名前も知らないあなたが電車に乗らなくなった日から、私の世界は色を失った——だから探しに行く。会ったこともない、たった一人のあなたを
今朝も、あの席が空いている。
三日目だ。
吊り革を握る手に、じわりと汗がにじんだ。視線は自然と、窓際から二番目の紺色のシートに吸い寄せられる。
誰も、いない。
満員電車の喧騒が、やけに遠い。私だけが別の世界に取り残されたみたいに、息がうまくできなかった。
——おかしいよ。たかが、名前も知らない人がいないだけなのに。
でも、心臓は正直だった。
どくん、どくん、と不安を刻み続けている。
◇
私の名前は柊真白。二十八歳。中堅商社の経理部に勤める、どこにでもいる——いや、「どこにいても気づかれない」タイプの会社員だ。
色素の薄い髪を一つに束ねて、いつも俯いて歩く。目の下には消えない隈。淡いベージュのコートは、街の風景に溶け込むためにあるみたいだった。
「柊さん、この書類何回目?」
会社に着くなり、氷室先輩の声が飛んできた。経理部の古株。派手な化粧と、突き刺さるような視線。私の天敵だ。
「三回目なんだけど。何回言えばわかるの?」
周囲の同僚たちが、ちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らす。関わりたくないのだ。わかる。私だって、できることなら関わりたくない。
「すみません……」
「すみませんじゃなくて。あなたがいると仕事が増えるの、わかってる?」
胃がきゅっと縮む。俯いて、書類を受け取った。指先が、かすかに震えていた。
——大丈夫。いつものこと。慣れてる。
自分にそう言い聞かせる。もう何年も、そうやって生きてきた。
◇
夜、アパートに帰って、母に電話をかけた。来週、誕生日だから。
『あら、真白。珍しいわね』
「お母さんの誕生日、何か欲しいものある?」
『いいわよ、気を遣わなくて。美月が素敵なレストラン予約してくれたから』
美月。私の妹。三つ下で、艶やかな黒髪にぱっちりした目。モデル体型で、アパレルでバリバリ働く、母の自慢の娘。
『あんたも来る? まあ、忙しいなら無理しなくていいけど』
——来てほしくないんだ。
声のトーンでわかる。期待されていない。むしろ、いない方がいいと思われている。
「……うん、仕事あるから」
『そう。じゃあね』
ぶつり、と通話が切れた。
私はベッドに倒れ込んで、天井を見上げた。
何をやっても駄目。誰からも必要とされない。
そんな人生を、もう二十八年も続けている。
——でも。
◇
彼を見つけたのは、一年前の春だった。
毎朝七時四十二分の電車。三両目。窓際から二番目の席。
黒縁眼鏡に、仕立ての良いスーツ。整った顔立ち。最初は、ただの乗客だった。
でも、ある日気づいたのだ。
彼の目。どこか空虚で、遠くを見ている。周りに何十人もの人がいるのに、誰のことも見ていない。透明な箱の中にいるみたいに、孤立していた。
——この人も、孤独なんだ。
そう思った瞬間、心臓が跳ねた。
それから私は、毎朝こっそり彼を見るようになった。
本を読む横顔。眼鏡を押し上げる仕草。時折、窓の外を見つめる目。
話しかけたことは、一度もない。名前も知らない。声だって聞いたことがない。
でも、彼を見ている時間だけ、世界に色があった。
会社で何を言われても、家族に疎まれても、「明日の朝、彼に会える」と思えば、なんとか息ができた。
彼は私の、たった一つの光だった。
◇
四日目。
空席。
五日目。
空席。
六日目——
電車を降りて、ホームに立つ。人の波に押されながら、私は呆然としていた。
病気? 引っ越し? 転勤?
可能性はいくらでも浮かぶ。でも、確かめる術がない。名前も知らないのだ。どこの誰で、何をしている人なのかも。
——もう、会えないの?
