悪だ。
何をやっているんだろう、俺は。
こういう場合は――ああ、アレか。「死んだ方がマシ」ってやつか。
そうだよな。たったひとりの妹すら拒絶して、罵倒して、いなかった方がよかった、なんて考えて。
ああ、うん。死んだ方がいい。
梨桜は、天才で、その上人間ができている。俺とは大違いだ。
対して、俺は――まったくのダメ人間で、存在価値がそもそも無くて。
ああ、死んだ方がマシなことも、世の中にはあるのだな、と、実感できる。
このまま、車道に突っ込んでしまおうか。しかし、それも迷惑がかかる。迷惑のかかる死に方は避けたい。なら、増水した川にでも飛び込もうか。それ自体は何の問題も無いかもしれないが、苦しそうだ。
ただ、どっちにしても、もう半分くらい死んでいるようなものなんだ。
死んだあとのことなんて、あまり興味は無いし……何より、俺の生死に興味があるような人間なんて、存在すると思えない。
だったら――もう、いいかな。
もう、このまま死んでいったほうが――。
「兄さん!」
そうして聞こえてきた声は――今、一番聞きたくなかったもの。
一番聞きたくなくて、その一方で――一番、聞かなければならなかった、声。
「…………」
答えることなく、ただ視線を梨桜の方へと向ける。
――と。
瞬間、体に衝撃が走った。
何かがぶつかってきた――と理解したのは、その次。梨桜の声が、俺の下から聞こえてきたときだった。
「――さっき言ったよね、兄さん。誰にも必要とされない、って」
「…………それが、どうしたんだ」
「だったら、何で私は今まで兄さんを嫌ってこなかったの? 兄さんが必要ないなんてことは、絶対に無い。――私には、兄さんが必要なんだよ」
――――――――――。
考えも、していなかった。
俺が一番嫌っている人間が、俺のことを必要としている、なんて。
ごめん、と。自然に口から言葉が漏れていた。
気付けなかった。気付こうとしなかった。今まで一度だって、嫌っている人間の気持ちなんて考えたことは無かった。
だから――。
「ごめん。――ごめん。……何で、分からなかったんだ、俺。何で――」
一番近くにいて。
一番嫌っていて。
そんな人間が、一番――俺のことを、必要としていて。
何で、気付かなかったんだろう。
自分が他人から必要とされていないと考えていたから。いや、盲目的に――そう信じていたから、自分より優れた人間に対して、絶対的なまでに嫉妬を抱いていた。絆が欲しいと望んでいたのに、それを自ら遠ざけていた。
馬鹿だ、俺は。
雨が降り続く中で、俺は、雨から守るようにして――梨桜の体を抱きとめた。
後日、二人して風邪を引いたことは言うまでもない。
* * *
「ご、ごめんね、兄さん、荷物持ちみたいな真似させて……」
「少しでも悪いと思ってるならその買い物の量を減らしやがれっ!?」
あれから、数日。
俺たち兄妹の関係は、多少ぎくしゃくしながらも、それなりに元々の「普通の兄妹」のように戻っていた。
ただ、こうして二人してデパートに買い物に出かけ、荷物持ちの役目を無理矢理背負わされることも、増えてきたというか増えていいのかというか。
今日のこれの場合は、主にあの人たち――両親に頼まれ、買い出しに行くよう頼まれたからというのが主な理由なのだが。
より正確には、駄賃で好きなものを買ってもいい、と言われた梨桜の手伝いも兼ねている。
「お前……いくら駄賃で好きなもの買っていいって言われたからって、色々買いすぎだ」
「で、でも、買ったもの全部、兄さんが持つ必要無いんじゃ……」
「馬鹿。妹とはいえ女に荷物持たせるような真似をしてたまるか」
一応、その辺は俺にとっては一種の信念だ。今まで女友達なんていなかったわけだから、こんなことをした覚えは1度たりとも無かったわけだが。
「用事が終わったんなら帰るぞ。正直、これ以上はキツい……」
「あ、う、うん」
何より、自分で買うものが無いというのが辛い。
元々俺は基本的に無趣味だし、買い物と言っても、せいぜい食料品を買う程度で他に買うようなものはない。色々と手は出しているものの、それが長続きしたような覚えは無い。
さて、そもそも、長い買い物自体が苦手な俺としては、そろそろ帰宅したいところなのだが――。
「あ、でも、ちょっと待って。もう少し欲しいものがあるから……」
