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名前も知らないあなたが電車に乗らなくなった日から、私の世界は色を失った——だから探しに行く。会ったこともない、たった一人のあなたを

作者: uta
掲載日:2026/05/21

今朝も、あの席が空いている。


三日目だ。


吊り革を握る手に、じわりと汗がにじんだ。視線は自然と、窓際から二番目の紺色のシートに吸い寄せられる。


誰も、いない。


満員電車の喧騒が、やけに遠い。私だけが別の世界に取り残されたみたいに、息がうまくできなかった。


——おかしいよ。たかが、名前も知らない人がいないだけなのに。


でも、心臓は正直だった。


どくん、どくん、と不安を刻み続けている。



私の名前は柊真白。二十八歳。中堅商社の経理部に勤める、どこにでもいる——いや、「どこにいても気づかれない」タイプの会社員だ。


色素の薄い髪を一つに束ねて、いつも俯いて歩く。目の下には消えない隈。淡いベージュのコートは、街の風景に溶け込むためにあるみたいだった。


「柊さん、この書類何回目?」


会社に着くなり、氷室先輩の声が飛んできた。経理部の古株。派手な化粧と、突き刺さるような視線。私の天敵だ。


「三回目なんだけど。何回言えばわかるの?」


周囲の同僚たちが、ちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らす。関わりたくないのだ。わかる。私だって、できることなら関わりたくない。


「すみません……」


「すみませんじゃなくて。あなたがいると仕事が増えるの、わかってる?」


胃がきゅっと縮む。俯いて、書類を受け取った。指先が、かすかに震えていた。


——大丈夫。いつものこと。慣れてる。


自分にそう言い聞かせる。もう何年も、そうやって生きてきた。



夜、アパートに帰って、母に電話をかけた。来週、誕生日だから。


『あら、真白。珍しいわね』


「お母さんの誕生日、何か欲しいものある?」


『いいわよ、気を遣わなくて。美月が素敵なレストラン予約してくれたから』


美月。私の妹。三つ下で、艶やかな黒髪にぱっちりした目。モデル体型で、アパレルでバリバリ働く、母の自慢の娘。


『あんたも来る? まあ、忙しいなら無理しなくていいけど』


——来てほしくないんだ。


声のトーンでわかる。期待されていない。むしろ、いない方がいいと思われている。


「……うん、仕事あるから」


『そう。じゃあね』


ぶつり、と通話が切れた。


私はベッドに倒れ込んで、天井を見上げた。


何をやっても駄目。誰からも必要とされない。


そんな人生を、もう二十八年も続けている。


——でも。



彼を見つけたのは、一年前の春だった。


毎朝七時四十二分の電車。三両目。窓際から二番目の席。


黒縁眼鏡に、仕立ての良いスーツ。整った顔立ち。最初は、ただの乗客だった。


でも、ある日気づいたのだ。


彼の目。どこか空虚で、遠くを見ている。周りに何十人もの人がいるのに、誰のことも見ていない。透明な箱の中にいるみたいに、孤立していた。


——この人も、孤独なんだ。


そう思った瞬間、心臓が跳ねた。


それから私は、毎朝こっそり彼を見るようになった。


本を読む横顔。眼鏡を押し上げる仕草。時折、窓の外を見つめる目。


話しかけたことは、一度もない。名前も知らない。声だって聞いたことがない。


でも、彼を見ている時間だけ、世界に色があった。


会社で何を言われても、家族に疎まれても、「明日の朝、彼に会える」と思えば、なんとか息ができた。


彼は私の、たった一つの光だった。



四日目。


空席。


五日目。


空席。


六日目——


電車を降りて、ホームに立つ。人の波に押されながら、私は呆然としていた。


病気? 引っ越し? 転勤?


可能性はいくらでも浮かぶ。でも、確かめる術がない。名前も知らないのだ。どこの誰で、何をしている人なのかも。


——もう、会えないの?


