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愛が灯しとなる暁日(ぎょうじつ)  作者: 浮世雲のジュン


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第五話 ふたりきりの帰り道

第五話 ふたりきりの帰り道

翌日は、朝から雨だった。

強い雨ではない。

音を立てて世界を塗り替えるような雨じゃなくて、町

全体の輪郭を少しだけ曖昧にする雨だった。

窓ガラスに細い筋がいくつも流れ、校庭の土はやわら

かく色を深めている。

こういう日は、みんな少しだけ静かになる。

教室のざわめきも、晴れた日のそれより低かった。 笑

い声はあるけれど、どこか布を一枚かぶせたみたいに

僕は席につきながら、昨日の帰り道を思い出していた。

うまく言えなかったこと。

湊がそれ以上踏み込まなかったこと。

海の見える曲がり角で、何も言わずに別れたこと。

たったそれだけなのに、僕の中にはまだ小さな引っか

かりが残っていた。

それは後悔に近いのかもしれなかった。

でも、あのままにしておくには、少しだけ気になる。

そういう半端な感じが、いちばん厄介だった。

一時間目と二時間目のあいだ、僕は窓の外ばかり見て

いた。


雨はとぎれず、低い空が校舎の上にのしかかっている。

遠くの海は見えない。 でも、見えないときのほうが、

海は近くにある気がした。

昼休み、真帆が僕の机の横に来た。

「今日、だいぶ降ってるね」

「たぶん」

「たぶんって何」

「まだ決めてない」

真帆は僕の顔を見て、少しだけ笑った。

「昨日のこと、まだ引っかかってる?」

「何の」

「“なんでもない”のやつ」

僕は答えずに、机の端を指でなぞった。

真帆はそれ以上追及しなかった。 ただ、パンの袋を持

ったまま言った。

「雨の日って、言えなかったこと考えるのに向いてる

よね」

「向いてるのか、それ」

「少なくとも、忘れるのには向いてない」

それだけ言って、真帆は友達のほうへ戻っていった。


忘れるのには向いてない。

たしかにそうだった。

昨日のことは、雨の音に混じって朝からずっと残って

いた。

僕が靴を履き替えていると、横から声がした。

「傘、持ってるか」

見ると、湊が立っていた。

「持ってる」

「ならよかった」

それだけ言って行ってしまうのかと思ったら、湊はそ

の場に立ったままだった。

僕もすぐには動けなかった。

「昨日」と、先に口を開いたのは湊だった。

僕は顔を上げた。

「なんか悪かったなら、悪かった」

あまりにもまっすぐだったので、一瞬何を返せばいい

のか分からなかった。

「…… 別に、湊が悪いわけじゃない」

「でも、お前、少し変だった」

「それは」


言いかけて、止まる。

ここで誤魔化したら、たぶんまた同じになる。

でも、正直に言うにはまだ少し怖い。

昇降口の屋根を打つ雨音が、細かく続いている。

人の出入りはもう少なくなっていた。 みんな、さっさ

と帰ってしまったのだろう。 僕たちのまわりだけ、少し

時間が遅くなったみたいだった。

「…… 昨日、教室で」

ようやく口を開く。

「教室?」

「湊が、女子と話してたとき」

そこまで言うと、自分でもひどく子どもっぽいことを

言っている気がして、耳のあたりが少し熱くなった。

湊はすぐには何も言わなかった。

ただ、僕を見ていた。 あの“見てるだけ”の目で。

「それ見て、少し落ち着かなかった」

「何でか、自分でもよく分からなかったけど」

そこまで言って、僕は小さく息をついた。

「…… でも、たぶん少し、嫌だったんだと思う」

ようやく言えた。


言ってしまえば簡単だったのに、そこまでがひどく長

かった。

湊は視線を少しだけ落として、それから短く言った。

「そっか」

それだけだった。

でもその短さの中に、笑ったりごまかしたりしないも

のがあった。

「ごめん」

と僕は言った。

「何が」

「いや、その…… 勝手に気にして、勝手に機嫌悪くな

って」

「機嫌悪かったのか」

「少しだけ」

「少しじゃなかった気がするけど」

その返しが少しだけおかしくて、僕は思わず笑った。

湊も、ほんの少し口元をゆるめた。

「でも」と湊が言う。

「嫌だったって言われるの、そんなに嫌じゃない」

「そうなのか」


「どうでもいい相手なら、たぶん何も思わないから」

その言葉に、胸の奥で何かが静かに動いた。