急に、息ができなくなった。
視界がぼやける。周りの音が遠くなる。膝から力が抜けそうになった瞬間——
「ちょっと、大丈夫ですか!?」
誰かに腕を掴まれた。顔を上げると、人懐っこい顔をした若い男性がこちらを覗き込んでいた。
「顔、真っ青ですよ。ベンチ座ります?」
「あ……すみません、大丈夫、です……」
「大丈夫じゃない顔してますって。ほら、こっち」
強引に腕を引かれ、ベンチに座らされた。彼は隣に腰を下ろして、鞄からペットボトルの水を取り出した。
「はい、これ。未開封だから安心してください」
「……ありがとう、ございます」
水を受け取る。冷たい。その感触で、少しだけ現実に引き戻された。
「俺、小鳥遊っていいます。たかなし。毎朝同じ電車ですよね?」
「え?」
「三両目。あなた、いつも向かいの席見てるでしょ」
心臓が止まりそうになった。
「ばれてた……?」
「いや、俺も暇だから周り見てるだけで。——あの眼鏡の人、最近見ないですね」
彼のことだ。
気づいたら、私は小鳥遊さんの腕を掴んでいた。
「あの人のこと、何か知ってますか!?」
「え、いや、知らないですけど……。知り合いなんですか?」
「……知り合いじゃ、ない」
「じゃあ彼氏?」
「違う」
「友達?」
「……話したことも、ない」
小鳥遊さんが目を丸くした。
「えっ、じゃあ誰!?」
——誰、と聞かれても。
「……わからない。名前も、どこに住んでるかも、何も知らない」
「何も知らないのに、そんな顔してるんですか」
彼は呆れたように——でも、馬鹿にするようではなく——首を傾げた。
「探さないんですか?」
「え?」
「だって、そんなに気になるなら。探せばいいじゃないですか」
「でも、手がかりが何も……」
「諦めたら関係性ゼロじゃないですか」
小鳥遊さんは、妙に真剣な顔で言った。
「マイナスにすらならない。プラスになる可能性を、自分で捨てることになりますよ」
——プラスになる可能性。
考えたこともなかった。私なんかが、誰かに近づいていいなんて。迷惑をかけるだけだって、ずっと思っていた。
でも。
彼がいない世界は、こんなにも色がない。
「……探して、どうするんですか。私」
「さあ? そんなの探してから考えればいいんじゃないですか」
小鳥遊さんは笑った。無責任で、でも、どこか眩しい笑顔だった。
◇
その夜、私は初めて自分の意志で動いた。
ノートを開いて、彼について覚えていることを全部書き出す。
読んでいた本。IT関連のビジネス書が多かった。
スーツのブランド。仕立てがいい。安物じゃない。
降りる駅。新宿。私より先に降りて、南口方面に向かっていた。
——手がかりは、ある。
名前も知らない誰かを、探し始める。こんなこと、馬鹿げてる。ストーカーみたいだ。気持ち悪いと思われるかもしれない。
でも。
——私、あの人に会いたい。
生まれて初めて、「私なんか」じゃなく、「私が」と思った。
私が、会いたい。
ペンを握る手が震えていた。怖いからじゃない。
——これが、私の意志なんだ。
窓の外で、夜が白み始めていた。
◇
「見つけた、かもしれません」
三日後。小鳥遊さんからLINEが来た。
仕事中だったけど、トイレに駆け込んでスマホを開いた。
送られてきたのは、あるIT企業のウェブサイト。「メンバー紹介」のページ。
スクロールして——息が止まった。
深見蓮。プロジェクトマネージャー。
写真の中の彼が、微笑んでいた。黒縁眼鏡。整った顔立ち。見慣れた、でも初めて見る表情。
「深見……蓮さん……」
声に出すと、急に彼が実在の人物になった。今まではただの「彼」だった。でも今は、名前がある。
涙が出そうになった。どうして泣きそうなのか、自分でもわからない。ただ、ずっと幽霊みたいに存在していた人が、急に輪郭を持った気がした。
——でも、どうして電車に乗らなくなったんだろう。
◇
小鳥遊さんの知り合いの知り合いが、情報をくれた。
深見さんは、最近休職しているらしい。体調を崩して、入院しているかもしれない、と。
入院。
——だから、電車に乗れなくなったんだ。
土曜日の午後、私は都内の大学病院の前に立っていた。
確証はない。でも、来てしまった。
——何してるんだろう、私。
面会なんてできるわけがない。家族でも友人でもない、ただの、毎朝電車で見ていただけの女。
気持ち悪い。自分でもそう思う。
でも、足が動かない。帰ることもできない。
病院の自動ドアの前で立ち尽くしていると、後ろから声がかかった。
「——あれ、柊さん?」
振り向くと、小鳥遊さんが立っていた。
「なんでここに……」
「俺も様子見に来たんですよ。——で、面会は?」
「できるわけないです。私、ただの……」
「ただの?」
「……電車で見てただけの人、です」
言葉にすると、余計に惨めになった。
「でも、ここまで来たんでしょ」
小鳥遊さんは真っ直ぐに私を見た。
「ここまで来て、帰るんですか」
——帰れない。
わかってる。ここで帰ったら、一生後悔する。
「……行きます」
「頑張って。俺、ここで待ってますから」
背中を押されて、私は病院の中に入った。
◇
一般病棟、五階。
ナースステーションで部屋番号を聞いて、廊下を歩く。心臓がうるさい。
五〇八号室。
扉の前に立つ。深呼吸を一つ。
——ノックして、いいの?
