婚約破棄ですか?それでは、願いを叶えて差し上げます
王宮の大広間には、着飾った貴族たちが集まっていた。
今日は王太子殿下の誕生日を祝う夜会である。
豪華なシャンデリアが天井から吊るされ、壁際には色とりどりの花が飾られている。楽団の演奏に合わせて、貴族たちは楽しそうに談笑していた。
そんな華やかな会場の中央で、私は王太子殿下に呼び止められていた。
「アデリア。話がある」
「はい、殿下」
「ここで話そう」
「ここで、ですか?」
「ああ。皆にも聞いてもらいたいことがある」
私は周囲を見回した。
なるほど。
すでに何人かの貴族がこちらを見ている。
王太子殿下の隣には、淡い桃色のドレスを着た女性が立っていた。
名前はミレーヌ男爵令嬢。
最近、殿下と親しくしているという噂の女性である。
私は二人を交互に見た。
そして、なんとなく察した。
「アデリア。お前との婚約を破棄する」
殿下は堂々と言い放った。
会場が静まり返る。
「理由は、お前が私にふさわしくないからだ」
「そうですか」
「お前はいつも私の行動に口を出し、私の自由を奪ってきた。私が何をしようと、お前は小言ばかりだ」
「なるほど」
「それに比べて、ミレーヌは違う。彼女は私を理解してくれる。私の考えを否定せず、いつも優しく接してくれる」
「それはよかったですね」
「……何?」
「ミレーヌ様は殿下にとって素晴らしい方なのですね」
殿下は少し眉をひそめた。
もっと取り乱すと思っていたのだろう。
しかし、私は特に驚いていなかった。
そもそも、殿下との婚約は父が決めたものだ。
私は殿下のことを嫌ってはいなかったが、特別好きだったわけでもない。
それに、殿下が自由を奪われたとおっしゃるなら、私としても思い当たることはある。
朝の起床時間。
食事の時間。
勉強の時間。
公務の時間。
すべて私が管理していた。
だって、殿下は放っておくと昼過ぎまで寝ているし、食事は甘い菓子ばかり食べるし、公務は忘れるし、勉強はしないのだ。
王太子妃になる予定だった私は、それらを少しでも改善しようと努力していた。
けれど、殿下がそれを自由の侵害だとおっしゃるなら、仕方がない。
「承知いたしました」
「……承知した?」
「はい。婚約破棄をお受けいたします」
殿下は黙り込んだ。
ミレーヌ様も困ったようにこちらを見ている。
「本当にいいのか?」
「はい」
「後悔しないのだな?」
「もちろんです」
殿下は少しだけ口元を緩めた。
「そうか。ならばいい」
「それでは、最後に一つだけ確認させてください」
「何だ?」
「これまで私が担当していた殿下の補佐についてですが、今後はどなたが引き継がれるのでしょうか?」
「補佐?」
「はい」
私は指を折りながら説明した。
「毎朝の予定確認、食事の管理、衣装の手配、贈答品の管理、各貴族への返礼、書類の整理、会議の準備、視察先の選定、予算の確認、それから……」
「待て」
殿下が手を上げた。
「何だ?」
「それらはすべて、お前がやっていたのか?」
「はい」
「私はそんなことを頼んだ覚えはないぞ」
「そうですね。殿下が頼まれる前に、私が勝手にやっておりました」
「ならば、もう必要ない!」
「かしこまりました」
私は深く頭を下げた。
「それでは、明日から一切手を出さないことにいたします」
「それでいい!」
殿下は満足そうに頷いた。
ミレーヌ様も微笑んでいる。
私は二人に挨拶をして、その場を離れた。
これでようやく、自由になれる。
そう思うと、少しだけ嬉しかった。
*
翌朝。
王宮の執務室では、王太子殿下が大きなあくびをしていた。
「眠い……」
机の上には大量の書類が積み重なっている。
いつもなら、朝一番にアデリアがやってきて、今日の予定を説明してくれる。
しかし、今日は誰も来ない。
「おい、誰かいないのか!」
殿下が声を上げると、侍従が一人入ってきた。
「お呼びでしょうか」
「アデリアはどうした?」
「アデリア様でしたら、本日より殿下の補佐を辞退されました」