「またかよ!?」
こんちくしょう。こいつ、口調の割に押しが強いぞ。
あー、くそ、と軽く呟いて、仕方なしに梨桜の後をついていく。
頭を掻き、苛立ちを紛らわせる。
女の子なんだから、買い物が長くなっても仕方がないのかもしれない。無理矢理にそう思い込み、俺は重い荷物を抱えていく。
「ったく……デカいデパートだからって、どんだけ買おうとしてんだよ……」
「兄さんは自分の好きなもの買うとき、楽しくないの?」
「割とどうでもいい。買うもん買ったらさっさと帰るだけだろ」
「うーん……男の人って、そういうものなのかな……?」
俺は、たいていの場合でそういうものだが。
まあ、そうじゃない人もいるだろう。人間の性格なんて千差万別だ。
「俺は」事前に狙いを定めて購入するものを決める。その後、さっさと帰宅する。その方が、時間の節約にもなるからだ。
「外に出るくらいなら、俺は図書館にでも行って勉強してたかったっての」
冷房が効いているだけありがたいが、何もできないというのが実に癪だ。
こんなことなら、冷房が効いていて涼しい図書館にでも行って、涼みながら勉強していた方がよっぽど得だ。
というか、荷物持ちなんて両親がやればいいんじゃないのか。
いや、無理か。ここ最近、梨桜と両親との会話を盗み聞きしていて分かったが、あの人たちは面倒なことはしたがらない。自主性に任せているなどとのたまってはいるが、正確には、単に放任主義なだけだ。
俺に対して興味が無いのは当然だが、極論、梨桜に対しても興味は無いだろう。あの人たちにとって必要なのは、梨桜の才能だけなのだから。
他の人間も似たようなものだろう。そいつらが見ていたのは、「橘樹梨桜」という一人の人間ではなく、その才能だけなのだから。
当然、そうではない人間もいるだろう。ただ、それも一握り、一部だけに過ぎない。
そういう意味合いで言うなら、俺たちは似た者同士の兄妹――というとこか。
「兄さんも趣味くらい持ったらどうかな。買い物が楽しくなるかもしれないし」
「趣味にするなら金のかからないことが一番だ。それに、俺が何か始めたところで、上達なんかしねーよ」
「またそんなこと言って……悪い方にばっかり考えてたら、本当に何もできないよ?」
「どーせ十数年後はどこぞの中小企業の社畜でもなってるっつーの。ニートになるのも悪かねえな。あの親の脛をかじりつくしてやる」
あの人たちにとっては思わぬ反撃だろう。
けけけ、と冗談交じりに笑う。
当然、冗談だ。あの人たちに迷惑をかけるのもやぶさかではないが、だからと言って、僅かでも「頼る」ことになることだけはしたくない。高校か――あるいは大学か、どちらかを出ればすぐにでも就職して、一人で暮らしたいと思っているほどだ。
いずれにしても、そのためには時間が必要なのだが。
「で、どこまで行くんだ?」
「この階だよ。ええと……お客さんが来るから、お茶菓子買ってきてって」
「はん。また無駄な見栄張りやがって」
「大人には大事なことなんだよ。……たぶん」
確かにその通りだ。
俺たちには全く関係ない。大人に――あの人たちにとって重要なことであろうとも、俺たちには、まったく。
さて、そもそも、茶菓子を買うとなれば、相応の店舗に赴く必要がある。殆ど外に出ない関係上、そこまでどのくらいかかるかは分からない。梨桜の後をついていくしかないわけだが……。
「あ、ごめん、兄さん。ちょっと」
「あん?」
言いつつ、梨桜は何処かへと駆けていく。
何事だろうかと思って駆けていく先を見ると、うずくまって泣いている女の子がいた。
親とでもはぐれたのだろうか。あるいは、欲しいものが買ってもらえなくて駄々をこねていたのだろうか。どちらにせよ問題であるのは、周囲に親の姿が見えないことだ。
一目見ただけとはいえ、即座にそれを察知したのだろう。梨桜は女の子を抱き起こし、あやすようにして語りかける。
7歳か8歳と言ったところだろうか。見たところ、小学生になったばかりか、少し上の歳なのだろうが……梨桜を見てきたせいだろうか。ああして、他の子供の未成熟な面を見ると、少なからず違和感を覚えてしまう。
いや、俺だって、ああいった年齢の頃は、少なからず情緒不安定になるようなこともあった。不思議なことではないのかもしれない。