急に、息ができなくなった。


視界がぼやける。周りの音が遠くなる。膝から力が抜けそうになった瞬間——


「ちょっと、大丈夫ですか!?」


誰かに腕を掴まれた。顔を上げると、人懐っこい顔をした若い男性がこちらを覗き込んでいた。


「顔、真っ青ですよ。ベンチ座ります?」


「あ……すみません、大丈夫、です……」


「大丈夫じゃない顔してますって。ほら、こっち」


強引に腕を引かれ、ベンチに座らされた。彼は隣に腰を下ろして、鞄からペットボトルの水を取り出した。


「はい、これ。未開封だから安心してください」


「……ありがとう、ございます」


水を受け取る。冷たい。その感触で、少しだけ現実に引き戻された。


「俺、小鳥遊っていいます。たかなし。毎朝同じ電車ですよね?」


「え?」


「三両目。あなた、いつも向かいの席見てるでしょ」


心臓が止まりそうになった。


「ばれてた……?」


「いや、俺も暇だから周り見てるだけで。——あの眼鏡の人、最近見ないですね」


彼のことだ。


気づいたら、私は小鳥遊さんの腕を掴んでいた。


「あの人のこと、何か知ってますか!?」


「え、いや、知らないですけど……。知り合いなんですか?」


「……知り合いじゃ、ない」


「じゃあ彼氏?」


「違う」


「友達?」


「……話したことも、ない」


小鳥遊さんが目を丸くした。


「えっ、じゃあ誰!?」


——誰、と聞かれても。


「……わからない。名前も、どこに住んでるかも、何も知らない」


「何も知らないのに、そんな顔してるんですか」


彼は呆れたように——でも、馬鹿にするようではなく——首を傾げた。


「探さないんですか?」


「え?」


「だって、そんなに気になるなら。探せばいいじゃないですか」


「でも、手がかりが何も……」


「諦めたら関係性ゼロじゃないですか」


小鳥遊さんは、妙に真剣な顔で言った。


「マイナスにすらならない。プラスになる可能性を、自分で捨てることになりますよ」


——プラスになる可能性。


考えたこともなかった。私なんかが、誰かに近づいていいなんて。迷惑をかけるだけだって、ずっと思っていた。


でも。


彼がいない世界は、こんなにも色がない。


「……探して、どうするんですか。私」


「さあ? そんなの探してから考えればいいんじゃないですか」


小鳥遊さんは笑った。無責任で、でも、どこか眩しい笑顔だった。



その夜、私は初めて自分の意志で動いた。


ノートを開いて、彼について覚えていることを全部書き出す。


読んでいた本。IT関連のビジネス書が多かった。


スーツのブランド。仕立てがいい。安物じゃない。


降りる駅。新宿。私より先に降りて、南口方面に向かっていた。


——手がかりは、ある。


名前も知らない誰かを、探し始める。こんなこと、馬鹿げてる。ストーカーみたいだ。気持ち悪いと思われるかもしれない。


でも。


——私、あの人に会いたい。


生まれて初めて、「私なんか」じゃなく、「私が」と思った。


私が、会いたい。


ペンを握る手が震えていた。怖いからじゃない。


——これが、私の意志なんだ。


窓の外で、夜が白み始めていた。



「見つけた、かもしれません」


三日後。小鳥遊さんからLINEが来た。


仕事中だったけど、トイレに駆け込んでスマホを開いた。


送られてきたのは、あるIT企業のウェブサイト。「メンバー紹介」のページ。


スクロールして——息が止まった。


深見蓮。プロジェクトマネージャー。


写真の中の彼が、微笑んでいた。黒縁眼鏡。整った顔立ち。見慣れた、でも初めて見る表情。


「深見……蓮さん……」


声に出すと、急に彼が実在の人物になった。今まではただの「彼」だった。でも今は、名前がある。


涙が出そうになった。どうして泣きそうなのか、自分でもわからない。ただ、ずっと幽霊みたいに存在していた人が、急に輪郭を持った気がした。


——でも、どうして電車に乗らなくなったんだろう。



小鳥遊さんの知り合いの知り合いが、情報をくれた。


深見さんは、最近休職しているらしい。体調を崩して、入院しているかもしれない、と。


入院。


——だから、電車に乗れなくなったんだ。


土曜日の午後、私は都内の大学病院の前に立っていた。


確証はない。でも、来てしまった。


——何してるんだろう、私。


面会なんてできるわけがない。家族でも友人でもない、ただの、毎朝電車で見ていただけの女。


気持ち悪い。自分でもそう思う。


でも、足が動かない。帰ることもできない。


病院の自動ドアの前で立ち尽くしていると、後ろから声がかかった。


「——あれ、柊さん?」


振り向くと、小鳥遊さんが立っていた。


「なんでここに……」


「俺も様子見に来たんですよ。——で、面会は?」


「できるわけないです。私、ただの……」


「ただの?」


「……電車で見てただけの人、です」


言葉にすると、余計に惨めになった。


「でも、ここまで来たんでしょ」


小鳥遊さんは真っ直ぐに私を見た。


「ここまで来て、帰るんですか」


——帰れない。


わかってる。ここで帰ったら、一生後悔する。


「……行きます」


「頑張って。俺、ここで待ってますから」


背中を押されて、私は病院の中に入った。



一般病棟、五階。


ナースステーションで部屋番号を聞いて、廊下を歩く。心臓がうるさい。


五〇八号室。


扉の前に立つ。深呼吸を一つ。


——ノックして、いいの?