雨の日の空気みたいに、やわらかく、でも確かに形を

変えるものだった。

僕たちは傘を差して、学校を出た。

雨はまだ細かく降っていた。 坂道の脇の草は濡れて色

を深くし、水たまりには灰色の空が小さく揺れている。

しばらく歩いて、湊が言った。

「昨日、話してたのは課題のことだけだよ」

「分かってる」

「分かってる顔じゃなかった」

「それは…… そうかもしれない」

「別に、誰と話すなとか言われたら困るけど」

「そんなこと言わない」

「だろうな」

雨が傘を打つ音が続く。

顔を上げると、湊の傘のふちから細い水が落ちていた。

「でも」と僕は言った。

「でも?」

「分かってても、嫌なときはあるんだなって思った」


湊は少し黙って、それから言った。

「あるだろうな」

それは慰めでも正論でもなく、ただ認める声だった。

その言い方に、僕は少しだけ救われた。

「雫」と湊が呼んだ。

「なに」

「お前、そういうの言えるようになったんだな」

雨のせいか、その声はいつもより近く聞こえた。

「以前なら、たぶん言えなかった」

「言えなかっただけだよ」

「同じじゃないだろ」

その違いは、僕にも分かる気がした。

言わないのと、言えないのは、似ているようで少し違

う。

前の僕はたぶん、後者だった。

でも今は、怖いと思いながらでも、少しずつ言葉のほ

うへ近づけるようになっている。

坂道の途中で、風が吹いた。

傘が少し揺れる。

雨の匂いの向こうに、かすかに海の匂いが混ざってい

た。


「宙」

「秘密基地の点検、雨でもやってるかもな」

「それ、ただ木の下に行ってるだけじゃないか」

「本人は本気だろ」

僕たちは少し笑った。

昨日までの引っかかりが、完全に消えたわけじゃない。

でも少なくとも、黙ったままよりはずっとましだった。

海の見える曲がり角まで来る。

今日は、雨の向こうに海がぼんやりとしか見えない。

それでも、そこにあることだけは分かる。

見えなくても、なくなってはいない。

「昨日よりは、ちゃんと帰れそうだな」と湊が言った。

「昨日、ちゃんと帰れてなかったみたいに言うな」

「そういう顔してた」

「ほら、また」

「見てた」

僕は少しだけ笑って、それから言った。

「じゃあ、今日はどう見える」

湊は少し考えてから答えた。


「ちゃんとここにいる」

その言葉を聞いたとき、不思議なくらい静かに胸の奥

があたたまった。

劇的なことは何も起きていない。

ただ雨の帰り道で、自分の気持ちを少しだけ言って、

それを相手がちゃんと受け取った。 それだけ

でも、そういうことのほうが、僕には大きかった。

「そっか」と僕は言った。

海からの風がまた吹いた。

僕は傘の柄を握り直す。

遠くまで見えるわけじゃない。

この先のことも、まだ分からない。

それでも、足元はちゃんと見えていた。

祖母のランタンのことを、ふと思い出す。

明るすぎない灯り。

足元だけを見せてくれる灯り。

きっと今も、必要なのはそれなんだと思う。

今日をちゃんと歩いて帰れるくらいの、小さな明るさ

があればいい。

「じゃあ、また明日」と湊が言った。

「うん。また明日」


湊と別れて家のほうへ歩きながら、僕は思った。

人と近づくというのは、たぶん、黙ったまま分かり合

うことじゃない。

言いにくいことを、それでも少しずつ言葉にしていく

ことなのかもしれない。

そのたびに風は吹くし、雨の日もある。

でも、それでも消えないものがあるなら、たぶん大丈

夫なんだろう。

雨の向こうに、家の灯りがぼんやり見えた。

その小さな明かりを見たとき、僕は少しだけ歩幅をゆ

るめた。

急がなくていいと思った。

急がなくても、帰る場所はちゃんとそこにあるのだか

言えなかったことを言う場面は、派手ではありません。

むしろ、言ってしまえば拍子抜けするくらい小さいこ

とだったりします。

でも、その小ささが大事なのだと思います。

この物語では、大きな事件よりも、そういう「ようや

く言えたひと言」のほうが効くはずです。

湊との関係も、ここで急に答えが出るわけではありま

せん。けれど、黙ったままですれ違うところから、言葉

を手渡せるところへ、少し進んだ。

それはたぶん、恋の始まりというより、信頼の形が変

わりはじめる瞬間です。

そしてその変化は、この先の波乱や揺れが来たときの

土台になります

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