一言二言言葉を交わし、梨桜は女の子の手を引いて俺の方へと歩いてくる。
「ごめん、兄さん。この子、親とはぐれたらしくて、迷子センターに送ってくるから、しばらく待っててくれない?」
「……ま、いいけどよ」
梨桜の性格のことも考えれば、あの子をあやし、なおかつ多少の会話を織り交ぜ、不安にさせないようにしながら迷子センターに連れて行くことだろう。
となれば、多少時間はかかるはずだ。
俺は、近場のベンチに座って、梨桜が戻ってくるのを待った。
五分。十分。まだ戻ってこない。
十五分。ようやく戻ってきた。息を切らしながら走ってくる梨桜を横目で見つつ、俺は嫌味混じりに呟いた。。
「……お人よしめ」
「ご……ごめんね、親御さんが来るまで待ってたら、遅れちゃって……」
こいつのことだ。どこかに行ってほしくないなんて泣きつかれたんだろう。
表情も性格も柔らかいし、保育士なんかに向いているのかもしれない。――が。
「お人よしで善人気質なのは構わねーけどよ、アレが子供だった分まだ良かったけど、仮に詐欺師とかだったら、お前間違いなく騙されて金奪われてるぞ」
「う、うん……分かってるんだけどね、その……体が、勝手に動いちゃうの」
「はあ?」
「何ていうのかな。こうしてもいいんじゃないか、って、面倒なことを避けようと考えることもあるんだけど、その一方で、こうしなきゃいけないって思うの。面倒事は避けてもいいのかもしれないけど、でも、困ってる人がいたら助けなきゃいけないって、強く感じるから……だからかな? それが演技だったとしても、本気だとしても、私、その人に手を差し伸べなきゃ、って思うの」
変かな?
問いかけてくる梨桜の表情は、言葉の割には和やかなものだった。
こいつの性格を鑑みれば、ありえないことではない。むしろ、自然なことなのだろう。
だからこそ――。
「ああ、変だな」
俺は、率直に意見を述べた。
他人を思いやること。言葉にすれば簡単なようだが、それを実行するとなると、途端に難しいものになる。
行動するのは面倒だ。助けたとしても、何の見返りも無いかもしれない。それが分かっているのに、他人を思いやり、手を差し伸べることができるような人間は、普通いないものだ。
ましてや、自然にそんなことができる人間を、「変」と言わずしてなんと言う?
「――そうだよね」
あはは、と笑って、梨桜は顔をそむけた。
その表情が、どこか寂しげに見えたのは――俺の、気のせいと言えるだろうか。
その後、きっちりと言われた茶菓子を購入し、俺たちは家路についた。
* * *
「遅くなっちゃったね」
電車を降り、駅のホームを出た直後、梨桜がそんなことを呟いた。
言われて時計を見てみれば、確かに、普段帰宅する時間よりは少し遅れているようだ。
だいたい6時過ぎ。晩夏のこの時期、太陽もこの時間帯になれば傾きだす。
「何か言われりゃ、あの人たちに責任押し付けりゃいいだろ」
「そ、それはちょっと酷いんじゃないかな……」
何が酷いものか。あの人たちの普段の言動を考えれば、そのくらいのことはしてやらないと割に合わない。……と、本気で考えているのは俺だけなのだろうが。あの人たちに対して良い感情を抱いていないから仕方がないかもしれない。
「そうやって嫌なことを嫌って言えないから、お前、いちいち厄介ごと押し付けられるんじゃねーの。親はお前が押しに弱いこと知ってるし、お前の知り合いだって、その辺うすうす感づいてるだろ。さっきも言ったけど、いつか騙されるぞ」
「そうやって言ってるけど、兄さんだって結構お人よしだよね。今日だって、本当はついてこなくてもよかったのに」
「話を俺の方にすり替えるな」
「うう……」
まあ、確かに言われてみれば、俺も自分で思っている以上にはお人よしなのかもしれない。
そもそも、今日の買い物自体、梨桜が頼まれただけで、俺が行く必要など無かった。直前でこいつに頼まれたからついてきたのだが、その際に勉強しているから、と言って断るという選択肢もあったかもしれない。
まあ、妹でもなければ、こんなに必要以上に干渉したりはしないのだが。
「だ、大丈夫だよ……怪しい人の勧誘なんかは、断ってるし」