名前も知らなかった人。今は名前を知っている。でも、向こうは私のことなんか知らないはずだ。


迷惑かもしれない。怖がられるかもしれない。通報されるかもしれない。


でも。


——会いたい。


ノックした。


「……どうぞ」


低い声が聞こえた。初めて聞く、彼の声。


扉を開ける。


窓際のベッドに、彼が——深見蓮さんが座っていた。眼鏡をかけていない。少し痩せたように見える。でも、間違いない。毎朝見ていた、あの人だ。


彼がこちらを見た。


目が合う。


一瞬、彼の表情が凍った。


「——君は」


そして、信じられないことを言った。


「電車の、向かいの席の」


——え?


私を、知っている?


「どうして、ここに……」


彼の声が震えていた。私と同じくらい、動揺しているように見えた。


「あの、私……」


言葉が出てこない。何を言えばいいかわからない。


「……ずっと、探してました」


絞り出すように言った。馬鹿みたいだ。名前も知らない人を探してましたなんて。


でも彼は、怖がらなかった。通報もしなかった。


ただ、静かに微笑んだ。


「——僕も、君を探そうと思っていた」


「え?」


「電車に乗れなくなって、初めて気づいたんだ。君がいない朝が、こんなにも辛いって」


何を、言っているの。


「君を見ていたんだ。毎朝。——君だけを」


涙が溢れた。止められなかった。


「私も……私も、あなただけを見てました」


声が震える。涙で前が見えない。


「名前も知らなくて、話したこともなくて、でも、あなたがいない電車が、あなたがいない世界が、こんなに色がなくて——」


「真白さん」


——私の名前。


「知ってるの……?」


「定期入れが見えたことがあって。名前だけ、知っていた」


彼は少し照れたように視線を逸らした。


「でも、話しかける勇気がなかった。君は、僕なんかに話しかけられても迷惑だろうと思って」


——僕なんか。


私と、同じ言葉だ。


「迷惑なんかじゃないです」


私は首を振った。


「迷惑なんかじゃ、ない。私、あなたに会えて——」


言葉が詰まる。


「——生きてて、よかった」


窓から差し込む夕日が、病室をオレンジ色に染めていた。彼の空虚だった瞳に、光が宿っていた。


「——改めて。深見蓮です」


彼が手を差し出した。


「柊真白です」


私はその手を取った。


温かかった。


ずっと見ていただけの人が、今、目の前にいる。触れられる距離に、いる。


——ああ、これが、私の選んだ道なんだ。


止まっていた時計が、動き出す音がした気がした。



蓮さんの入院の理由は、過労による自律神経失調症だった。


「期待される息子」として育てられ、周囲の望む自分を演じ続けて、心と体が限界を迎えたのだという。


「電車の中で、君を見ている時だけ、演じなくてよかった」


病室で、蓮さんはそう言った。


「君は何も求めてこなかった。ただ静かにそこにいて、俯いていて。……その横顔を見ているだけで、救われていたんだ」


「私も……あなたを見ている時だけ、『私なんか』って思わなくてすんだ」


二人で笑った。少し泣いた。


「——変な話ですね」


「変ですね」


「名前も知らない人を好きになるなんて」


——好き。


今、好きって言った。


「僕は、好きでした。ずっと」


蓮さんが真っ直ぐに私を見た。


「君のことが、好きでした」


返事をしなきゃ。でも、言葉が出てこない。代わりに、また涙が溢れた。


「……私も」


声が震える。


「私も、好きでした。好き、です」


蓮さんの目が潤んでいた。


「——よかった」



翌週、蓮さんが退院した。


しばらくは自宅療養だけど、少しずつ外に出られるようになったという。


『今日、外に出られそうです。——会えますか』


LINEを見て、心臓が跳ねた。


『会いたいです』


送信してから、顔が熱くなった。



待ち合わせは、新宿御苑の近くのカフェ。


窓際の席で待っていると、扉が開いた。


蓮さんが立っていた。カジュアルなシャツとジーンズ。病院で見た時より、顔色がいい。


「……お待たせしました」


「いえ、私も今来たところで……」


嘘だ。三十分前から待っていた。でも、そんなことどうでもよかった。


彼が、目の前にいる。それだけで、胸がいっぱいだった。



閉店まで、話し続けた。


仕事のこと。家族のこと。今まで誰にも言えなかったこと。


