ダンジョンで拾った卵から美少女が生まれたので、まずは役所に相談しました
午前二時、こたつの中で、ぱき、と乾いた音がした。
寝落ちしかけていた俺は、まず天板の湯呑みを疑い、次に自分の膝を疑ってから、ようやく布団をめくった。こたつの赤い光の中で、卵が割れていた。
三日前、北口迷宮の第三層で拾った卵だ。壁の窪みにすっぽり収まっていた、両腕で抱えるほどの白い卵。出口のゲートでいつもどおり拾得届を出すと、鑑定機は「卵型遺物・生体反応なし・推定価値八百円」と印字した。置物だ。俺は書類にサインして、正式に自分の物として持ち帰った。届け出を怠って罰金を食らった探索者のニュースを見て以来、小石一つでも届けている。そういう人間が拾った、八百円の置物のはずだった。それが二日目からほんのり温かくなり、寒いのかと思ってこたつに入れたのは、一人暮らしの夜の気の迷いだった。
殻の裂け目が広がって、内側から白い膜に包まれた腕が出てきた。
鳥ではなかった。トカゲでもなかった。
殻を押しのけて身を起こしたのは、人間だった。女の子だった。卵膜が布のように体に沿って、袖のない白い簡素な服の形になっている。迷宮の生き物は外皮を持って生まれる、とどこかで聞いた気がするが、それがこういう意味だとは思わなかった。肩までの白い髪が濡れていて、こちらを見上げる目は黒い。十五か、十六くらいに見えた。
人間だ。女の子だ。どうする。
頭の中で同じ三つが回っているあいだに、女の子は小さく口を開いた。
「……はら、へった」
俺の言い方だった。夜勤明けに玄関で靴を脱ぎながら、毎朝言っているやつだ。
考えるより先に体が台所へ向かったのは、問いがはっきりしていたからだと思う。腹が減っている人がいたら、何か食べさせる。冷蔵庫を開けて冷やご飯のタッパーと卵を一つ取り出し、茶碗にご飯をよそい、卵を流しの角に当てようとして、手が止まった。
振り返ると、殻のかけらの中に座った女の子が、じっとこちらを見ていた。
俺は卵を、そっと冷蔵庫に戻した。
代わりにお茶漬けの素を振りかけてポットのお湯を注ぎ、箸はまだ無理だろうと思ってスプーンを添えた。お湯がぬるかったのか、こたつの天板に置いた茶碗からは、湯気がほとんど立っていなかった。
女の子が茶碗を両手で包むと、中から湯気がふわりと立ちのぼった。
次にスプーンを握った。握った瞬間、スプーンの首がくにゃりと曲がった。
女の子は曲がったスプーンを不思議そうに眺め、それから曲がったまま器用にお茶漬けをすくって、口に運んだ。
「……おいしい」
俺はスプーンの値段を考えた。百円ショップで四本組だった。考えられることが、それしかなかった。
食べ終えると、女の子のまぶたがとろんと下がってきた。押し入れから布団を出して、ここで寝ていいと言うと、素直に潜り込んだ。布団はそれ一組しかないので、俺は台所の床に座布団を三枚並べた。
布団の端から顔を出して、女の子が俺を見た。
「つぎは、やくしょ」
「……え?」
返事はなかった。もう寝息を立てていた。
飯、布団、役所。順番が妙にきちんとしている。俺はそんなことを言っただろうか。言ったとしても、いつ、誰に。段取りのいい子だな、と感心しかけて、感心している場合ではないと思い直した。
台所の床で、スマホに「ダンジョン 卵 人間 生まれた 相談」と打ち込んだ。検索結果はゼロ件だった。言い換えても、ゼロ件だった。
天井を見上げて、俺は決めた。役所だ。
それから、なぜか本棚からノートを一冊抜き出して、一ページ目に「午前二時十分 孵化」と書いた。
*
翌朝の市役所で、女の子は番号札を両手で握りしめていた。
俺のジャージの袖を三回折り、裾を二回折り、足には俺のサンダル。番号札は緑色のプラスチックで、「42」と書いてある。発券機から札が出てきたときの顔は、くじにでも当たったようだった。
