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愛が灯しとなる暁日(ぎょうじつ)  作者: 浮世雲のジュン


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第三話 言えないまま、近づいていく

第三話 言えないまま、近づいていく

でも、その「ただそれだけ」が、あとになって静かに

効いていた。

大きな波じゃない。

誰にも気づかれないくらいの、小さな揺れだった。

それでも静かな水面に落ちた一滴みたいに、たしかに

広がっていくものがあった。

家に帰ると、玄関先で母が買い物袋の中身を整理して

いた。

「おかえり」

「ただいま」

「今日は少し遅かったね」

「文子さんのところで、宙くんと少し」

母は、ああ、とやわらかくうなずいた。

「あの子、風みたいな子だもんね」

僕は靴を脱ぎながら、思わず母を見た。

「母さんもそう思う?」

「思うよ。いるだけで空気を変える子っているでしょ

う。 宙くんはそういう感じ」

そう言ってから、母は僕の顔をのぞき込んだ。


「でも、あんたも今日はちょっと違う」

「そうか」

「うれしいこと、あった顔してる」

その言い方に、少しだけ返事に詰まった。

うれしいこと。

そう言われると、たしかにそうなのかもしれない。

でも、その「うれしい」の中に何が入っているのかは、

自分でもまだはっきりしなかった。

「別に、大したことじゃないよ」

そう言うと、母はネギを出しながら笑った。

「大したことじゃないことのほうが、人を元気にする

のかもしれないよ」

その言葉は、少しだけ祖母に似ていた。

うまく説明しようとしないところが似ていた。 答えを

押しつけないまま、必要なぶんだけ残していく言い方が。

その夜、机に向かってノートを開いた。

今日あったことを並べるのは簡単だった。

宙くんが待っていたこと。

秘密基地に行ったこと。

湊に「最近、お前、よく笑う」と言われたこと。

そこまで思い出して、僕はペンを止めた。


そのひと言だけが、妙に残っていた。

大げさな言葉じゃない。

特別にやさしい声でもなかった。

なのに、まっすぐ届いた。

自分が笑っていることに、自分より先に気づいていた

のは湊だったのかもしれない。

そう思うと、少しくすぐったかった。

そして少し、怖かった。

誰かに見られている、ということ。

ちゃんとここにいる自分を、誰かに見つけられてしま

うこと。

前の僕なら、たぶんそれを避けていた。 見つからない

ように、目立たないように、静かにしていればいいと思

っていた。

でも今は、見つけられることが、それほど嫌じゃない。

むしろ少しだけ、うれしいのかもしれなかった。

「…… 何なんだろうな」

小さくつぶやいて、ノートに一行だけ書いた。

今日、風が気持ちよかった。

それは嘘じゃなかった。

でも、本当の全部でもなかった。


気持ちよかったのは風だけじゃない。 木漏れ日も、宙

くんの声も、湊の隣に立っていた時間も、全部少しず

けれど、それを今すぐ言葉にしてしまうのは、まだ早

い気がした。

僕はノートを閉じ、窓を少しだけ開けた。

夜の風が、昼より少しだけ冷たく頬をなでた。

海のほうから来る風には、いつも少しだけ思い出が混

じっている。

祖母のランタン。

停電の夜。

母の味噌汁。

海辺の朝。

そして最近は、そこに新しいものが加わっていた。

湊の声。

宙くんの笑顔。

一緒に歩く帰り道。

人の心は、こうやって少しずつ景色を書き換えていく

のかもしれない。

翌朝、僕は少し寝不足のまま学校へ向かった。

眠れなかったわけじゃない。 眠る前に何度か昨日のこ

とを思い返して、そのたびに心の奥が少しだけ落ち着か

なくなっただけだ。


教室へ入ると、いつものざわめきがあった。

椅子を引く音。

誰かの笑い声。

プリントを配る音。

その中に湊の姿を見つけた瞬間、自分でも驚くほど意

識してしまった。

窓際の席で、机に肘をつきながら何かを読んでいる。

光が横顔に落ちて、表情の輪郭だけをやわらかく浮か

び上がらせていた。

「おはよう」

先に声をかけたのは、湊のほうだった。

「…… おはよう」

少しだけ声が上ずった。

自分でも分かるくらい不自然で、僕はすぐ鞄を机に置

いた。

「どうした」

「何が」

「ちょっと変」