蓮さんも、私と同じだった。期待に応え続けて、いつの間にか本当の自分がわからなくなっていた。


「君の髪が好きだった」


蓮さんが言った。


「淡い色で、光が当たると透けるみたいで。俯いている横顔も、時々窓の外を見る目も。——全部、好きだった」


「……ずるい。私だけ何も知らなかった」


「ごめん。……でも、話しかける勇気がなかったんだ」


「私も。私も、勇気がなかった」


「——でも、君は来てくれた」


蓮さんが手を伸ばして、私の手を握った。温かい。


「ありがとう。探しに来てくれて」


「……私の方こそ。生きてて、くれて、ありがとう」


窓の外で、夕焼けが街をオレンジに染めていた。



日曜日、久しぶりに実家に顔を出した。


「——で、彼氏できたの?」


美月が目を丸くしていた。


「彼氏っていうか……まだ、そういうんじゃ」


「えー、でも病院まで行ったんでしょ? それってもう告白みたいなもんじゃん」


母がキッチンから顔を出した。


「真白、あんたに彼氏?」


「だから、彼氏じゃ——」


「どうせすぐ振られるでしょ。あんたは何をやっても続かないんだから」


——いつもの言葉。でも、今日は。


「……そんなこと、ないです」


自分でも驚くほど、はっきり言えた。


母が目を見開いた。美月も。


「何よ、急に」


「そんなこと、ないです。私、ちゃんと……頑張ってるから」


声が震えた。でも、逃げなかった。


「お母さんが何て言っても、私は私のやり方で、生きていきます」


母は何か言いかけて、口を閉じた。美月が小さく息を呑む。


「……お姉ちゃん、なんか変わった?」


「変わったかも。ちょっとだけ」


私は笑った。自分でも不思議なくらい、穏やかな気持ちだった。



会社でも、少しずつ変わっていった。


「柊さん、今日も残業?」


氷室先輩の声。いつもの嫌味な響き。でも、今日は少し違って聞こえた。


「はい、もう少しで終わります」


「……ふうん」


先輩は何か言いたそうにこちらを見ていたけど、結局何も言わずに帰っていった。


——あの人も、きっと何かあったんだ。


初めて、そう思えた。



ある日の昼休み、氷室先輩が私のデスクに来た。


「……ちょっといい?」


珍しいことだった。警戒しながらついていくと、先輩は給湯室で缶コーヒーを差し出した。


「なんか、最近変わったわよね。あんた」


「……そうですか?」


「前は何言っても無反応っていうか、のれんに腕押しって感じだったけど。最近、ちゃんと目見て話すようになった」


「……気づいてたんですか」


「気づくわよ。毎日顔合わせてんだから」


先輩は缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。


「私もね、昔は散々言われたの。使えないって。何やっても駄目だって。だから、自分で這い上がるしかなかった」


「……」


「あんたがボーッとしてるの見ると、イライラしたのよ。私が必死で乗り越えたこと、何の努力もしないで諦めてるみたいで」


「すみません……」


「謝んなくていいわよ。——でも、最近は違うでしょ。何かあったの?」


私は少し迷って、でも正直に言った。


「……大切な人が、できました」


先輩は一瞬驚いた顔をして、それから、初めて見る柔らかい表情で笑った。


「そう。——頑張んなさいよ」


「……はい」



蓮さんが仕事に復帰した日、私たちは同じ電車に乗った。


七時四十二分。三両目。


でも今日は、向かいの席じゃない。


隣に、座っている。


「……緊張しますね」


「僕もです」


二人で笑った。


電車が動き出す。いつもの景色が流れていく。


——でも、全然違う。


世界に、色がある。音がある。温もりがある。


「真白さん」


「はい」


「今日から、毎朝隣にいてもいいですか」


「……いいに決まってるじゃないですか」


蓮さんが笑った。初めて見る、子供みたいな笑顔だった。


私も笑った。


向かい合っていた席が、隣り合わせになった。それだけで、世界は変わる。



「——ずっと、あなただけを見ていました」


「僕もです。ずっと、君だけを」


空席が繋いだ、一度も交わらなかった視線。


でも今は、同じ方向を見ている。


止まっていた時計が、動き出した。


私たちの物語は、ここから始まる。

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