総合案内で「迷宮から人が出てきたんですが」と言うと、案内の女性は笑顔のまま三秒ほど固まり、市民課へどうぞと言った。市民課では福祉課へと言われ、福祉課では、迷宮のことでしたら市民課の奥に担当がございます、と言われた。俺たちは庁舎の一階を一往復半して、もとの待合に戻ってきた。
待っている間、女の子は番号が呼ばれるたびに立ち上がった。三十八番で立ち、三十九番で立つ。袖を引いて座らせ、四十番のときにようやく、自分の札の数字と見比べることを覚えた。それからは座ったまま、待合のラックからパンフレットを一冊ずつ抜いて読みはじめた。「ごみの出し方」「国民健康保険のご案内」「住民票の写しの請求について」。ページをめくる速さが、読むというより眺めているみたいだったので、俺は気にしなかった。静かにしていてくれるなら、それでいい。
一度だけ、女の子は身を乗り出した。窓口の職員が書類に判を押す、とん、という音のときだった。紙に朱色の丸が残るのを、まばたきもせずに見ていた。
迷宮対策室は、市民課のカウンターの一番奥、観葉植物の陰にあった。机が二つ。片方は空席で、もう片方に五十代後半くらいの女性が座っていた。名札には「迷宮対策室 主任 真壁」とある。
「では、順番にうかがいます」
真壁さんは用紙を一枚出した。俺が経緯を話す間、ほとんど表情を変えなかった。卵が割れたところでも、女の子が出てきたところでも、お茶漬けのところでも。俺は拾得届の控えと、ついでに昨夜のノートも出した。孵化の時刻、スプーン、茶碗の湯気。真壁さんはノートにも目を通して、「助かります」とだけ言った。
それから控えをもう一度読み、少し考えてから顔を上げた。
「法律上、この子は今、あなたの所有物です」
何か言おうとして、何も出てこなかった。隣で女の子が「しょゆうぶつ」と繰り返した。新しい言葉を覚えたときの言い方だった。
真壁さんは淡々と続けた。所有物でいる間は、差し迫った危険がなければ、すぐに誰かに連れて行かれることはない。ただ、危険度によっては個人宅に置くための許可が要り、それはE級の探索者にはまず下りない。それから、迷宮資源管理法の附則に、人の姿をした迷宮由来の者を人として扱う条文があること。
「出現直後に三件。それから十八年、誰も使っていない条文です。所有登録された方の例は、ありません。手続きを確認しますので、少しお時間をください」
手順ですので、と真壁さんは引き出しから携帯型の測定器を出し、女の子の手首に当てた。表示の数字が一瞬で端まで振り切れ、甲高い電子音が鳴った。待合の何人かがこちらを見た。
「自動通報されました」
「止められないんですか」
「止められたら、測定器の意味がありませんので」
真壁さんは眉一つ動かさずに測定器をしまった。
「明日の十時に、もう一度来てください。管理局からも、それまでに連絡があると思います」
俺が頭を下げている横で、女の子がカウンターのボールペンを握った。真壁さんの名札の字をまねて書こうとしたらしい。ペン先が紙に触れる前に、ボールペンは、ぱきん、と真ん中で折れた。
真壁さんは何も言わずに、引き出しから二本目を出した。
*
午後は服を買いに行った。
駅前の衣料品店の婦人服売り場で、俺は三分ほど立ち尽くした。何がどこにあるのか、何をどれだけ買えばいいのか、見当もつかない。結局、店員さんに「親戚の子が、急に、身一つで来ることになりまして」と頭を下げた。親戚ではないが、身一つなのは本当だ。
店員さんが下着や靴下を手早くかごに入れてくれる間、女の子はTシャツの棚の前から動かなかった。選んだのは、白地に猫の絵が描いてある一枚だった。
「タマだから」