「そうだったな」
殿下は鼻を鳴らした。
「ならば、代わりの者を呼べ」
「どのような業務を引き継がせればよろしいでしょうか?」
「いつもアデリアがやっていたことだ」
「具体的には?」
「……知らん」
侍従は困った顔をした。
「では、確認してまいります」
しばらくして、侍従が戻ってきた。
「殿下。アデリア様が担当されていた業務を確認いたしました」
「うむ」
「まず、本日の予定ですが、午前八時に財務大臣との会議、九時に騎士団長との面談、十時に隣国大使との会食がございます」
「そんなにあるのか?」
「はい。午後には地方領主との会議と、王立学園への視察がございます」
「多すぎる!」
「それから、先日お約束された寄付金の件ですが、本日中に書類を提出する必要がございます」
「何だ、それは?」
「孤児院への寄付でございます」
「そんな約束をした覚えはないぞ」
「先月、アデリア様が殿下に確認された際、殿下は『好きにしていい』とお答えになったそうです」
「……」
殿下は額を押さえた。
「もういい。会議は全部延期しろ」
「承知いたしました。では、各所へ連絡いたします」
侍従が部屋を出ていく。
殿下は椅子に深く腰掛けた。
これまで、朝の予定など気にしたことがなかった。
いつもアデリアが用意してくれていたからだ。
それに、食事もそうだった。
机の上には、冷めた紅茶と硬いパンが置かれている。
「今日の朝食はこれだけか?」
「はい。厨房には通常の朝食を用意するよう伝えております」
「アデリアなら、もっと豪華なものを用意してくれたぞ」
「アデリア様は、殿下の健康を考えて献立を調整されていたそうです」
「健康?」
「甘いものを控えるように、と何度もおっしゃっていたそうです」
殿下は不満そうにパンをかじった。
「まったく。余計なお世話だったな」
*
三日後。
殿下はミレーヌ様を執務室に招いていた。
「ミレーヌ。今日は一緒に昼食を取ろう」
「まあ、嬉しいです」
「好きなものを食べるといい。何でも注文して構わない」
「ありがとうございます」
ミレーヌ様は嬉しそうに微笑んだ。
しかし、しばらくすると彼女は困ったように首を傾げた。
「殿下、今日の午後は何かご予定があるのですか?」
「いや、特にない」
「でしたら、庭園を散歩しませんか?」
「いいな。そうしよう」
殿下は侍従を呼んだ。
「今日の午後の予定は?」
「午後二時から、騎士団の訓練をご覧いただく予定でございます」
「そんなものは延期だ」
「承知いたしました」
「それから、夕方には父上との面談があったな?」
「はい」
「それも延期しておけ」
「……かしこまりました」
侍従は一礼して部屋を出ていった。
ミレーヌ様は嬉しそうだった。
「殿下はお優しいですね」
「そうだろう?」
「私のために予定を変更してくださるなんて」
「当然だ。これからは、お前との時間を大切にしたい」
殿下は満足そうに笑った。
ところが、その日の夕方。
国王陛下から呼び出しがあった。
「ユリウス。今日の騎士団の視察はどうした?」
「延期しました」
「何故だ?」
「ミレーヌと庭園を散歩するためです」
国王陛下はしばらく黙っていた。
「財務大臣との会議は?」
「延期しました」
「隣国大使との会食は?」
「それも延期です」
「……お前は何をしている?」
「何を、と言われましても」
「王太子としての仕事はどうした?」
「それは、明日からやります」
国王陛下は深く息を吐いた。
「アデリア嬢はどうした?」
「婚約を破棄しました」
「知っている」
「これからはミレーヌと一緒に過ごすつもりです」
「それは構わん。だが、アデリア嬢が担当していた仕事はどうする?」
「別の者に任せます」
「その別の者は見つかったのか?」
「まだです」
国王陛下は目を閉じた。
「……お前は、アデリア嬢がどれほどの仕事をしていたか理解していなかったのか?」
「彼女が勝手にやっていたことです」
「そうか」
国王陛下はそれ以上何も言わなかった。
*
一週間後。