名前も知らなかった人。今は名前を知っている。でも、向こうは私のことなんか知らないはずだ。
迷惑かもしれない。怖がられるかもしれない。通報されるかもしれない。
でも。
——会いたい。
ノックした。
「……どうぞ」
低い声が聞こえた。初めて聞く、彼の声。
扉を開ける。
窓際のベッドに、彼が——深見蓮さんが座っていた。眼鏡をかけていない。少し痩せたように見える。でも、間違いない。毎朝見ていた、あの人だ。
彼がこちらを見た。
目が合う。
一瞬、彼の表情が凍った。
「——君は」
そして、信じられないことを言った。
「電車の、向かいの席の」
——え?
私を、知っている?
「どうして、ここに……」
彼の声が震えていた。私と同じくらい、動揺しているように見えた。
「あの、私……」
言葉が出てこない。何を言えばいいかわからない。
「……ずっと、探してました」
絞り出すように言った。馬鹿みたいだ。名前も知らない人を探してましたなんて。
でも彼は、怖がらなかった。通報もしなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
「——僕も、君を探そうと思っていた」
「え?」
「電車に乗れなくなって、初めて気づいたんだ。君がいない朝が、こんなにも辛いって」
何を、言っているの。
「君を見ていたんだ。毎朝。——君だけを」
涙が溢れた。止められなかった。
「私も……私も、あなただけを見てました」
声が震える。涙で前が見えない。
「名前も知らなくて、話したこともなくて、でも、あなたがいない電車が、あなたがいない世界が、こんなに色がなくて——」
「真白さん」
——私の名前。
「知ってるの……?」
「定期入れが見えたことがあって。名前だけ、知っていた」
彼は少し照れたように視線を逸らした。
「でも、話しかける勇気がなかった。君は、僕なんかに話しかけられても迷惑だろうと思って」
——僕なんか。
私と、同じ言葉だ。
「迷惑なんかじゃないです」
私は首を振った。
「迷惑なんかじゃ、ない。私、あなたに会えて——」
言葉が詰まる。
「——生きてて、よかった」
窓から差し込む夕日が、病室をオレンジ色に染めていた。彼の空虚だった瞳に、光が宿っていた。
「——改めて。深見蓮です」
彼が手を差し出した。
「柊真白です」
私はその手を取った。
温かかった。
ずっと見ていただけの人が、今、目の前にいる。触れられる距離に、いる。
——ああ、これが、私の選んだ道なんだ。
止まっていた時計が、動き出す音がした気がした。
◇
蓮さんの入院の理由は、過労による自律神経失調症だった。
「期待される息子」として育てられ、周囲の望む自分を演じ続けて、心と体が限界を迎えたのだという。
「電車の中で、君を見ている時だけ、演じなくてよかった」
病室で、蓮さんはそう言った。
「君は何も求めてこなかった。ただ静かにそこにいて、俯いていて。……その横顔を見ているだけで、救われていたんだ」
「私も……あなたを見ている時だけ、『私なんか』って思わなくてすんだ」
二人で笑った。少し泣いた。
「——変な話ですね」
「変ですね」
「名前も知らない人を好きになるなんて」
——好き。
今、好きって言った。
「僕は、好きでした。ずっと」
蓮さんが真っ直ぐに私を見た。
「君のことが、好きでした」
返事をしなきゃ。でも、言葉が出てこない。代わりに、また涙が溢れた。
「……私も」
声が震える。
「私も、好きでした。好き、です」
蓮さんの目が潤んでいた。
「——よかった」
◇
翌週、蓮さんが退院した。
しばらくは自宅療養だけど、少しずつ外に出られるようになったという。
『今日、外に出られそうです。——会えますか』
LINEを見て、心臓が跳ねた。
『会いたいです』
送信してから、顔が熱くなった。
◇
待ち合わせは、新宿御苑の近くのカフェ。
窓際の席で待っていると、扉が開いた。
蓮さんが立っていた。カジュアルなシャツとジーンズ。病院で見た時より、顔色がいい。
「……お待たせしました」
「いえ、私も今来たところで……」
嘘だ。三十分前から待っていた。でも、そんなことどうでもよかった。
彼が、目の前にいる。それだけで、胸がいっぱいだった。
◇
閉店まで、話し続けた。
仕事のこと。家族のこと。今まで誰にも言えなかったこと。