「本当に怖いのは、優しい人を装ってる人間だろ。……まあ、やっぱ、アレだ。お前、もう少し他人を疑ってかかれ。でもないと、この先生きていけないぞ」
「……うん……」
「ま、でも……なんていうかさ」
少し照れくさいが、言いたいことは言った方がいいかもしれない。
「人を裏切るような奴よりかは、そうやって、他人を助けようとして馬鹿をみるような人間の方が、よっぽど好きだな、俺は」
「……ぷ。あははっ、何それ?」
「うっせー。まんまの意味だよ。お前はそうやって他人の顔色覗ってるより、とにかく他人のこと思って行動してりゃいいってことだよ」
昔なら、絶対にこんなことは言っていなかっただろう。
少なくとも、確執の残っている間は、一切言うことは無かったと思う。
だけど――今なら、言える。何のためらいもなしに。
こいつが底抜けのお人よしだというのなら、俺は、他人をとことん疑ってかかろう。そうして、悪役を演じながらこいつのストッパーになるというのも悪くは無い。
信号が変わったのを確認し、二人して歩き出した。
都心近くと言えど、さして栄えてもいない町だ。この時間帯でも活気はあるが、それでも、たまには人が通らない時間帯はある。
それに丁度当たってしまったようで、俺たち兄妹以外に、人影は見られなかった。
たまには、こんな風に暢気に一日を過ごすのも、悪くない。
そんな思考が――今の俺に認識できた、最後のものだった。
キィィィィ――――と、甲高いような、あるいは、妙に低いような音が聞こえてくる。
何の音だろう? 自然、視線がそちらへと向かう。
――それは、果たして見えたことが不幸だったのか。
――あるいは、少しでも、見えたことは――幸運と言えたのか。
暴走トラック。
信号を完全に無視した大型車両が、俺たちの方に突っ込んできたのだ。
危ない、と梨桜が叫んだ。同時、自然と体が動き出す。
梨桜の体を突き飛ばすために、両腕が。梨桜も同様のことを考えたのか、俺と同じように腕を付きだす。
その速度は、ほとんど変わらない。
――いや、反応がわずかに早かった分、梨桜の方が速かった、と言えるだろう。
だからこそ、その行動がどんな結果をもたらすのか、俺たちには分からなかった。
ただ、互いが助かるため、最善と思える行動を、無意識の内に取っていたに過ぎない。
だが、それだけだった。
人間の体と言うものは、いともたやすく壊れてしまうもので。
何より、未成熟な俺たちの肉体なんかは、当然のように軽薄で――。
ゴッ、という爆音のような音が響き、強烈な――今まで感じたことの無いような、莫大な衝撃が走る。
瞬間、俺の意識は闇に落ちていった。
最後に見えたのは――妹の、寂しさをたたえたような表情だけだった。
* * *
すすり泣くような声が聞こえてくる。
誰の声だろう? 少なくとも、俺はこんな声を出すような人間を知らない。
俺のよく知る誰かと、どことなく、似ているような気がする。
その「誰か」は、多分、俺にとっては限りなくどうでもいい――限りなく、他人に近い人間のものであって、俺のよく知る、大事な人間のものではない。そう断言できる。
近しい場所にあったはずなのに、まったく知らない声。確かに、俺はこの声に聞き覚えがあるはずなのに……まったく、知らないようにも感じる。
知らない。いや、知らないはずはない。こんな声を出すあの人たちのことを知らないというだけで――決して、知らないわけではない。
泣き声。あるいは、悲壮感に暮れる声。こんな声を出すあの人たち――本来の意味でその人たちのことを定義するとすれば、両親――のことなど、俺は知らない。
俺の前で、あの人たちが泣いたことなど一度だってない。そもそも、近年では、その感情の移り変わりすら、ロクに観測できていない。であるなら、「知らない」と感じても仕方がない――か。
何のために泣いているのだろうか。誰のために泣いているのだろうか。
少し考えれば分かることなのかもしれない。ただ、それを考えるのが億劫で、何よりも怖かった。何が起きているのか、それを認識するのが恐ろしかった。だから――俺は、目を開かなかった。
聞こえてくる音を、ただ認識し続けるだけ。
だけど、その声を聞いちゃいけない気がする。聞いたら、俺の中の何かが壊れてしまいそうな、そんな気がする。
「ええ、ええ、本当に――」
声が聞こえてくる。母親の声だ。誰かと話しているのだろうか。