俺が卵を呼んでいた名前だ。朝から彼女はずっとそう名乗っている。猫の名前だぞと言っても、気に入っているらしかった。
会計を終えると、タマは店員さんに言った。
「領収書、もらっとこ」
店員さんが吹き出した。それも俺の口癖だった。
店を出てから、財布を開けて残りを数えた。家賃の引き落としまで十日。二人分の食費を頭の中で計算しかけて、やめた。やめても数字は消えなかったが、最後まで計算しない方がいいときもある。
夜勤の同僚に電話をかけて、今夜のシフトを代わってもらった。代わりに来週、二回多く入る約束をした。電話を切ると、タマが袖を引いた。
「ワタル、しごと?」
「今日は休み」
それだけ答えた。
帰り道、日の暮れかけた公園を抜けた。十一月の夕方は冷える。芝生にはもう霜が降りはじめていて、俺は盛大にくしゃみをした。
タマが俺の顔を見上げた。
「さむい?」
答える前に、小さな両手が俺の手に重なった。
温かい、と思った次の瞬間、足元で、しゅう、と音がした。俺たちの周り数メートルの芝生の霜が一斉に溶けて、白い湯気が立ちのぼっていた。頭の上で公園の街灯が全部いっぺんにちらつき、一番近くの一本が、ばちん、と消えた。
「止めて」
思わず言っていた。タマはすぐに手を離した。湯気が薄れ、街灯のちらつきが収まった。消えた一本だけが暗いままだった。
「あったかかった?」
タマは首をかしげて俺を見ていた。何が起きたのか分かっていない顔だった。俺の手には、まだ熱が残っていた。
「……あったかかった」
それしか言えなかった。その夜、俺はノートに「公園。手が熱くなる。霜が溶け、街灯が一本消えた。止めてと言ったら止まった」と書いた。
アパートの階段で大家さんに会った。七十を過ぎた、話好きの人だ。親戚の子をしばらく預かることになったと話し、風呂の使い方を教えてやってもらえないかと頭を下げた。大家さんは猫のTシャツの袋を覗き込み、「あら、いいわよ」と引き受けてくれた。
夕飯のご飯は、タマが炊いた。昼に俺が米を研いで炊飯器のスイッチを入れるのを一度見ただけで、夜は全部自分でやった。水の量まで正確だった。
野菜炒めをつつきながら、タマが言った。
「ワタル、やちん、まってもらった。おおやさんに」
「……なんで知ってる」
「たまごのなかで、きいた」
箸が止まった。
卵の中で。三日間、俺が置物に向かって喋っていたことを、全部。倉庫のフォークリフトの話も、家賃の話も。
「ワタル、よる、『おれだって、がんばってるんだけどな』って、いった」
「それは忘れてくれ」
「にかい、いった」
野菜炒めに顔を埋めたくなった。
タマは茶碗を置いて、少し考えるような顔をした。それから、俺の言い方そのままで言った。
「まず飯な。それから布団。あとは……やくしょか。なんだろうと、ちゃんと、とどけでてやるから」
思い出した。二日目の夜だ。卵が温かくなったのに気づいて、こたつに入れながら言った。鳥かトカゲが出てくると思っていた。冗談のつもりだった。
だから、つぎはやくしょ、だったのだ。
タマはご飯を食べ終えると、冷蔵庫の方を見た。
「ワタル、たまご、たべないの?」
朝も昼も、俺は卵を避けていた。
「……しばらく、いい」
タマはそれ以上聞かなかった。
チャイムが鳴ったのは、八時過ぎだった。
ドアの外には、紺のコートの若い男が立っていた。二十代の後半くらいで、身分証を顔の高さに掲げ、迷宮管理局生体遺物係の氷室です、と名乗った。
「本日、市役所で測定された数値について通報を受けました」
氷室さんは手帳を開き、数値を読み上げた。意味の分からない単位だったが、桁が多いことだけは分かった。
「規定により、今夜から一時保護として、管理局の施設にお移りいただきます」
丁寧な口調だった。強引なところはなかった。ただ、引く気配もなかった。
「本人の意思は」
