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愛が灯しとなる暁日(ぎょうじつ)  作者: 浮世雲のジュン


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第二話 宙くんが運んでくる風

昼休みが終わっても、僕の中にはまだ、さっきの風の

感触が残っていた。

風そのものというより、その風の中にあったものが残

っている感じだった。

前の僕なら、そういう残り方をうまく扱えなかった。

気のせいだと思ってやり過ごしたり、何もなかったこ

とにしてしまったりした。

でも最近は、胸の内側で何かが揺れたとき、それを揺

れたまま置いておけるようになってきた。 無理に意味を

決めなくてもいいと思えるようになってきた。

放課後、教室を出ると、昇降口のほうから声が飛んで

きた。

「しずくちゃーん!」

やっぱりいた、と思った。

宙くんは背中に少し大きめの青いリュックをしょって、

両手をぶんぶん振っていた。 全身で待っていたことが分

かる立ち方だった。

「待ってたのか」

「うん。今日は風がいい日だから」

「風がいい日?」


「そう。こういう日は、まっすぐ帰るの、もったいな

い」

五歳の言うことじゃないな、と僕は思った。

でも宙くんは、ときどき年齢の話を無効にする。 子ど

もっぽいと思った次の瞬間には、大人のほうが忘れてし

まったことを平気で言い当てる。

「ぼく、大人じゃないよ」と以前、本人が言っていた。

「でも、子どもだけでもない」

そういうところが、あの子の少し不思議なところだっ

た。

昇降口の外へ出ると、少し離れた場所で湊が靴を履き

替えていた。

「あ、みなとにいちゃん!」

「にいちゃんではない」

「じゃあ、みなとくん」

「それでいい」

「しずくちゃんと一緒に帰るの?」

湊は一瞬だけ僕を見て、それから肩をすくめた。

「たまたま方向が同じだけ」

「それを一緒って言うんだよ」


宙くんはきっぱり言った。

僕は笑いそうになるのをこらえたが、湊のほうは少し

困ったような顔をしていた。 否定しきれないとき、人は

だいたい目線をそらす。 湊もその例外じゃなかった。

三人で坂道を下りた。

学校から海のほうへ続く坂道は、午後の光を受けて白

く乾いていた。

「今日は、秘密基地に行こう」

宙くんが突然言った。

「秘密基地?」

「文子さんちの裏の、あの木のとこ」

「あそこ、ただの空き地じゃないか」

「違うよ。秘密基地は、見つけた人にしかそう見えな

いんだよ」

ずるい理屈だな、と僕は思った。

でも同時に、その言葉に少し引っかかった。 見つけた

人にしかそう見えないもの。 そういうものが人には必要

なのかもしれなかった。 大きくて誰にでも分かるものじ

ゃなくていい。 その人にとってだけ確かな場所。 祖母の

ランタンも、たぶん少し似ていた。

「あら、おかえり。宙、ちゃんと待ってたのね」


「うん。 しずくちゃんと、みなとくん、つれてきた!

