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愛が灯しとなる日  作者: 浮世雲のジュン


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第一話 風の入り口

春の終わりの風には、少しだけ人をからかうところが

ある。

校舎の脇を抜けてきた風が、手に持っていたプリント

を一枚だけさらっていった。

紙はひどく軽そうに見えたし、実際、軽かったのだと

思う。 だから僕の指から簡単に離れた。

前の僕なら、こういう小さなことでいちいち落ち着か

なくなった。

ちゃんと持っていなかった自分のこと。

誰かに見られたかもしれないこと。

たったそれだけのことで、胸の内側に細い針みたいな

ものが残った。

でも、その日は少し違っていた。

白い紙は植え込みの手前で止まり、最後に一度だけひ

るがえった。

それを誰かが拾った。

「はい」

顔を上げると、湊がいた。

「ありがとう」

「ぎりぎり海までは行かなかったな

「行ったら困る」

「その場合、かなり壮大な提出遅れになる」

僕は少し笑った。

少し前まで、湊の前でこんなふうに笑えるとは思って

いなかった。

会話を返すだけで精いっぱいだったころと比べれば、

たしかに何かは変わっていた。

ただ、その変化にまだ名前はない。 名前が必要かどう

かも、よく分からなかった。

僕たちは並んで廊下を歩いた。

昼休み前の学校には、中途半端なざわめきがある。 椅

子を引く音、誰かの笑い声、窓を叩く風、廊下の向こう

で誰かが走って先生に止められる声。 どれも別々の音な

のに、ちゃんと同じ場所の音としてまとまって聞こえる。

不思議なものだと思う。

「最近、少し変わったな」

湊が前を見たまま言った。

「そうか」

「前より、ちゃんとここにいる感じがする」

その言い方があまりにもさりげなかったので、僕はす

ぐに返事ができなかった

前より、ちゃんとここにいる。

そう言われると、そんな気もした。

朝の海を見たとき、母の置いていった味噌汁の湯気を

見たとき、自分でも似たようなことを思ったことがある。

前より少しだけ、今日の中にいる。 前より少しだけ、景

色の外側じゃなくて、内側に立っている。 たぶん、そう

いうことだった。

「悪い意味じゃないから」

湊が言った。

「分かってる」

「ならいい」

それだけのやり取りだった。

でも、その短さがかえって胸に残った。

教室の前まで来たところで、廊下の向こうから大きな

声がした。

「しずくちゃーん!」

見ると、校門のあたりで宙くんが大きく手を振ってい

た。

今日は地域交流の見学で近所の子どもたちが学校へ来

ている日だった。 文子さんの家にいることが多いあの子

は、こういうとき、どういうわけか人一倍目立つ

「なんであんなに目立つんだろう」

僕が言うと、湊が笑った。

「たぶん、目立とうとしてるからだろ」

「そのままだな」

宙くんはさらに大きく手を振った。

その姿を見た瞬間、胸の奥にやわらかいものがひとつ

広がった。 自分でも説明しにくい感覚だった。 うれしい、

という言葉だけでは少し足りない。 安心とも違う。 もっ

と軽くて、でもちゃんと残るものだった。

窓の外に目をやる。

校庭の向こう、その先には海があるはずだった。 ここ

からは見えない。 けれど海の気配だけは、風に混じって

いつも届いている。 見えないもののほうが、長く残るこ

とがある。

大げさなことは何ひとつなかった。

でも、そのどれもがなければ、僕はたぶん今ここに、

こんなふうには立っていなかった。

もらったものは、胸の中にしまっておくだけのものじ

ゃないのかもしれない。

まだ小さくてもいい。

いつか、自分も誰かの灯りになれたらいいと思う。

「雫?」

湊に呼ばれて、僕は顔を上げた。

「また遠く見てる」

「ほら」

「見てた」

僕は少しだけ肩をすくめた。

教室の窓から入る風が、机の上のプリントを揺らす。

さっき拾ってもらった一枚は、今はちゃんと手の中にあ

った。

落ちかけたものが、誰かの手で戻ってくる。

そのことが、その日は妙にうれしかった。

宙くんはまだ校門の向こうで手を振っている。

僕も、小さく手を振り返した。

胸の奥に灯ったものを、僕はまだ恋とも愛とも呼べな

かった。

でもそれは、ただ静かだった時間の続きではなかった。

海のあとに入ってくる風みたいに。

やわらかくて、でもたしかに。

何かが、自分の中に入りはじめていた。


誰かに「変わったな」と言われるとき、人はたいてい、

自分で思っているより先に見つけられている。

僕にとって湊は、そういう存在なのかもしれない。

多くは言わないくせに、見ているところだけは妙に正

確だ。

そういう人の言葉は、ときどき厄介だ。 飾りがないぶ

ん、まっすぐ胸に入ってくる。

そして宙くんは、たぶん風そのものだ。

あの子がいると、景色の空気が少し変わる。

それがこの先、どんなふうに僕の時間を動かしていく

のか、まだこの時点の僕には分かっていない。

ただ、入り口というのは、たいていあとから気づくも

のだ。

あれが始まりだったのだと。


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