その声は、やはりどこか悲壮感にあふれていて――それ以上に、どこか、恨みが込められているような気がして――。
ぼそりと呟かれた一言で、その予感は確信に変わった。
「――あの子じゃなくて、桐人が死ねばよかったのに」
―――――――――――――――――――――。
――――――――ああ。
――成程。理解した。
――今度こそ、俺は何もかもを失ったのか。
唐突に。突然に。
――何も、かもを。
俺の持ちうる、全てを。
「恭子……!」
親戚――であろうと思われる人の声。どこか焦ったようにも聞こえるのは、その言葉が不謹慎であると感じたからか。
そんなことは、どうでもいい。
俺は、体を起こして周囲を見渡した。
「き、桐人……!?」
頭に鋭い痛みが走る。
ああ、そうか。成程。
あのときは、気付けなかったけど――結局、突き飛ばされたのは、俺だった、ということ、か。
俺の手は、届かなかった。届きそうで――絶対に、届くことは無かった。
梨桜の突き出した手の方が早かったから。俺の手は、あまりにも遅かったから。
たった一瞬。その一瞬が――生死を分けた。
俺は、梨桜のおかげで生きながらえた。梨桜は、俺のせいで死んでしまった。
違うのよ、とか。どこか言い訳じみた喚きが聞こえてくる。
興味は無い。どうでもいい。
「………………」
俺は、ゆっくりとベッドから降りた。
全身に痛みが走る。当然か。仮にも、交通事故に遭ったのだから。即死は免れたとはいえ、大型車両に撥ねられたんだ。無事であるはずがない。
特に、頭の痛みが酷い。どういう風に撥ね飛ばされたのだろう――とも思うが、やはり、どうでもいい。死ぬのなら、さっさと死んでしまいたい。
何で俺が生き残ってしまったんだろう。何で梨桜が死んでしまったんだろう。
生き残るべきなのはあいつで、死ぬべきなのは俺なのに。
「………………」
無言のままに、病室の外へ出ていく。
引きとめるような声が聞こえたような気がした。……だけど、結局、誰も行動には移さなかった。そもそも、本当に俺のことを心配に思っているのなら、無理やりにでも連れ戻そうとするだろう。ああやって言葉を発しているのは、恐らくはただのポーズ。世間体を気にし続けている、あの人たちならやりかねない行為だ。
振り向くことなく、ゆっくりと歩いて行く。
足が重い。頭が痛い。自然、体のけだるさに任せて、動きもゆったりとしたものになっていく。見えるものもどこかおぼろげで、足元がおぼつかない。
そういえば、腕の感覚も無い。折れているのだろうか? あるいは、麻酔が効いたままなのだろうか。支障が無いのだから、あまり興味も無い。
そうして、ただ誰もいない方へと歩き続けて――気付いた時には、俺は屋上にまでたどり着いていた。
当然のように、人はいない。ただ、干されたシーツが風にあおられてゆらめいているだけだ。
日も傾き始めたこの時間帯、この場所に上がってくるような人もそうはいない、ということだろうか。
屋上の縁のフェンスに寄りかかり、空を眺める。
どんなに望んだとしても、結果は変わらない。時間は巻き戻らない。やりなおすことはできない。
俺の手が、もっと早く動けば。俺の反応が、もっと早ければ――。
そんな風に考えたところで、仕方がないのは分かっている。
手を伸ばしても届かない。手を伸ばしたのに、届かない。
どうしようもないほどに、自分の力不足を感じる。俺の能力が足りていれば、俺が凡人でなければ、こんなことにはなっていなかったはずなのに。
そんな状況に、辟易とすればいいのか、あるいは、絶望すればいいのか。
「橘樹君!」
ふと、そんな折に声が聞こえた。年若い――女性の声だ。
そちらを振り向いて見れば、声と同様に年若い女性がいた。
この病院の看護師だろう。さほど長くは無い髪をナースキャップの内に隠している。
「…………なんです?」
「何です、じゃあなく、君は今怪我人なんだから、出歩いたりしちゃダメよ!」
ああ、なるほど。あの人たちの誰かが、ナースコールでも使って呼び出して、俺を捜すよう言った――ってとこか。
「ほら、お父さんやお母さんたちも心配してるから……」
「本当にそうですか?」
「何言ってるの! 子供のことを心配しない親なんていないのよ?」