「ご本人の希望は伺います。ただ、希望だけでは収容の手続きは止められません」
氷室さんは俺の肩越しに六畳の部屋を見た。こたつと、布団と、台所に並んだ座布団。
「外見が十五、六歳の方を、成人男性が一人で暮らす部屋に置くことについても、確認が必要です」
「俺は台所で寝ます。風呂は大家さんに頼みました」
氷室さんは手帳に何か書いた。納得したのかどうか、顔からは読めなかった。
俺は部屋に戻り、引き出しから拾得届の控えを出した。玄関に戻る間、手の中で紙がかさかさ鳴った。
「この子は、俺の所有物です。所有者の同意なしに、連れて行けないはずです」
氷室さんは控えを受け取って読み、俺に返した。
「差し迫った危険がなく、所有者が監督を引き受けるのであれば、明日の面談で処遇を決めるまでは認められます。今夜だけです」
それから、と氷室さんは続けた。個人宅での保有許可は、E級の探索者には下りない。ただ、所有者のまま管理局の施設に預託する方法がある。所有権は残る。面会もできる。安全は保証される。
「明日の面談で、預託の書類もお持ちします」
ドアが閉まった。
今夜は連れて行かれずに済んだ。それなのに、預託という言葉は、困ったことに、悪くない道に聞こえた。
振り向くと、タマが布団の上に座っていた。
「わたしは、ワタルの、もの?」
答えられなかった。
「……今夜だけ、そういうことにしといてくれ」
やっと出てきたのが、それだった。
俺はこたつに入り、向かいにタマを座らせた。説明は苦手だが、言葉を選べば伝わるはずだった。この子は、待合のパンフレットを端から読む子だ。
道は二つある、と俺は言った。
一つは、預けること。管理局の安全な場所で暮らす。俺の物のままで、俺は会いに行ける。
もう一つは、役所で、人として届け出ること。通れば、ここで一緒に暮らせるかもしれない。通らなかったら、もう会えないかもしれない。それに、通っても、どこで暮らすかはタマが決めることになる。
「俺は、預ける方がいいと思う」
言いながら、それが正しいと思っていた。俺はE級で、夜勤で、六畳一間だ。公園の街灯は、まだ一本消えたままになっている。
タマはしばらく黙っていた。それから聞いた。
「しせつは、あんぜん?」
「安全だと思う。少なくとも、ここよりは」
「ワタルは、あいにくる?」
「行く。休みの日は」
嘘はつかなかった。タマは自分の両手を見下ろして、指を一本折った。
「あいにくる、は、ときどき」
もう一本、折った。
「いっしょにごはん、は、まいにち」
顔を上げた。
「まいにちが、いい」
すぐには頷けなかった。
預けるより不確かな道を、この子に選ばせていいのか。通らなかったらどうする。通ったとしても、俺に支えきれるのか。夜勤の給料で、六畳一間で。
それでも、毎日がいいと言われた。ゆうべ生まれたばかりの子が、たった一日分の暮らしを指で数えて、そっちがいいと言った。
分かった、と俺は言った。
夜、タマはチラシの裏で字の練習をしていた。パンフレットで覚えたのだろう、「住所」「氏名」「燃えるごみ」と、ちゃんとした漢字が並んでいる。鉛筆を握るたびに芯が折れて、ちゃぶ台の上に黒い粒がたまっていった。
何本目かで、タマが顔を上げた。
「なまえ、どうかくの?」
カタカナで書けば済む。けれど、ちゃんとした字があってもいい気がした。少し考えて、俺はチラシの端に「珠」と書いた。
「たま、って読む。宝石とか、そういう、大事な丸いもの」
タマはその字をじっと見て、それから書きはじめた。一回目は芯が折れた。二回目も折れた。四回目あたりから、折れなくなった。チラシの裏が「珠」でいっぱいになるまで、彼女は書き続けた。
俺は台所で、鞄に拾得届の控えと印鑑を入れた。少し迷って、ノートも入れた。
*