「つれてこられた覚えはないけど」

湊がぼそっと言う。

文子さんはくすくす笑って、それから僕に言った。

「この子ね、朝からそわそわしてたのよ。 今日は風が

いいから、誰かと一緒にいたいんだって

思いつきじゃなかったらしい。

宙くんは本気でそう思っていたのだろう。

家の裏手へ回ると、小さな空き地があった。

大きな木が一本立っていて、その根元に古い木箱と丸

い石がいくつか並んでいる。 子どもが秘密基地と呼びた

くなる理由は、たしかに分からなくもなかった。 木漏れ

日が地面にまだらな模様をつくり、風が枝を揺らすたび

に光が少しずつ動いた。

「ここね、すごいんだよ」

宙くんが木の根元にしゃがみこんで言った。

「何が」

「ここにいると、考えてることが、ちょっとだけ優し

くなる」

僕はすぐには何も言えなかった。


冗談みたいな言葉なのに、宙くんは少しも冗談を言う

顔をしていなかった。 本当にそう感じている人間の顔だ

風が木の葉を揺らした。

ざわ、と音がした。

海の風とは違う。 家の中のぬくもりとも違う。 でもた

しかに、肩から少し力が抜ける感じがあった。 何かを急

がなくてよくなる場所、というのは、こういうものなの

かもしれない。

「ほんとだ」と僕は言った。

宙くんは満足そうに笑った。

湊は木にもたれ、腕を組んだまま空を見ていた。

「宙は、そういうの見つけるの得意だよな」

「みなとくんも、わかる?」

「少しは」

「しずくちゃんは?」

「…… ここ、なんだか急がなくていい感じがする」

僕がそう言うと、宙くんはぱっと顔を輝かせた。

「それ! それだよ!」

こういう時間を、前の僕はどこか遠くから見ていただ

けだったのかもしれないと思う。


輪の外側で、眺めているだけだったのかもしれない。

でも今は違う。

まだ完璧じゃない。

不安がなくなったわけでもない。

それでも僕は、ちゃんとこの中にいた。

宙くんは木箱の上に座り、小さな石をひとつ拾い上げ

た。

「これ、ひかる石」

「光ってないけど」

湊が言う。

「昼だからだよ」

「夜なら光るのか」

「たぶん、心のなかで」

また僕は笑った。

笑いながら、胸の奥が少し熱を持つのを感じた。 どう

してなのかは、まだうまく分からない。 ただ、この子の

言葉には、まだ名前のついていない大事なものが混ざっ

ている気がした。

僕は木の幹に手を当てた。

ざらりとした感触が指先に触れた。


祖母のランタンを磨いたときのことを、ふと思い出し

た。 古いもの、やわらかい光、急がなくていい時間。 あ

の灯りもきっと、誰かの心を少しだけ優しくするために

あったのだろう。

「雫」

湊に呼ばれて、顔を上げた。

「最近、お前、よく笑う」

あまりにもまっすぐだったので、少しだけ息が止まっ

た。

「…… そうか」

「そうだよ」

今度は宙くんが答えた。

「前より、ぜったいそう」

「二人が言うなら、そうなんだろうな」

僕がそう言うと、湊は少しだけ目を細めた。

「そのほうがいい」

そのひと言は、何でもないようでいて、妙に残った。

風がまた吹いた。

木の葉が揺れ、木漏れ日が僕の手元でゆらゆら動く。


人が誰かを好きになる前には、こういう時間が必要な

のかもしれない。

急いで名前をつけない時間。

ただ一緒にいて、風の音を聞いて、少し笑って、それ

だけで心のかたいところがほどけていく時間。

「しずくちゃん」

宙くんが僕の袖を引いた。

「なに」

「ここね、また来ようね」

「うん。また来よう」

答えた瞬間、ひとつだけ分かったことがあった。

僕はこの場所が好きなんじゃない。

この場所で一緒に笑えた時間が好きなんだ。

それはたぶん、静かな海が僕にくれたものの、その次

の形だった。

受け止められて終わるのではなく、誰かと一緒にいら

れることへ変わっていく、小さな灯り。

その入り口に、いま僕は立っているのかもしれなかった。

子どもの言葉は、ときどき正面から来すぎる。

理屈も遠慮もなく、本質だけをぽんと置いていく。 だ

から大人は少し困るし、でも結局、その言葉を忘れられ

なくなる。

宙くんにとって秘密基地は、ただの空き地ではない。

考えていることが少し優しくなる場所。

その言い方は、実際には場所のことだけを言っている

んじゃないのだと思う。 誰といるか、どんな空気の中に

いるか、その全部を含んでいる。

人の心がやわらかくなる瞬間には、たいてい説明が追

いつかない。

でも説明できないからこそ、本物なのかもしれない

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