私は自宅の庭で紅茶を飲んでいた。
婚約破棄から一週間。
驚くほど穏やかな日々だった。
朝は好きな時間に起きる。
昼は好きなものを食べる。
午後は庭園を散歩したり、読書をしたりする。
夜は早く寝る。
こんな生活ができるとは思っていなかった。
「お嬢様」
侍女のクラリスが声をかけてきた。
「どうしたの?」
「王宮からお手紙が届いております」
「王宮から?」
「はい。王太子殿下からです」
私は少し考えた。
「読んでみて」
クラリスが封筒を開ける。
中には短い文章が書かれていた。
『アデリア。明日の朝、いつものように執務室へ来い。話がある』
私は紅茶を飲んだ。
「断っておいて」
「よろしいのですか?」
「ええ。もう婚約者ではないもの」
「では、どのようにお返事を?」
「そうね……」
私は少し考えた。
「今後、殿下のご予定につきましては、王宮の担当部署にお問い合わせください、と伝えて」
「承知いたしました」
*
翌日。
王宮では、王太子殿下が執務室の机を叩いていた。
「何故来ない!」
「アデリア様は、もう殿下の補佐ではございませんので」
「そんなことはわかっている!」
「では、どうなさいますか?」
「呼べ!」
「お呼びしましたが、お断りになられました」
「もう一度呼べ!」
「それもお断りになられるかと」
「何故だ!」
侍従は答えなかった。
殿下は苛立ちながら、机の上に積まれた書類を見た。
どれも自分で処理しなければならないものだった。
「……アデリアは、これを全部一人でやっていたのか?」
「はい」
「どうして今まで言わなかった!」
「何度もお伝えしていたかと存じます」
「……」
殿下は黙った。
そこへミレーヌ様が入ってきた。
「殿下、お待たせいたしました」
「ミレーヌ!」
「今日は何をいたしましょう?」
「そうだな。庭園へ行こう」
「よろしいのですか?」
「構わん」
ミレーヌ様は微笑んだ。
しかし、侍従が口を挟んだ。
「殿下。本日は国王陛下との面談がございます」
「延期だ」
「先日も延期されております」
「ならば、今日も延期だ!」
「国王陛下からは、必ず出席するようにとのご命令がございます」
殿下は顔をしかめた。
「……わかった」
ミレーヌ様は少しだけ残念そうな顔をした。
*
さらに一週間が過ぎた。
私は王宮から届いた手紙を読んでいた。
差出人は王太子殿下だった。
『アデリア。お前が担当していた仕事の引き継ぎがうまくいかない。少し手伝ってほしい』
私は手紙を机に置いた。
「クラリス」
「はい」
「これ、どうしたらいいと思う?」
「お返事をなさるのですか?」
「そうね。何か書いておいた方がいいかしら」
私は羽ペンを手に取った。
そして、こう書いた。
『殿下。婚約破棄の際、私が担当していた業務はすべて不要だとおっしゃいました。ですので、現在の業務につきましては、殿下ご自身で必要性をご判断くださいませ』
書き終えて、封筒に入れる。
クラリスが尋ねた。
「少々厳しいのではございませんか?」
「そう?」
「殿下はお困りのようですので」
「でも、殿下は私に自由を奪われていたとおっしゃっていたでしょう?」
「そうでしたね」
「だから、これからは自由にしていただこうと思って」
私は笑った。
*
その翌週、国王陛下から正式な呼び出しがあった。
私は王宮へ向かった。
国王陛下は執務室で待っていた。
「アデリア嬢。久しぶりだな」
「ご無沙汰しております、陛下」
「突然呼び出してすまない」
「いえ」
国王陛下は少し困ったような顔をしていた。
「ユリウスのことなのだが」
「殿下ですか?」
「そうだ。お前が担当していた業務について、引き継ぎがうまくいっていない」
「そうなのですか」
「それで、可能であれば、少し手伝ってもらえないだろうか」
私は首を傾げた。
「陛下。私はすでに婚約を破棄されております」
「わかっている」
「殿下からも、私の補佐は必要ないと明言されました」
「そうだったな」
「ですので、私が再び仕事をする理由はございません」