「変じゃない」

「変だよ」

「変じゃないって」


そこまで言ってから、自分で少しおかしくなって、小

さく笑った。

湊もつられるように笑う。

「ほんとに、最近よく笑うな」

また言われた。

昨日と同じ言葉なのに、今朝はもっと近くに響いた。

「…… 悪い?」

ようやくそう返すと、湊はあっさり言った。

「悪くない。そのほうがいい」

また、そのひと言が残る。

どうしてこの人の言葉ばかり、こんなふうに残るんだ

ろうと思う。

もっと優しい人はいる。 もっと上手に励ます人もいる。

でも湊の言葉は、余計な飾りがない。 だからたぶん、

逃げ場がないのだ。

一時間目の授業が始まっても、僕は少し落ち着かなか

った。

黒板の文字を写しながら、自分の胸の音に気づく。

好き、という言葉はまだ遠い。

でも、意識してしまうというだけで、世界はこんなに

も変わるのかと思う。


窓の外では、風が木々を揺らしていた。

枝先が光の中で小さく動き、そのたびに教室の壁に影

が揺れた。

あの秘密基地だけじゃないのかもしれない。

人といることで、考えていることが少しだけ優しくな

る場所がある。

その場所は、どこかに決まってあるものじゃなく、誰

といるかで生まれるのかもしれない。

昼休み、僕は中庭のベンチでひとりパンを食べていた。

春の終わりの陽ざしはやわらかく、風も昨日より少し

静かだった。

袋をたたんでいると、頭の上から影が落ちた。

「ここにいた」

顔を上げると、湊が立っていた。

「探してたのか」

「別に」

「その“別に”は、たぶん探してたな」

「……まあな」

僕はまた笑った。


湊はベンチの端に座った。 少し距離はある。 でも、昨

日までなら気にしなかったその距離が、今日は少しだけ

意識に触れた。

「ソラ、今日は来てないのか」

「どうして」

「秘密基地の点検日らしい」

「何だそれ」

「風のぐあいを確かめるらしい」

二人で笑う。

気まずいわけじゃない。

でも、何かを言えば形が変わってしまいそうな、やわ

らかい沈黙だった。

僕は自分の指先を見ながら思った。

こういう時間が増えていくことを、自分はうれしいと

思っている。

昨日より今日。

今日より、たぶん明日。

少しずつでも近づいていく何かを、どこかで待ってい

る。

でも同時に、少し怖い。


近づくほどに、失うことも、すれ違うことも、前より

痛くなるかもしれないからだ。

「雫」

湊が静かに呼んだ。

「なに」

「お前、考えごとすると、すぐ遠く行くな」

「…… そんなに分かるか」

「分かる」

「……それは、なんだか眠い話だな」

「なんで」

「全部、見抜かれてるみたいで」

口に出すつもりのなかった言葉だった。

でも、一度出てしまったら戻らなかった。

湊は笑わなかった。

「見抜いてるわけじゃないよ」

少し間があった。

「見てるだけ」

その言葉に、胸の奥が静かに大きく揺れた。

見てるだけ。


でも、ちゃんと見ている。

それは思っていたよりずっと深く、僕の心に触れた。

風が吹いた。

でも、その何でもない昼休みの中で、たしかに何かが

動いていた。

言えない。

まだ言えない。でも、もう戻れない。

そのことだけは、もう分かっていた。

僕は胸の奥に灯った小さなものを、そっと包むみたい

に息をした。

それはまだ誰にも渡せない。

自分でも、ちゃんと見つめきれていない。

けれど海のあとに入ってくる風のように、見えないま

までもたしかに、その灯りは少しずつ育ちはじめていた

人の気持ちは、気づいた瞬間に完成するわけじゃない。

むしろ、気づいてからのほうが長い。

名前をつけるにはまだ早いのに、もう前の自分には戻

れない。 そういう中途半端な時間が、たぶんいちばん本

当なのだと思う。

「見てるだけ」という言葉は、やさしい言葉ではない

かもしれない。

でも、誠実な言葉ではある。

人を勝手に分かったつもりにならず、でも目をそらさ

ない。

それはたぶん、想うことのはじまりにいちばん近い態

度だ。

この三話で書きたかったのは、恋が始まった瞬間では

なく、まだ始まる前の空気だ。

海のあとに来る風みたいに、見えないけれど、たしか

に何かが変わりはじめている時間。

その静かな揺れを、この先も大事に書いていきたいと

思う

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