「……だったら、何であの人たちが捜しに来ないんですか」
「多分、忙しいんじゃないかしら。それより、早く病室に……」
「戻って、何の意味があるんですか」
率直な――本心からの言葉だった。
戻って行って、何があるのだろう。戻って、現実を突きつけられて、独りになったことを否応にでも実感して、自分が不要であることを思い知らされて――。
理解はしている。これはただの逃げだと。子供のわがままだと。
だからこそ、今はあの人たちに会いたくなかった。
ただの子供のわがままとして。あの人たちに対する、わずかばかりの反抗として。
「俺のことなんて、どうでもいいんです。あの人たちは。俺が死のうと、関係ないんです。あの人たちにとって大事なのは、妹だけだったんです。だから――できるなら、死にたいんです。俺は」
「死んでいい命なんて……!」
「無い。……本当に言い切れるんですか? 少なくとも、あの人たちにとって俺は『いらない』はずです。妹こそが生き残るはずだったのに、俺が生き残って――だから、言われたんです。『桐人が死ぬべきだった』って」
何で、俺はこんなにも見知らぬ人に対して当り散らしているのだろうか。
何で、俺はこんなにも冷めた口調なのだろうか。
今までに、こんな口調ではなかったはずなのに。
今までに、こんな状況じゃあ、冷静でいられなかったはずなのに。
何で、頭の中がすっきりとしているのだろう。
何で、こんなにも頭が回るのだろう。口が回るのだろう。
こんなことを言うような頭は、無かったはずなのに。
「当たり前ですよね。勉強もできない。運動もできない。顔も良くない。運も悪い。こんな人間を、誰が望むんでしょうね」
はは、と乾いた笑いが漏れた。
たたた、と駆けていくような音が聞こえてくる。
耐えきれなくなったのか、あるいは、他の人を呼びに行ったのか。
どちらでもいい。俺には関係の無い話だ。
そうだ。俺は何もできない。ただの人以下の人間だ。
だとしても、梨桜のように思考することはできる。誰かを救おうと、努力することはできる。誰かを救うために、手を差し出すことはできる。
それを望む人がいるのならば、俺はいくらでもこの手を差し出そう。この身を投げうとう。この命を捨ててみせよう。
そうでもしなければ――梨桜が死んだ意味が無い。梨桜が生きた証が、消えてしまう。
事実を認識すると同時、涙が溢れた。
なら、せめて今だけは――。
嗚咽を漏らしながら、傾いていく太陽の中で――俺は、泣いていた。
* * *
あの事故から1年が経った。
1年――学生の身分である俺にとっては相応に長く、しかし、梨桜を喪ったことに対する悲しみは癒えない、そんな微妙な時間だ。
考え方が多少変わったとしても、俺の能力が劇的に変わったわけではない。現実に対して、嫌に冷たい視線を投げかけるようになっただけだ。
故に、俺はクラスの中でも孤立していた。単にカッコつけようと努力し、クールを気取っている馬鹿なのだと思われていた。
それでいい。俺のことはそう思ってくれていればいい。
周囲と不和を起こしていようと構わない。どうでもいい。俺の評価など、塵にも等しいほどには価値が無いのだから。
あれ以来、親とはまともに顔を合わせていない。というより、あちらがこちらに対し、顔を合わせようとしない、というのが正確か。
構わない。その方が、むしろ都合がいい。
ロクに会話をしないということは、相手のことをよく知らないということと同義だ。俺はもうあの人たちのことをよく知らないし、あの人たちも、俺のことをよく分かっていない。俺に欠片と興味を抱いていないのだから、それでいい。
それに――俺の画策していることを考えれば、俺は他人に嫌われていた方が都合がいい。
元々、俺は誰かに好かれるような才能を持ち合わせていない。……が、梨桜に関しては例外だ。能力はともかく――最も近い場所で、最も長く一緒にいたのだから。
ともあれ、俺に関しては、そもそも人に好かれることなど無いことは間違いない。能力的にも人間的にも、他人に著しく劣るような人間を好む人間など、どこにもいないだろう。
好いても嫌ってもいないどうでもいいやつがいなくなったとしても、精神的なダメージは皆無だろう。誰も、心配などすることはない。
あれからずっと、自分にできることを考えてきた。