国王陛下は黙った。
私は続けた。
「ただし、引き継ぎに関する資料であれば、お渡しできます」
「本当か?」
「はい。すべて整理してあります」
私は鞄から分厚い書類の束を取り出した。
国王陛下は目を丸くした。
「これは……」
「殿下の業務一覧です。必要な手続き、関係者、期限、注意事項などをまとめております」
「ここまで用意していたのか」
「はい。いつか誰かに引き継ぐことになると思っておりましたので」
国王陛下は書類をめくった。
そこには、細かい文字でびっしりと情報が書き込まれていた。
「アデリア嬢。お前は本当に優秀だな」
「ありがとうございます」
「もしよければ、王宮に戻って仕事をしてくれないか?」
「申し訳ありません。お断りいたします」
「そうか……」
「私は今の生活が気に入っておりますので」
国王陛下は少し寂しそうに笑った。
「そうだな。無理を言ってすまなかった」
「いえ」
私は立ち上がった。
「それでは、失礼いたします」
*
その日の夕方。
私は王宮の庭園を歩いていた。
すると、向こうから王太子殿下がやってきた。
「アデリア!」
「殿下」
「父上から聞いたぞ。仕事の資料を渡したそうだな」
「はい」
「ならば、ついでに仕事も手伝ってくれればよかっただろう!」
「申し訳ありません。お断りいたしました」
「何故だ!」
「私はもう殿下の婚約者ではございませんので」
「それはわかっている!」
「では、何故お怒りなのですか?」
「お前がいなくなってから、何もかもうまくいかないのだ!」
「それは大変ですね」
「大変ですね、ではない!」
殿下は頭を抱えた。
「私はただ、お前に少し自由にしてほしかっただけなのだ!」
「そうでしたか」
「だが、こんなことになるとは思わなかった!」
「そうですか」
「お前はもう少し、私のことを考えてくれてもいいだろう!」
私はしばらく殿下を見つめた。
そして、静かに尋ねた。
「殿下。私が婚約者だった頃、殿下は私のことを考えてくださったことがございますか?」
「……何?」
「私が毎日どれほどの仕事をしていたか、ご存じでしたか?」
「それは……」
「私が殿下のために予定を調整し、書類を整理し、関係者と連絡を取り、問題が起きないように準備していたことをご存じでしたか?」
「……」
「殿下は、それをすべて私が勝手にやっていたことだとおっしゃいました」
私は微笑んだ。
「ですから、これからは勝手にやらないことにしたのです」
殿下は何も言えなかった。
「それでは、失礼いたします」
私は頭を下げて、その場を離れた。
*
それから一か月後。
王太子殿下は、王宮の仕事を少しずつ覚え始めたらしい。
最初は大変だったようだが、侍従や大臣たちに教わりながら、なんとかやっているという。
ミレーヌ様も殿下を支えているらしい。
私はというと、実家の領地でのんびり暮らしていた。
父からは、別の縁談を勧められている。
今度は、王族ではない。
領地を持つ若い伯爵だそうだ。
私はその話を聞いて、少しだけ興味を持った。
今度は、仕事を押し付けられない相手がいい。
そんなことを考えながら、私は庭園で本を読んでいた。
そこへクラリスがやってきた。
「お嬢様。王宮からお手紙です」
「また?」
「はい。王太子殿下からです」
「何でしょう」
私は封筒を受け取った。
中には一言だけ書かれていた。
『アデリア。お前の仕事がどれほど大変だったか、ようやくわかった』
私は少し考えた。
そして、返事を書いた。
『ご理解いただけて何よりです。今後ともご自身のお仕事を大切になさってください』
それだけ書いて、封をした。
クラリスが尋ねる。
「お返事を出されるのですか?」
「ええ」
「もう殿下とは関係ないのでは?」
「そうね」
私は紅茶を飲んだ。
「でも、せっかくお手紙をいただいたのですから」
窓の外では、春の花が咲いていた。
私は本を開き直した。
ようやく手に入れた自由な時間だ。
今度こそ、誰にも邪魔されずに過ごそうと思う。




