代役 :約2500文字
とある会社の休憩スペース。自動販売機が低く唸るような音を立て、隅には背の高い観葉植物が形ばかりに置かれていた。窓から差し込む穏やかな午後の陽が床に淡い光の帯を作り、その中に細かな埃がゆっくりと舞っていた。
その一角で、一人の男が立ち机に肘をついて、スマートフォンの画面を見ながらにやにやしていた。
と、そこへ先輩が一人、休憩スペースに入ってきた。彼は後輩の姿を認めると、いつもの調子で声を掛けた。
「おいっす」
「ああ、お疲れ様です」
後輩は顔を上げ、軽く会釈した。
「なんか機嫌よさそうだな」
先輩は自動販売機の前に立ち、横目で後輩を見ながら言った。
「まあ、ふふふ」
その反応に先輩は片方の眉をわずかに上げ、自動販売機のボタンを押した。ガコンと小気味よい音が響き、取り出し口に缶コーヒーが落ちた。
「どうしたんだよ、そんなににやけて」
「え? へへ、いや、実はこないだ、妻と思い出の場所に出かけたんですよ」
「へー、思い出の場所。いいじゃん」
先輩は缶コーヒーを取り出し、振り返った。
「地元の近くに桜の名所がありましてね。ほら、ここです」
後輩はそう言ってスマートフォンの画面を先輩に向けた。先輩は歩み寄りながら缶のプルタブを開け、身を乗り出すようにして画面を覗き込んだ。そこには満開の桜をバックに、笑顔でポーズを取る二人の男女の姿が写っていた。
「おー、でっけえ桜だな」
「でしょう。高校の頃、彼女と一緒に行ったんですよ」
「へー、なんかいいな、それ」
「へへ、ですよね。あ、これが当時撮った写真です」
「ほー……ん?」
「懐かしいなあ……」
後輩はやや上を向いて、しみじみと言った。一方、先輩は画面を食い入るように見つめ、次第に眉間に皺を寄せていった。やがてぽつりと言った。
「ずいぶん顔が変わったな……」
「え?」
「彼女の顔……あ、いや、そういう意味じゃないんだよ。変な意味じゃなくて、その、結構な変化だなーって……」
先輩は慌てて言葉を付け足した。しかし後輩はまるで気にする様子もなく、無邪気に笑った。
「ははは、変わったというか別人ですよ」
「ああ……は?」
「はい?」
「え、別人?」
「ええ、そうですけど」
「えっと、ごめん。ちょっと整理させてくれ。昔付き合っていた彼女と行った思い出の場所に、奥さんと一緒に写真を撮りに行ってきたんだよな?」
「はい」
「で、その彼女というのが今の奥さんですってパターンでは……」
「違いますよ」
「じゃあ怖いよ」
「怖い?」
「いや、怖いだろ」
「ああ、確かに。もし失ったらって考えると、怖いくらい幸せですねえ。へへへへ」
「そうじゃねえよ。別人なんだろ? 何の思い出もないだろ」
「いや、だから高校時代に行った場所なんですってば」
「他の人とだろ。今の奥さんにとっては思い出の場所でも何でもないじゃん」
「はい? でも僕にとっては大事な思い出の場所ですけど」
「おー……まあ、お前がいいなら別にいいけど」
先輩は一歩後ろへ下がり、缶コーヒーを一口飲んだ。相変わらず眉をひそめていたが、後輩はそんな先輩の様子など気にも留めず、上機嫌でスマートフォンを操作し始めた。
「で、こっちが思い出のカフェです。席も昔行ったときと同じなんですよお」
後輩はにこにこと笑いながら画面を見せた。そこには木目調の小さなテーブルを挟み、彼と妻が料理の皿を両手に持って、満面の笑みを浮かべる姿が写っていた。
「おー……」
「で、こっちが昔の写真です」
「……やっぱり別人だな。いや、怖っ。料理も構図も全部同じじゃねーか」
「ええ。だって思い出ですからね」
「だから、お前だけのな」
「それから、キッチンカーのソフトクリームを食べたんですよ」
「ほー……で」
「で、こっちが昔の写真です」
「やっぱり別人かよ。しかし、よくキッチンカーがその日も来てたな」
「ええ。呼びましたからね」
「呼んだ!?」
「まあ、十万円も掛かりませんでしたよ」
「いや、怖い怖い。なんでそこまでするんだよ……」
「まあ、けっこう大変でしたよ。時間を合わせるのが特に。昔の彼女とは歩くペースも違いますからね」
「時間まで!? 寒気がしてきた……」
「え、大丈夫ですか? 具合でも悪いんじゃ……」
「寄るな寄るな。お前のこだわりが怖いんだよ。奥さんがこれ知ったら引くぞ。あ、まさか伝えていないよな?」
「ええ、妻には伝えていませんよ。でも彼女も喜んでましたよ。胸に手を当てるとわかるんです」
「絶対に伝えないほうがいいぞ。マジで怖いから」
「妻は心臓が生まれつき弱くて、幼い頃からしょっちゅう入院していたらしいんですよ。だから今こうして、いろんな場所に行けるのが嬉しいみたいで。そうそう、次の休みには二人の思い出の海に行く予定なんです。楽しみだなあ」
「へー……でも、それも昔の彼女との思い出の場所なんだろ」
「ええ。聞きたいですか? 惚気させてくれますねえ。よっ、惚気させ上手!」
「聞かねえし、なんなんだよそのテンション……」
「砂浜に打ち上げられていたクラゲを見て、『ねえ、これ見て! ゼラチン!』って大はしゃぎして。ははははは。ほんともう、最高の彼女でしたよ……」
「そんなに好きなら、彼女とだけ行けよ……」
「それは無理ですよ」
「そこは常識あるんだな。まあ、相手ももう結婚してるかもしれないしな」
「いや、彼女はもうこの世にいないので」
「えっ」
「事故で、ね」
後輩はすっと笑みを消し、わずかにうつむいた。
「それは、その、気の毒だったな……」
「いいんです。今は妻がいますから」
後輩は顔を上げ、にっこりと笑った。
「あ、ああ。そうだな。たまには一人で思い出に浸っても、罰は当たらないよな」
先輩は小さく頷きながらそう言った。慰めのつもりだった。ところが、後輩はきょとんとした顔で首をかしげた。
「一人じゃありませんよ。彼女も一緒です」
「え? ああ、奥さんか」
「いえ、彼女ですよ。このあたりにいます」
後輩はそう言うと、スマートフォンの画面に映った妻の胸元を指先でとんとんと叩いた。
「ちょっとずつ似てきてるんですよねえ。表情とか仕草とか。やっぱり記憶が残ってるんだなあ。ふふふ……。あ、そろそろ仕事戻りまーす」
後輩はスマートフォンをポケットにしまうと、弾むような足取りで休憩スペースを出ていった。
その背中を黙って見送った先輩は、誰もいなくなった出口を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「怖っ……」