考えて、考えて――結局、何も分からないことだけが分かった。
だからこそ、自分にできることを探しに行きたい。そう考えて、様々な場所を巡ることを考えた。
ただがむしゃらに、単に他人を助けることだけを考えるのは――悪くは無いが、それでは誰かに迷惑をかけてしまいかねない。
自分を知ること。自分の能力の限界を知ること。多分、それが、人間が行動を起こす上で、最も重要なことなのだろう。
――まずは日本国内。次に欧米諸国。中東。アフリカ。豪州。南米、北米。
そうして巡っているうちに、自分ができることも分かるのではないか――という算段だ。
当然、現実的とは言い難い。それを行うためにも、当然ながら金銭は必要だ。移動手段を確保するに際しては特にそうと言える。
そのためにも、旅の途中途中ででも日雇いのアルバイトを経験しながら進んでいくことにした。結果的に、自分に向いたものが何であるかを知ることができると感じたからだ。
途中途中で必要に駆られる以上、外国語の習得は必須だ。以前から勉強しているのだが、どの国の言語も難解で分かりづらい。それでも習得しなければ、無謀な旅の初めの一歩さえも踏み出すことはできない。
俺は梨桜の代わりにはなれない。
能力も、何もかもが劣る俺が、梨桜の代わりを務まるはずがない。
だけど――そうしたいと思うから。
何よりも、俺が梨桜のことをただの思い出にしないためにも、俺は、誰かに手を差し伸べたい。
謝礼なんて必要ない。ただ、求める声に応じるままに――。
ああ、と俺は頷いた。
償いにはなりえないだろう。贖いにもなりえないだろう。
それでも、俺は――絶対に、あのときのことを忘れない。
手を伸ばせば届くのに、伸ばさないなんて真似はしない。届かなければ、届くだけの努力をしてみせよう。
――俺の心の隙間が埋まるまで、永遠に。
最後まで見ていただいてありがとうございました。
初めての方は初めまして。
そうでない方は、この作品も見ていただきありがとうございます。
この作品の原案は、現在私の執筆している二次創作作品のオリジナルキャラクターの設定から出てきたものですので、そちらを見ていただくと、より理解が深まるかと思います。
ただ、二次創作ということで忌避感を示す方もいるかと思いますので、こちらはこちらだけで完結するようにしてあります。
ともあれ、二次創作の側の作品のことを一切言及しておりませんので、オリジナルの短編として投稿させていただきました。本編に組み込むとなると、かなり無理が生じますので……;
この物語の後のことを軽く説明すると、まず橘樹兄は諸国を練り歩いて語学研修の真似事を行った後、紛争地帯に行ってNGOの手伝いをします。そうしてしばらく見聞を広めたのち、日本に戻って高認を受け、大学の4年間を過ごす……といった具合です。
大学の4年間でも友達はできませんが、そのせいでかなりオタ方面に染まってしまいます。性格や方針に関してはそこまで変わりませんが。
また、これはまったくの余談ですが、二次創作のオリジナルキャラクターに関しては、何名かこの作品の中に登場しています。そちらを一度読まれた、と言う方は、捜したり考察してみるのも面白いかもしれません。
さて、まったく話は変わりますが、この小説で起こりうるもしもの話です。
・もしも桐人の周辺状況が今より改善されていたら?
→ただ少し嫉妬深いだけの凡人以下という位置づけになっていたでしょう。少なくとも、作中のように強烈な確執を持つには至らなかったはずです。
また、妹との関係も作中のようにこじれず、それなりに仲の良い兄妹だったことでしょう。少なくとも、事故も起きません。
・もしも梨桜が死ななかったら?
→『承認欲求 あなざー/親愛欲求編』がスタートします。凡人以下なれど努力家で少々無愛想な兄と、ブラコンが行き過ぎて禁断の恋に発展してしまいそうな腹黒妹などのラブコメに変貌します。もちろんツンデレクーデレ無口気弱ロリなどなんでもアリです。登場人物が肥大化します。
嘘です。流してください。そういう予定は現在ありません。
ともあれ、最後までこの駄文と駄文書きに付き合っていただき、本当にありがとうございました。
次回の投稿がいつになるかは分かりませんが、いずれまた会う日まで。