翌朝十時、市役所の小会議室には、長机が向かい合わせに並べてあった。片側に真壁さんと氷室さん、もう片側に俺とタマ。タマは猫のTシャツを着ていた。氷室さんの前には、約束どおり預託の書類が置いてあった。
真壁さんが条文を読み上げた。
「迷宮資源管理法附則第七条。人の形をなし、言葉によって自らの意思を表示しうる迷宮由来の者は、本人の申出により、人として取り扱う」
読み終えると、真壁さんは俺たちの方を向いた。
「まず、所有物のままで、聞き取りを行います。三好さんは同席していただいて構いませんが、答えないでください」
氷室さんがタマの方を向いた。
「人として扱われると、何が変わるか分かりますか」
タマは背筋を伸ばした。
「じゅうみんに、なります。ぜいきんと、ほけんの、きまりがあります。こまったら、まどぐちに、そうだんできます」
そこまでは立派だった。
「燃えるごみは、月曜と木曜。缶とびんは、別」
今それか、と俺は思った。会議室の空気が、ほんの少し緩んだ。真壁さんの口元が、気のせいかもしれない程度に動いた。
氷室さんの表情は変わらなかった。
「それは、待合のパンフレットに書いてあることですね」
「はい。よみました」
タマはあっさり認めた。氷室さんはペンを持ち直した。
「では、パンフレットに書いていないことを伺います。三好さんと意見が違ったら、どうしますか」
タマは少しも迷わなかった。
「きのう、ちがいました。ワタルは、あずけるほうがいいって、いいました。わたしは、いやだって、いいました」
俺は膝の上で手を握った。答えてはいけないと言われている。言えることも、たぶんなかった。
氷室さんは一度だけ俺の方を見てから、手帳に書きつけた。
「三好さん。そのノートを拝見できますか」
鞄からノートを出して渡すと、氷室さんはページをめくり、公園の記述のところで手を止めた。止めてと言ったら止まった、の一行を指でたどってから立ち上がり、部屋の隅のポットの横から湯呑みを一つ持ってきた。朝に誰かが淹れて、そのまま冷めたお茶らしかった。
「このお茶だけを温めてください。私が止めてと言ったら、止めてください」
タマは湯呑みを両手で包んだ。
俺は息を止めていた。公園の霜が頭にあった。机が焦げたら。書類が燃えたら。
湯呑みから、細い湯気が立ちのぼった。机は何ともなかった。隣の預託の書類も、端がめくれさえしなかった。
「止めて」
タマはすぐに手を離した。氷室さんは湯呑みの縁に指を当てて温度を確かめ、ノートに一行書き足した。俺の字の下に、俺のよりずっと整った字で。
「事前の聞き取りと確認の結果、申出の意思と、当面の制御を認めます。正式な受理は、申出を経てからになります」
真壁さんが書類を一枚、俺の前に置いた。所有権放棄届。その横には、預託の書類が並んでいた。
「正式な申出は、誰の所有物でもない方にしかできません。所有登録が残ったままでは、ご本人名義で受け付けられない決まりです」
真壁さんの言葉に、氷室さんが続けた。
「放棄されたあとは、三好さんは所有者として、この方に何かを命じる立場ではなくなります」
二枚の紙の前で、俺はしばらくペンを取れなかった。
もう決めてきた。ゆうべ、分かったと言った。今の確認を見れば、たぶん通る。だから怖いのは、通るかどうかではなかった。これに署名したら、帰ったあとの毎日は、俺が支えることになる。夜勤の給料と、六畳一間で。来週は二回多く入る。その次の週も、たぶんそうなる。
ペンを取った。三好航、と書く手が震えていた。印鑑を押すと、朱色の丸が少しかすれた。
「物として持ってるのは、今日で終わりにします」
言ってから、もう少し何か言うべきだったかと思ったが、何も思いつかなかった。
氷室さんがタマに向き直った。
「あなたは、人として扱われることを申し出ますか」