蓮さんも、私と同じだった。期待に応え続けて、いつの間にか本当の自分がわからなくなっていた。
「君の髪が好きだった」
蓮さんが言った。
「淡い色で、光が当たると透けるみたいで。俯いている横顔も、時々窓の外を見る目も。——全部、好きだった」
「……ずるい。私だけ何も知らなかった」
「ごめん。……でも、話しかける勇気がなかったんだ」
「私も。私も、勇気がなかった」
「——でも、君は来てくれた」
蓮さんが手を伸ばして、私の手を握った。温かい。
「ありがとう。探しに来てくれて」
「……私の方こそ。生きてて、くれて、ありがとう」
窓の外で、夕焼けが街をオレンジに染めていた。
◇
日曜日、久しぶりに実家に顔を出した。
「——で、彼氏できたの?」
美月が目を丸くしていた。
「彼氏っていうか……まだ、そういうんじゃ」
「えー、でも病院まで行ったんでしょ? それってもう告白みたいなもんじゃん」
母がキッチンから顔を出した。
「真白、あんたに彼氏?」
「だから、彼氏じゃ——」
「どうせすぐ振られるでしょ。あんたは何をやっても続かないんだから」
——いつもの言葉。でも、今日は。
「……そんなこと、ないです」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
母が目を見開いた。美月も。
「何よ、急に」
「そんなこと、ないです。私、ちゃんと……頑張ってるから」
声が震えた。でも、逃げなかった。
「お母さんが何て言っても、私は私のやり方で、生きていきます」
母は何か言いかけて、口を閉じた。美月が小さく息を呑む。
「……お姉ちゃん、なんか変わった?」
「変わったかも。ちょっとだけ」
私は笑った。自分でも不思議なくらい、穏やかな気持ちだった。
◇
会社でも、少しずつ変わっていった。
「柊さん、今日も残業?」
氷室先輩の声。いつもの嫌味な響き。でも、今日は少し違って聞こえた。
「はい、もう少しで終わります」
「……ふうん」
先輩は何か言いたそうにこちらを見ていたけど、結局何も言わずに帰っていった。
——あの人も、きっと何かあったんだ。
初めて、そう思えた。
◇
ある日の昼休み、氷室先輩が私のデスクに来た。
「……ちょっといい?」
珍しいことだった。警戒しながらついていくと、先輩は給湯室で缶コーヒーを差し出した。
「なんか、最近変わったわよね。あんた」
「……そうですか?」
「前は何言っても無反応っていうか、のれんに腕押しって感じだったけど。最近、ちゃんと目見て話すようになった」
「……気づいてたんですか」
「気づくわよ。毎日顔合わせてんだから」
先輩は缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。
「私もね、昔は散々言われたの。使えないって。何やっても駄目だって。だから、自分で這い上がるしかなかった」
「……」
「あんたがボーッとしてるの見ると、イライラしたのよ。私が必死で乗り越えたこと、何の努力もしないで諦めてるみたいで」
「すみません……」
「謝んなくていいわよ。——でも、最近は違うでしょ。何かあったの?」
私は少し迷って、でも正直に言った。
「……大切な人が、できました」
先輩は一瞬驚いた顔をして、それから、初めて見る柔らかい表情で笑った。
「そう。——頑張んなさいよ」
「……はい」
◇
蓮さんが仕事に復帰した日、私たちは同じ電車に乗った。
七時四十二分。三両目。
でも今日は、向かいの席じゃない。
隣に、座っている。
「……緊張しますね」
「僕もです」
二人で笑った。
電車が動き出す。いつもの景色が流れていく。
——でも、全然違う。
世界に、色がある。音がある。温もりがある。
「真白さん」
「はい」
「今日から、毎朝隣にいてもいいですか」
「……いいに決まってるじゃないですか」
蓮さんが笑った。初めて見る、子供みたいな笑顔だった。
私も笑った。
向かい合っていた席が、隣り合わせになった。それだけで、世界は変わる。
◇
「——ずっと、あなただけを見ていました」
「僕もです。ずっと、君だけを」
空席が繋いだ、一度も交わらなかった視線。
でも今は、同じ方向を見ている。
止まっていた時計が、動き出した。
私たちの物語は、ここから始まる。