真壁さんが申出書をタマの前に置いた。ボールペンが二本並べてあった。
タマは一本目を手に取り、氏名欄の前で止まった。
動かなかった。字を思い出そうとしているのか、ためらっているのか、俺には分からなかった。ペンを持つ手が、わずかに揺れていた。
俺は口を開きかけた。大丈夫だ、とか、急がなくていい、とか、そういうことを言いかけて、自分で閉じた。
真壁さんは何も言わなかった。窓の外を車が一台通り過ぎるまで、ただ待っていた。
タマが書いた。
昨日、窓口で真ん中から折れたのと同じ型のボールペンは、今日は折れなかった。
珠
大きくて、少し右に傾いた字だった。ゆうべ、チラシの裏に何十回も書いた字だった。
氷室さんが、その手元を見ていた。
理由欄の前で、珠が俺を見た。俺は小さく頷いた。珠は前を向いて、一字ずつ書いた。
ごはんをたべて、ふとんでねて、やくしょにきました。あしたも、ワタルと、ごはんをたべたいです。
ひらがなばかりの、行の傾いた文だった。俺はそれを、隣から読んだ。
真壁さんが申出書を受け取り、最初から最後まで読んだ。それから引き出しを開けて判を取り出し、朱肉に押しつけた。
とん、と音がした。
珠が身を乗り出していた。窓口で見ていたときと同じ顔だった。真壁さんが判を上げると、紙の上に朱色の丸が残った。珠はそれを見て、自分の手の甲をすっと差し出した。
「それ、わたしにも」
「書類にしか押せません」
真壁さんの声はいつもどおりだったが、氷室さんが咳払いを一つした。
真壁さんは判をしまい、珠の方を向いた。
「保護先について、ご本人に伺います。どちらに帰りますか」
珠は答えた。
「ワタルのうち」
喉が詰まって、何も言えなかった。
氷室さんは収容の手続きを取り下げると言い、預託の書類を鞄に戻した。代わりに、自宅で暮らすための条件を読み上げた。能力を人に向けて使わないこと。家電や公共物に触れて熱を出さないこと。異常があったときの連絡先。一週間後に一度、以後は月に一度の面談。珠が誓約書に名前を書き、俺が保護者の欄に名前を書いた。
「担当は、自分が引き受けます」
氷室さんはそう言って、名刺を一枚、ノートの間に挟んだ。
*
一週間がたった。
仮の身分証明書は、冷蔵庫の扉にマグネットで留めてある。珠はときどき、そこに押された市の印を指でなぞっている。戸籍の手続きは真壁さんが書類を揃えてくれて、来月、家庭裁判所に行く。夜勤は約束どおり二回多く入れた。夜勤の夜は、俺が頭を下げて頼んで、珠は大家さんの部屋で過ごしている。大家さんは「テレビの相手ができて助かるわ」と言ってくれた。
夜勤明けの朝、自販機で買ったまま冷めた缶コーヒーをちゃぶ台に置いたら、珠が黙って手に取った。少しして返ってきた缶は、ちょうど持っていられるくらいに温かかった。ちゃぶ台も、珠の指も、何ともなかった。
氷室さんの一回目の面談は三十分で終わった。寝床の配置を聞かれて、俺は台所ですと答えた。ノートの続きを渡すと、氷室さんは目を通して「次回は一か月後です」と言い、帰っていった。スプーンも、もう曲げなくなった。
その夜、珠が夕飯の支度をすると言った。
炊飯器が鳴ると、珠は冷蔵庫を開けて、卵を二つ取り出した。
俺は箸を持ったまま固まった。この一週間、俺はこの部屋で卵を割っていない。
珠は卵を茶碗の縁に当てて、こん、と割った。黄身がご飯の上に落ちた。もう一つも割って、醤油を回しかけて、一つを俺の前に置いた。
「たべてみたかった」
珠は自分の茶碗をかき混ぜて、一口食べた。
「おいしい」
俺は笑った。何がおかしいのか自分でもよく分からないまま、しばらく笑っていた。それから、自分の分をかき混ぜた。
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